「領事裁判權無效の布告に就て.」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「領事裁判權無效の布告に就て.」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

領事裁判權無效の布告に就て.

日本政府は本月十四日勅令第六十四號を以て萬延元年六月十七日葡萄牙政府と締結したる條約中領事裁判權に關する條款は自今無效に歸する旨を公布したり今其條約の文面を案ずるに第五條に「葡萄牙臣民に對し惡事を爲せる日本人は日本司人にて糺し日本法度に隨て罪す可し日本人或は外國の臣民に對し惡事を爲せる葡萄牙臣民はコンシユル或は其他の官人にて糺し葡萄牙の法度に隨て罪す可し裁斷は雙方に於て偏頗なかる可し」との明文あり所謂治外法權なるものにして條約中に此個條を存する上は彼政府にては苟も同國人民の在留する日本の各居留地に必ず領事叉は其他の適當なる官人を置きて正當に裁判を執行するの義務あり即ち其二條に「葡萄牙國王は此條約にて葡萄牙貿易の爲めに開きたる日本の各港の中に在留するコンシユル或はコンシユラルアゲントを命ず可し」との明文を掲げたる所以なり然るに近年來日本の法律は次第に完備し叉その裁判の仕組も大に整頓して既に治外法權を存するの必要なきを認めたる折柄、同國政府の所爲を見るに唯一人の總領事を横濱に置くのみにて既に條約の明文に副はざる其處に此程同政府の都合にて其總領事を本國に呼還したる上、横濱在留の商人を其後任として日本人民の生命財産に關する貴重なる裁判權を一商人の手に委任したりとは如何にも解す可らざる處置にして之を其儘に付するを得ず如何となれば目下日本各所の開港塲及び居留地に在る葡萄牙人と日本人との間に交渉の事件を生ずるに當り我國人は何れの處に之を訴ふるやと云ふに從來の總領事其人さへも半官半商の身分にして實際の掛念少なからざりしに其後任者に至りては純然たる一商人にして法律裁判の事には曾て經驗なきものなりと云ふ斯る裁判人の手に生命財産與奪の權を一任するとありては不安心この上なければなり即ち日本政府が斷然心を决し領事裁判權の無效を公布したる所以にして理由の最も明白なるものなれば彼政府に於ても此正理の處置に對しては一言の辭もなかる可し而して今回の處置は單に領事裁判權の條款を無效と爲したるものに過ざれば其他の條款は總て元の儘にして依然條約國たるを失はざるが如くなれども實際に觀察すれば既に條約中の一箇條を廢棄したる以上は其全文も亦無效に歸するは自然の成行にして或は今後の行掛り次第同國人の居留を謝絶して悉く國外に退去せしむるに至るやも知る可らず今日と爲りては假令ひ彼よりして更に適當の領事を送り萬事條約の文面通り實行す可しとの申出あるも固より取合ふ可きものに非ざれば若しも彼政府に於て永く平和懇親を旨とし且商賣貿易の關係を持續せんとするには更に我國に對して改めて新條約の締結を請求するの外に策ある可らず扨その新條約の條款は如何と云ふに從來と同様のものならんには我國に於て承諾せざるは無論、叉彼政府の實際に於ても各居留地に領事を駐在せしむるが如きは財政上、許さゞるの事情もなきに非ずと云へば勢、純然たる對等條約ならざるを得ず日本と諸外國との條約中に對等條約の例として見る可きものは明治二十二年七月に公布されたる墨西哥條約にして其條款を案ずるに從來の條約とは大に趣を異にして法律裁判の權を我に收めたる其代りに内地雜居及び商賣營業の自由を彼に與へたるものなり今もし葡萄牙政府が此際他國に率先して之と同様の條約を申出で目出たく締結を見るに至らんか表面に於ては治外法權を損するものなれども實際に同國人の利する所は尋常ならず即ち日本國中到る處に往來住居共に自由なるのみならず東京市街の中央に公然商店を開き大に營業するも勝手にして然かも其自由勝手は恰も葡國人の專賣として獨り占むる所のものなれば法權云々の談などは餘所にして却て大に滿足せざるを得ず斯くて條約既に成りて其便利從前の比に非ずとあれば他の諸外國人も獨り葡人に利を占められて之を坐視す可きに非ず白耳義の如き和蘭の如き瑞西の如き何も其例に傚はんとする中にも殊に伊太利の如きは蠶卵生絲貿易の關係より内地商賣の自由を得るとあれば必ず他に先じて現行條約の改締を求むることならん但し英吉利、佛蘭西、獨逸の如き大國に至りては如何なる去就を爲す可きや容易に知る可らずと雖も兎に角に内地雜居商賣自由の恩典に取殘さるゝは自家の利益に非ずとして自から治外法權を撤去し爭ふて新條約の締結を希望するもの多きに至れば年來我國人の熱心盡力したる法權恢復の一事も今回の處置の爲めに我より求めずして却て彼より求ることゝなり案外に手易き結果を見ることもあらんかと我輩の竊に想像する所なり

右は相手なる葡國政府の手段如何に就て今後の成行を想像したるものなれども我輩の所見を以てすれば一個の商人をして領事の任に當らしむるものは獨り葡國のみに非ず和蘭の如き白耳義の如き丁抹の如き瑞典諾威の如き皆然らざるはなし或は其總領事には適任のものを置くも一人の總領事にて各所の開港塲居留地に正ずる交渉の事件を處理するは迚も叶はぬことなれば是種の諸國に對しても葡國同様、領事裁判權の無效を布告すること至當の處置なる可し元來彼國人が治外法權を主張する其理由を聞くに日本の裁判官は不慣にして何分にも生命財産の安全を托するに不安心なりと云ふに外ならざるが如し果して然らば今の商人領事の如き素町人の手に日本人民の生命財産を一任するは最も不安心の極にして吾々日本人の到底堪へ難き所なれば權利云々の談は姑く別として實際の必要より之を謝絶せざるを得ず即ち其理由は敢て日本人の新發明に非ず年來彼等の主張したる其教に從て正當の處置に及ぶものにこそあれば彼に於ては今更ら之に對するの辭ある可らず我國人が費用と勞力とを愛まずして法律を改正し裁判組織の整頓を勉めたるは畢竟日本人民の生命財産を安全ならしめんとに外ならざるに然るに其計畫漸く緒に就きたる今日に至り條約國の不行届きよりして商人等の裁判の爲めに内國人民の安全を妨げらるゝとは不都合千萬にして沙汰の限りなれば苟も不安心の虞あるものは誰れ彼れの別なく今回の葡國と同様、領事裁判權無效の布告あらんこと我輩の希望に堪へざる所なり