「文部の當局者に望む」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「文部の當局者に望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

文部の當局者に望む

新任の文部大臣は教育上に意見を有し之を行はんとするの考にて大學總長の更迭の如きは其一端なる可しとの説を傳ふるものあり部内の改革、吏員の遣繰の如きは我輩の關する所に非ざれども注意を要するは教育の方針に在り從來當局者の更迭する毎に方針の變化は度度の事にして文部の創立以來その幾回なるを知らず社會の有樣は常に進んで止まざるものなれば其進歩に伴ふて方針の變ずるは自から止むを得ざる次第なれども我輩の所見を以てすれば從來の變化は必ずしも止むを得ざるの變化に非ずして寧ろ反對の事實を呈したるが如し當初文部省が所謂學制を頒布して教育を奬勵したるの趣意は專ら人生に必要の知識を授けて人人自營獨立の計を得せしめんとの精神にして毫も間然す可き所なかしりに明治十四五年の頃に至り時の政府の變動と共に俄に方針を一變して儒教教育を採用し所謂碩學鴻儒の故老輩を呼起して修身の講義を托し英語の教授を止めたるが如きは其最も著しきものにして爾來時時の變化は一にして足らず彼の教育の勅語の如き凡そ人間たるものが古今に亘り東西に通じて日常に履行す可き道徳の旨を特に文字に現はしたるまでのものにして聖意の在る所は自から明白なるに文部の當局者は之を解釋するに自家の見解を以てして教育の方針に多少の影響を與へたるの跡なきに非ず之を要するに方針の變化の爲めに滿天下の人心をして方向に迷はしめ社會に種種の現象を生じたるの事實はあれども之が爲めに益したる所はなきものの如し如何となれば從來の變化は社會の進歩に伴はずして常に反對するの傾を免れざればなり教育學問の必要は今更ら云ふまでもなけれども社會の現状を見れば一般の人心は既に自から其必要を認めて他の奬勵干渉を待たざるのみならず寧ろ熱心に過ぎて或は過度の弊も圖る可らずとて識者は竊に苦心する程の次第なれば今日の局に當るものは只小心翼翼として其弊を愼み政府の職掌たる管理の本分を盡せば則ち足れり更に方針を變じて又もや人心を迷はしむるが如きは我輩の取らざる所なり新大臣の意見は如何なるものなるや知る可らずと雖も新當局の眼を以て從前の事態を見れば大に改正を要するものもあらん又新に施設す可きものもあらん胸中自から成算に富むことならんと雖も今日の成算を今日に行ふて果して效を收むるの見込ありや否やと云ふに教育の方針、長官の更迭と共に變化する其長官の在任は常に永からずして今度の新任長官と雖も永久は素より望む可きに非ざれば改正一定の方針も忽ち後任者の爲めに變ぜらるるの患なきを期す可らず既往に照らして明白なる所なれば假令ひ現任者の見込その當を得たりとするも之を行ふて其效を期するは難かる可し况んや其當を得ざることもあるに於てをや一時社會の人心をして方向に迷はしむるに過ぎず罪を作るものと云はざるを得ず故に我輩の望む所は教育の方針の如きは容易に着手せずして唯從來の弊を去るに在るのみ即ち其弊とは政府が教育學問の事を私して恰も之を時の政治に附屬せしむるの一事なり帝國大學の如き今日の有樣にては一種の官吏養成所にして大學の本色なる高尚の學藝を進むるの點に於ては大に遺憾なきに非ず本來を云へば政府との關係を去りて獨立せしむるこそ至當の處置なれ共遽に行ふ可らずとならば姑く後日の事として大に現在の組織を改正し單に高等の學藝を研究せしむるの塲所と爲し無産の子弟に衣食の道を授くるが如き弊は斷じて改めざる可らず又私立學校の處置に就ても政府從來の政略は恰も之を敵視して一時は撲滅云云の談さへもありたる程なれども本來教育學問に官民公私の別はある可らず私立なり民立なり均しく人民に教育を授くるものなれば政府より之を同一に待遇して其間に分隔てを爲さざること肝要なり此點よりすれば今の官吏登用法の如きは自然の結果として改めざるを得ず登用法は素より文部當局の責任には非ざれども之を改めざれば教育上の弊も去る可らず世間に政府反對の論多き中にも文部省を無用の物として其廢止を主張するものさへあるは畢竟在朝の政治家が一國の教育を私したるの報ひにこそあれば當局者はよくよく此邊に注意して從來の政略を一變すること必要なる可し教育の方針に就ては大に所見なきに非ざれども之を今日に望むも無益なる可し若しも政略一變の决斷を見ることもあらば我輩は之を以て當局者の大功徳と認めんとする者なり