「・世に新事業なきにあらず」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「・世に新事業なきにあらず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・世に新事業なきにあらず

實業の振はざるは資本なきが故なり苟も資本さへあれば彼の利興す可く此業成る可しとは我輩の常に聞く所なりしに近日に至りて經濟の事情を一轉し遊金漸く多く利率漸く下落し尚ほ其用法を得ざるに苦しむ者多きこそ好機會なれ爰に有利の興業談あれば聲に應して資金の來る可きは勢の當然なるに實際に於て然らざるは何ぞや或は遊金の餘るが爲めに鐵道その他諸會社の株券を買ふ者を增したるは事實に相違なしと雖も是皆舊來の事業にして新計畫と稱すべきものにあらざるべければ歸する處は有志者に企業の念なきにあらざれども未だ格好の事業に思ひ當らざるが爲めならん依て今某氏の談話中に就て考案の大要を記さんに

第一、綿布製造所の設立如何 と考ふるに將來頗る有望なるべし近來我紡績業は著しく進歩して輸出を試みんとする程の勢となりたれば此の絲を用ゐて綿布を織る事素より困難の業にあらず然るに尚ほ依然として金巾、天竺、更紗の輸入を外國に待つ所以のものは要するに興業家の奮發足らざるが爲めのみ故に今より進んで綿布製造所を内地に設立して徐に其擴張を謀らば必ず有利の一事業となるべし

第二、砂糖精製所の設立如何 砂糖の需要は年毎に增加して其輸入莫大なるを以て此際大に外國の粗製品を輸入し内地に於て之を精製するの業を起さば今より一層廉價を以て廣く製品を内國に供給し其閒相當の利益を見るべき事疑なからん

第三、卷煙草製造所の設立如何 外國製の紙卷煙草追々に輸入するを見て内地の煙草商中には夙に此の製造を創めたるものあれども其仕掛の小なると方法の宜しきを得ざるが爲めに精良の品を製すること能はさるが如し依て外國の例に倣ひ茲に大仕掛の製造所を設立し原料の精撰より製造の上に萬端心を用ゐば其販路忽ち全國に擴まりて利益蓋し少小にあらざるべし

第四、陶器製造所の設立如何 我邦の陶器は外國の需要に適して將來の得意幾んど無限なるにも拘らず曾て海外の注文に應じて千萬個の同品を美事に取揃え以て外人を滿足せしめたるの例あるを聞かざるは畢竟製造方の小仕掛なるが爲めの實に陶器の原料は天然に存して盡くることなき其上に燃料の石炭は供給充分にして職工の賃金至て廉なる我邦に於て大仕掛の陶器製造所を起さば多々益々海外の需に應じて商運自から目出度かるべきは論を待たさるべし今日の掛念は其計畫にあらずして唯資本なきの一事なるのみ

第五、硝子製造所の設立如何 工業漸く發達すれば小仕掛の事業は次第に中央の一點に集まり中央の機關は漸く整ふて漸く大となり以て益々其業の盛大を致すべきは自然の勢いなるにも拘らず我硝子製造の有樣を察すれば進歩甚だ遲々たるが如し現に東京の一市内を見渡したる處にても硝子器械の製造に從事し居るものなかなか多しと雖ども大抵皆小仕掛にして頗るに足るものなし遺憾の事と云ふべし故に有志有金の士は此際大に資金を合して一大硝子會社を起し巧に社務を宰して盛に製造の業を營まば其利益あるや又疑ふべからず

第六、車製造所の設立如何 器具の種類樣々なる其中にも趣味の要なきものは千萬の個數を悉く一律一體に製造したりとても毫も事に害なくして用に損なきのみならず斯くの如くにして愈々製造の手際を顯し價も隨て廉なるを得べし即ち人力車及び諸車の如きは就中趣味を要せざるものにして何れの部分も千萬輛の同形に出づるを嫌ふべきの廉なく又機械の力を借らずして形を成すべきの點あることなければ茲に大なる車製造所を設け一切機械の仕掛を以て盛に諸車を造り出さば必ず有利の事業となるべし試に最近の統計に依て全國の馬車、人力車、荷車、牛車の總數を見るに九十八萬四千餘輛にして其中人力車は凡そ十八萬兩なりといふ左れば此の諸車の缺損を補ふべき新規車輛の總數の三分の一を新製造所に於て引受くるものと假定するも尚ほ充分の望みあるを見るべし

第七、疊製造所の設立如何 疊は本邦人の居住に欠べからざるの要品なれども其床の製造法に至りては僅に手足の力を賴む位にして如何にも手温き業なれば少しく資本を投じて水壓器を適用し簡易に何百枚にても製造し得る事となれば必ず一廉の商賣となりて製造所の利益少なからざるべし

以上は某氏の心に浮びたる儘を語り出で其語りたる儘を記したるものなれば中には實行の望み甚だ少なきが如くに見ゆるものもあるべきかなれどもこは唯立案の大要に過ぎざるを以ていよいよ之を實地に試んとする其時には先づ利害得失の計算より着手の順序方法等巨細の事に渉りて尚ほ充分の考案熟慮を要すべきや勿論の話なれども其邊の注意は當局者の責任として我輩は唯思付の要旨を摘記して以て興業に志あるものゝ參考に供せんと欲するのみ