「 伊藤伯の進退 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 伊藤伯の進退 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 伊藤伯の進退 

明治十四年に政府が國會の開設を約束してより今日に至るまで施政上の利害得失は一にして足らず何れも當局者の責任に免れ難き所なれども我輩の所見を以てすれば伊藤伯の如きは就中その責の重きものと認めざるを得ず抑も十四年以來政府の仕事の重なるものは憲法の編纂なり一般の政略なり何れも國會開設の準備に外ならず而して其事に任じたるものは即ち伊藤伯其人なり明治十五年に伯が屬僚數名と共に歐洲に赴きたるは憲法取調の爲めにして歸朝の後は專ら其編纂に從事し扨二十二年に至りて愈々發布せられたる憲法を見れば實に完全無缺のものにして凡そ世界に立憲の邦國多しと雖も國會の開設匇々の塲合に斯る完全の憲法を見たるの談はあらざるのみか現に改進々歩の今日に於ても其例少かる可し日本の憲法は世界萬國に無比と稱するも可なり勿論憲法の發布は至尊の聖意に出でたるに外ならざれども兎に角に實際その編纂に力を致したるは伊藤伯にして隨て發布後の今日に於ても憲法維持を以て自から任ずることならん扨一方に於ては國會の準備として斯る完全の憲法を編纂しつゝある他の一方に於て政略上の準備は如何と云ふに伯は歸朝の後、間もなく宮内卿となり次て明治十八年には政府の大改革を行ひ總理大臣の任に就けり當時の政略は伯の方寸に出でたる事にして得失一樣ならざる中にも結果に就て見れば國會の開設を數年の後に控へながら其準備としては受取り難きものなきに非ず今その一二のものに就て云はんに第一爵位の制を設けて新華族を造りたるは伯が宮内に卿たりし時なれども一般の世人は之を視て伯の政略に出でたりと認めざるものなし而して其影響する所如何を問へば文明の社會に門閥の精神を新にして國民に尊卑の階級を作り以て一般の感情を損したるのみならず政府の當局者又は先輩故老にして現に政權維持の任に當る可き人々は何れも其族爵に繋がれて國會の議塲に坐席を占むることもならず滿塲の議席をば殆んど少壯後進輩の占領に任せて益々事體の困難を招きたるが如き國會準備の政略としては甚だ巧なるものと云ふ可らず又明治十九年に政府は文官試験規則なるものを定めたり其趣意は官吏の登用に情實縁故の弊を絶つの精神にして敢て非難す可きに非ざれども實際の結果は官立學校の生徒に就官の特典を與へたるのみ、一方に特典を得るものあれば一方には之を失ふ者なきを得ず天下に無數なる私立學校の生徒は何れも就官の途を杜絶され多年修學の苦労も全く水の泡と爲りて前途の方向に迷ふもの多く其不平は何れも政府を怨望するの聲に現はれて詰り一般の不人望を買ひたるものなり元來試驗規則の設も必要ならざるに非ざれども其結果は特に官立學校に私して他の後進生を官途外に排斥したるの姿と爲りたるは經世家の大膽政略に不似合なるが如し其他十四年以來伊藤伯が當局中の政略には美なるものも多きと同時に失策も亦少なからず一得一失は政治家の常にして固より咎む可きに非ず伯の政治上の技倆は我輩の飽くまでも信する所なれども其多年の政策に就ては得失共に責任を免かる可らざるや明なり如何となれば政策の美なるものあれば其功名を專にする其反對に見込違のことあれば善後の謀を爲さゞる可らず當然の義務なればなり盖し伯が右の如く完全無缺の憲法を編纂したるは其功名にして同時に施したる政策中に民心を失ふたるものもあるは見込違なり伯は此憲法を作り此政策を施して明治政府を維持するの心算なりしとなれば其政策にして結果の美ならざるものあるも樣々に之を彌縫し又改良して憲法の維持即ち國會の圓滑を謀らざる可らず伯の身に免かる可らざる所の責任なればなり然るに傳聞に據れば伯は辭職して政府外に政黨を組織するの計畫ありと云ふ其眞意の在る所容易に測る可らず伯は今の政府の不人望を見て之を厭ひ迚も國會を制御するに足らずと斷念して自から野に下り廣く人望を收めて遙に政府を助けんとの深切なるか、甚だ善しと雖も若しも果して人望を得れば其人望は伯の一身に歸するのみにして政府の重きを成すに足らざるのみか政府は却て新政黨の生じたるが爲め徃々意外の刺衝を被りて困却することある可し凡そ人の深切好意は近く相接して始めて通す可きのみ公然たる在野の政黨を以て内の政府に好意を表せんなど固より行はる可き事に非ざるなり故に我輩の所望を云へば伯にして眞實に深切あらば政府の内に好地位を占めて憲法の維持を謀り之を編纂し又隨て之を維持實行し以て功名の始終を全ふせんとして行はれ難き事情もあらば其事情を釀したる原因に就ても伯の身に聊か免かる可らざる責任あるものなりと覺悟して粉骨粹(碎の誤か)身死に至るまで政府を去らずして善後の策を講し永く明治政府の忠臣たらんこと我輩の冀望する所なり