「實業と政治」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「實業と政治」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

實業と政治

實業と政治とは本來全く別物にして其間に如何なる關係もなく銘々獨立して差支なき筈な

れども未開の時代に於ては政府の權力強大にして社會萬般の事その干渉を免れざるの常な

れば商賣殖産の實業も亦自から政治の附屬物と爲りて發達進歩を妨げらるゝこと少なから

ず東西諸國概して同樣なる中にも日本の如き士流專權の國抦に於ては殊に然らざるを得ず

封建の時代は事古ければ姑く擱き明治維新後の事實に徴するも尚ほ然るものあるが如し維

新以來施政の方向を見るに當局者も商賣殖産の事に就ては大に注意する所ありしかなれど

も如何せん政府は士流の政府にして實業上の實際を知らず、之を知らざる者が却て之を差

圖し之を敎へんとするが故に折角の奬勵保護も目的を達せざるのみか寧ろ其發達進歩を害

したるに過ぎず政府が自から實業に手を下して失敗したるもの多きは申す迄もなく民間の

一私人もしくは會社の事業に對しても之に保護を與へて能く實際に効を奏したるものは甚

だ少なし或は稀に奏効の盛大なるものあるが如くなれども其實は士流の算法常に疎漏寛大

にして國庫の金を浪費したる其浪費の餘瀝たるに過ぎず經濟の眼を以て見れば其盛大を祝

するよりも却て其杜撰に驚くのみ尚ほ其上にも士流政府は法律規則の製造を好み之が爲め

に實業社會を苦しめたる事例は一々計ふるに遑あらざれども曾て當局者の一人が自から懺

悔して政府は恰も法律を以て實業者を追ひ廻すものなりと言ひし其一言を聞くも實際の事

情を知るに足る可し畢竟その人々が文明開國の氣運に遭ふて實業の輕んず可らざるを知り

ながら其發達進歩を謀の方法に就ては毫も悟る所なく依然たる士流の精神にて政治の力、

以て其運命を左右するに足る可しと信じたるの誤りなれども又一方より見れば實業社會も

亦人に乏しくして獨立の氣力なく恰も自家の領分を捧げて政治の附屬に供したるの姿なき

に非ず政治全權の世の中に於ては自から止むを得ざるの事情なりと云ふの外なし然るに社

會の大勢は永く政治の全權を許さず近年來我國運の發達は非常のものにして外國の貿易と

云ひ内國の工業と云ひ何れも好景况ならざるはなく正に是れ實業獨立の時節こそ到來した

ることなれば此時に際し當業の人々が地歩を固くして活溌に運動するときは法律規則の如

き毫も怖るゝに足らざるのみか却て之を利して自家自衛の用に供し或は從來の反對に政治

をして其附屬たらしむることも敢て難きに非ず近來政府が實業社會に對して無力なるは世

に御用商人なる名義の消滅したるを見ても之を知る可く又議會の如き目下の處にては兎角

士流の議論のみ多くして動もすれば實業の社會に不通なる擧動もなきに非ざれども是れ亦

敢て患るに足らず議會と雖も天下の大勢には抵抗す可らず既に今日に於ても在野の政論中

に實業云々の語を交ゆるものあり今後の形勢推して知る可し左れば世間有志の士にして文

明の敎育を受け日新の智識あらん者は左右を顧みず唯實業の一方に進む可きのみ大勢の指

示する所は人を誤ることなし以て一身の獨立を遂げ以て立國の根本を助成せんこと我輩の

冀望する所なり