「炭礦鐡道の室蘭線開業したり」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「炭礦鐡道の室蘭線開業したり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

炭礦鐡道の室蘭線開業したり

井上鐡道廳長官は炭礦鐡道〓視の爲め今回北海道に出張し彼の久しく差縺れたる室蘭線も首尾能く開業を許され炭礦會社の歡びは勿論全道の人氣も大に滿足したりと云ふ抑も室蘭岩見澤間の線路は疾く成工して尋常一樣の塲合なれば必ずしも長官の出張を煩はすに及ばず相當の技師に命じて工事の精粗安危を〓査せしめ果して危險ならずと認る上は直に開業を許す可き筈なるに斯くも鄭重に取扱はれたるは自から入組たる事情のあるが爲めなり即ち世間に評判高き線路變換の一條にして當初炭礦會社より北海道廳へ測量の圖面を添へて鐡道敷設を出願したる其圖面と今度竣工したる實地の圖面とを比較するに聊か線路の變はりたる處あるが如し測量圖には馬追山を右に見たる線が實地には之を左にしたり、左りとは會社は道廳へ追願をもせずして勝手に既定の線路を變換したるものなり政法に背くものなり法に背く者は嚴重に處分せざる可らずとて先づ會社の社長に免職を命じ尚ほ是れにても足らざるか、工事の既に落成したる鐡道を其まゝにして道廳より其開業を急ぐの氣色も見えず世上の風聞にては遂には補給利子の特典にも影響するならんなどゝ竊に心配するものさへある程の次第なりしに今回鐡道廳長官が親しく實地を視て其出來上りたる鐡道に危險なきを證し且これを開通すれば公衆の便利たる可きを認め片時も猶豫す可らずとて即時に東京の本廳に電信を發して其手續を爲し八月一日より公然開業を許可したるは處分の當を得たるものと云はざるを得ず元來線路變換の一條は政務規則上の問題にして鐡道その物に關係す可き事柄にあらず國家の利害より見れば爰に一線の鐡道を造り工事完全にして危險の虞なく地方の公衆は一日も早く其便利を利せんとて待構へたる處に其鐡道會社が政廳に向て政務上の手續を誤りたりとて之が爲めに有益有力なる利器を閑却せしむるの理由は萬々ある可らず聞く所に據れば室蘭線の工事は本年三月中に大抵落成して四五月の頃には開業す可き筈なりしに鐡道會社と道廳との間に何か紛紜の解けざるものありて兎角する間に數十日を空ふしたりと云ふ我輩は唯その奇を驚くのみ若しも井上長官の出張をして尚ほ一二ヶ月を延引せしめたらんには既成の鐡道も尚ほ一二ヶ月の間は用を爲さずして利す可きの利を失ふのみか其用ひざるが爲めに却て所々に破損をも生じたることならんなれば長官の一擧は會社をして容易ならざる損害を免かれしめたるものと云ふ可し政務上の手續論と鐡道の利益論とは自から別問題にして井上長官の職掌に於ては鐡道の利を重んじて他を顧るに遑あらず唯斷じて行ふの一策あるのみ然かのみならず其手續論の要點たる線路變換の事情を視察しても我輩の不審に堪へざるものあり室蘭より岩見澤に至る八十餘里の間は曠漠たる無人の原野にして之に鉄道を敷くに市街村落又は田畑等を通過するが如き人事の故障とては毫もある可らず唯起點と終點とを定めて其間は天然の地理の最も便利にして工費の最も手軽きを專一とす可きは勿論のことにして此邊より見れば内地の鐡道敷設に比して頗る心配なきものなれば最初の測量とても左まで緻密ならざりしことならん故に實地に就て次第の工事を進むるに從ひ此線路を斯くしたらば幾分か利益ならんとて無人の地に迷惑する者もなく又喜ぶ者もなければ遠慮に及ばず唯鐡道の便利のみを目的にして容易に變換したることならん即ち原圖に右に見たる山を實地に左に見るが如き出來事を生したることならんと雖も人間の利害には厘毫も關係あることなし東海道の鐡道が俄に其線路を變換して金の鯱を遙に餘所に見るが如きこともあらんには忽ち名古屋市民の不平を醸す可きも北海道の原野には唯熊と鹿とあるのみにして其事情天淵も啻ならざるを知る可し然るに道廳の筋にては最初出願のときの測量圖と落成後の實地圖と二葉を取て机上に開き篤と見較ぶれば二者の線路に聊か曲直の相違あり何百分一の縮圖に何分何厘の差あれば實地には何哩の線路を變換したるものなり法律に反するものなりとて机上の議論漸く發達して遂に會社々長の免職と爲り又自然に鐡道開業期の遅速にも多少の影響を及ぼしたることならん法を重んずるは政府の本職にして由て以て威信の在る所を明にす可し我輩の飽くまでも願ふ所なれども國家の利益の爲めには時に變通の處分も亦等閑に附す可らず炭礦鐡道の線路變換問題は果して政府の大威信を示すに足る可きや否や之を與論の判斷に任するのみ