「漢醫復活と黴菌學研究費」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「漢醫復活と黴菌學研究費」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

漢醫復活と黴菌學研究費

漢法家の發案なる醫師開業試驗規則改正の請願は前期の議會に於て採用せられ議事日程に

上りたれども會期の餘日なかりし爲め議决に至らずして終りたるが聞く所に據れば爾來漢

法家は熱心に奔走して運動に怠らず貴衆兩院の議員中にも賛成者少なからざれば今度の議

塲には多數を得て兩院を通過するの望なきに非ずなど云ふものあり我輩の信ぜざる所なれ

ども盖し今日に漢醫復活の説を催ほしたるは偶然に非ずして自から原因する所あるが如し

凡そ如何なる技術にても一たび其道に入れば自から妙味の存するものにして終身これを忘

るゝ能はず漢法家が其法を信ずるの餘り今日の衰運を挽回せんとするは無理ならぬ望にし

て如何にもして其望を達せんとする其處に現行の試驗規則は寧ろ完全に失し尋常の志願者

は高尚なる試驗の為めに苦められて志を得ざるもの多きより漢法回復の説あるを幸に之を

助けて一種の變則法を設け以て試驗の困難を避けんとするものなきに非ず而して今の議員

等が時事に熱心して學事を無頓着に附し匆々之を聞て匆々之を賛成する者ありしより扨こ

そ醫術復古の問題を見るに至りたることならん其原因事情は兎も角もとして果して今度の

議會に再び復古問題の現はるゝが如きこともあらんには我輩は日本國の恥辱として大に之

を爭はんとする者なれども顧みて一方より事の裏面を察すれば議會一般の人々は决して無

識の者のみにあらず前回に其請願を容れたるは好事の戯に非ざれば一時の間違ひとして認

む可きの跡あるが如し或は多數の中には眞實漢法を崇拜して復古を希望するものもあらん

又は爲めにする所ありて賛成を表するものもあらんなれども全體に就て云へば决して斯る

無知無識のものゝみに非ざる其證據は一昨年獨逸に於て結核病の治療法を發明したりとの

報あるや議會の中より其法を實地に調査する爲め同國に醫士を派遣せしむ可きの議を發し

て直に之を可决し政府の同意を得て實行したることあり新法の發明を調査して日本の醫術

に益せんとする精神は即ち文明日進の學理を信ずるの結果にして漢醫復活の説とは到底相

容れざるものなれば前後の議論孰れか間違ならざるを得ず我輩は議員諸氏に重きを置て後

の議論の間違なることを斷言せんとするものなり諸氏の精神果して然りとするときは我輩

は更に今回の議會に向て望む所のものなきを得ず抑も近來西洋の醫術は次第に進歩して實

物證據の一方に進み就中黴菌學の如きは最も著しきものにして其法いよいよ開けていよい

よ人を驚かし百千年來の醫學も之が爲めに動搖せんとするの有樣なりと云ふ然るに先月中

の時事新報に記して世人の知る如く我國の醫學博士北里柴三郎氏は久しく獨逸に留學して

彼國の大家古弗先生の門に入り黴菌の病理新論を實地に學んで得る所多きのみならず門下

の高足弟子四天王の一人として先生の大業を助け先生も亦北里氏の賴む可きを知りて信用

淺からず其新法は今日に至るまで未だ公にせざれども北里一人に限り日本國に之を施すは

苦しからずとの約束あるゆへ氏に於ても近日その事に着手する筈なりと云ふ我國に斯る名

士を出したるは博士一身の面目のみならず實に日本國の名譽なれば其法の研究實施は之を

一私人の業として放任す可きに非ず日本國民は斯道の爲め又國の名譽の爲め國費を投じて

其業を助くるの義擧なきを得ず或は政府の當局者も茲(玄+玄)に見る所ありて其議を提

出することもあらんかなれども假令ひ當局者の提出なきにもせよ議會たるものは自から進

んで國費の支出を議决するこそ適當なる可し我輩は前年結核病治療法の取調を議决したる

例に照らして今回も必ず其邊の發議ある可きを疑はざるものなれども若し萬一にも其議を

爲さゞるのみか又もや漢醫復活の問題を採用して之を議塲に議するが如きこともあらば前

回の間違は有心故造の間違にして滿塲の議員は無學無識、共に文明の事を語るに足らず否

な國事の重きを任ずるに足らざるものとして世間の識者と共に之を責めざるを得ず聊か一

言して其注意を促すものなり