「自家の信用を重んず可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「自家の信用を重んず可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

自家の信用を重んず可し

民間の政客が政府の不人望に乘じて當路者を苦しめんとするは政案の拙なるものに非ず明

治政府の官吏は立憲政體の實施を豫期しながら專制時代の痴情を脱すること能はず尊大自

から構へて恰も人民を辱しめ天下の人心既に之を厭惡するの折柄、政客輩が施政の過誤失

策を攻撃〈旧字〉し公衆に向て現政府の信ず可らざるを喋々したらば遂には其地位を取て

之に代はるの大願成就することもある可し攻撃〈旧字〉の鋒に當る政府こそ迷惑の次第な

れども多年の不人望を釀したるは當局者の罪にして自業自得是を如何ともす可らず唯我輩

が政客の爲めに謀りて恐る恐る所は其政府の信用を傷けんことを勉ると同時に自家の信用

を失ひ却て自から失敗することある可きの一事なり近來民黨と稱する人々の擧動を視るに

其信用の點に於て遺憾なるもの甚だ少なからず昨年の議會に於ても政府に對して極端の敵

意を表はし政府提出の議案とあれば一も二もなく之れを否决して殆んど議會の體裁を成

さゞりしより遂に解散の不幸に至りし其顛〈旧字〉末は世人の記憶する所なる可し當時世

間の識者にして苟も政黨に關係なき人々は皆民黨議員が漫に政府を苦めんと欲するの熱に

乘じ遂に國家の利害をも度外視して黨派の私の爲めに盡したるの事實を認め議會を解散し

たる政府の處置を當然なりと斷定せざる者なし即ち民黨は昨年の解散に由て幾分の信用を

損したるものにして我輩の竊に該黨の爲めに惜む所なり今年第三回の議會は昨年に比すれ

ば稍々着實温和の分子多かりしが如くなれども其政府を敵視するの一點に至ては前後大差

あることなく彼の震災費緊急勅令の承諾事件に付ても反對の議論甚だしく殆んど不承諾に

决せんとしたるが如き又軍艦製造費を全廃したるが如き何れも皆國家の大問題を利用して

以て政府を苦しめ黨派の利を進るの具に供したるまでのことにして其運動公明正大なりと

云ふ可らざるが如し尚ほ之よりも甚だしき議會の失體不都合は彼の漢醫復活の議案提出な

る可し抑も斯くまでに淺ましき愚案が然かも數十名の賛成者を得て堂々たる帝國議會の議

塲に現はれ出でんとは實に誰しも豫想せざりし所ならん三百の代議士中には隨分不文なる

人も少なからずとは我輩の兼て聞居たる所なれども此度の一擧は如何にも言語に絶えたる

案外にして我輩も今更に我代議士の學事に無頓着なるを驚くのみ或は該議案に賛成したる

議員の中には眞實心に之に感服したるには非ざれども種々の事情に迫られて已むを得ず賛

成者となりたる者多しとの説あれども若しも此説の如くならば是等の議員は國家の大問題

を議するに當り區區たる私の情實の爲めに説を二三にするものにして其無節操の罪は不學

の罪に比して遙に大なりと謂はざる可らず兎に角に衆院にて斯る議案を議するに至りしは

自から世間に向て其不學無術を吹聽するに異ならず尚ほこれにても内外の學者社會に對し

て體面を維持せんと欲するか我輩は其心事の程を解するに苦しむ者なり若しも今後に至り

斯る失體を屡〈旧字〉することもあらんには其信用は次第に消散して遂に議會は全く民間

に勢力なきものとなり政府と議會と相爭ふを見ても熱心に議會の爲めに同感を表はす者な

きに至らんこと亦疑ある可らず凡そ人の弱點を擧て其信用を傷けんと欲する者は須らく先

づ自家の言行を愼んで人をして我言ふ所に信用を置かしむるの用意こそ肝要なれ徒に人を

誹りて我一身を顧みざるは跛者が盲目を見て笑ふに異ならず偶々以て世の嘲りを招くに足

る可きのみ今の政府を攻撃〈旧字〉する者は宜しく爰に見る所ある可し