「黑幕の運命.」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「黑幕の運命.」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

黑幕の運命.

黑幕云々とは近年來政治社會に行はるゝ一種の奇語にして盖し三四の老政客が其身は既に當局の地位を去りながら微妙の間に政府との關係を保ち恰も蔭に居て之を左右する其有樣は彼の人形遣ひが黑幕の内に在りて人形を運轉使用するものゝ如しとの意味よりして斯語を下したるものならん其用語の當不當は姑く擱き兎に角に我政治社會に之と類似の地位に居るものあるは衆目の視る所にして疑ふ可らざるの事實なれば我輩も假に其語を用ひて此一類の人を黑幕の老政客と稱し扨その黑幕の運命に就て一言せんに抑も當局の政客が老衰疾病叉は他の事故の爲めに其地位に居るに堪へずして政海を辭し去るは珍らしからぬ沙汰にして何も怪しむに足らざる事なれども今の老政客の人々は心身尚ほ屈強にして叉特に其身に事故の止むを得ざるものあるに非ざるに兎角表面の局に當るを厭ふて閑散の地位に居り左ればとて敢て政治の縁を絶ちたるにも非ずして陰陽表裡の間に勢力を維持せんとするが如きは一種の奇觀にして何人も怪しまざるものはある可らず盖し其本人と雖も實際には之を以て得意と爲すに非ず今の政府は所謂情實政府にして部内の事情は外より想像すること能はざる程のものあるが故に不本意ながらも一種奇態の地位を占むることならんなれども其内情は兎も角もとして若しも其人々が今日の如くにして進むにも非ず退くにも非ずして不可思議の間に躊躇するときは遂には前途の運命も如何ある可きやと我輩は餘所ながら竊に其成行を危ぶむものなり凡そ政治上の勢力は實權の在る所に歸するものにして影あれば玆に形なきを得ず今日老政客の輩が黑幕の地位を占むる所以は畢竟その地位に伴ふ所の實權を有するが爲めに外ならずと雖も扨その實權とは如何なるものなりやと云ふに其人々は表面に於て職務上の權あるに非ざれども維新以來の地位經歴もあり且は從來の關係も淺からざるより今の所謂第二流なる當局者の推尊も一方ならず政治上重要の事柄に就ては自家の職權を外にして其相談を待つの事情なるが故に老政客の方に於ても亦情誼の上よりして相談に應ずることなる可し即ち黑幕の實權は情誼の間に存して甚だ美なるが如くなれども此種の關係は决して永續す可きものに非ず或は當局者の心に於ては何處までも之を先導として推尊するの精神なるやも知る可らずと雖も政海の風潮は朝々暮々に變化するのみならず時としては其潮勢非常に急にして其急に應ぜんとするには間、髮を容れざるの機會もあることなれば實際に於ては必ずしも其精神の通りに往かざる塲合も多かる可し例へば對議會の政略の如き今後ますます繁雜を極め隨て迅速の决斷を要するに至れば一々黑幕との相談を待つ能はざるは無論、或は時としては其意に反するの决斷もなき能はず如何となれば假令ひ其利害は同一にても既に責任無責任の別あるときは其見る所に自から緩急の差なきを得ざればなり黑幕と第二流當局者との關係は右の如くにして所謂情誼上より出でたる實權の頼むに足らざるは勿論なれども老政客の身に取りて更に大に掛念す可きは政府部内に於ける後進政客の去就にして此一事は其權力の消長に關係すること甚だ大なるものあるを知らざる可らず是迄の處にては部内に於ける少壯の政客輩は老政客の愛顧を辱ふしたる因縁もあるが故に甘んじて其指揮に隨ふのみならず時としては隱然その勢力を利用して今の當局者に重きを置かしむるなどの内情もありしならんなれども元來その輩の目的は政治上の功名に外ならざるが故に老客の擧動今日の如くにして其進退とかく曖昧なるときは何時まで其後に從ふも遂に目的を達するの期なきを悟り寧ろ職權の命ずる所に由り現在の當局者を助けて大に爲すことあらんとて次第に身構を變ずるにも至る可し人情の自然にして决して怪しむに足らざれども老政客の爲めには恰も手足を失ふと同樣の次第にして最早や如何ともす可らず如何となれば本來黑幕の勢力なるものは部内に於ける後進政客の周旋奔走その多きに居ればなり以上の推論に由りて判斷すれば黑幕の前途は甚だ頼み少なきものにして若しも此儘にて經過するときは如何なる運命に陷るやも知る可らずと我輩の竊に危ぶむ所なり近日は内閣の更迭談に關し黑幕の會合も頻々にして何か計畫する所もあるよし其人々の進退に就ては我輩は既に幾回か利害を陳して餘蘊なきが故に今更喋々せざれども唯その運命の甚だ覺束なきを見て聊か一言を試みるのみ