「苦情取るに足らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「苦情取るに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

苦情取るに足らず

從來は餘り聞かざることなれども此頃東京府下にては既設もしくは着手中の工塲等に對し

て其近傍の居民が苦情を唱へ移轉中止の運動を爲すもの少なからざるが如し自から警察の

規程もあり又從來の習慣法もあることなれば當局者に於ては必ず適當の處置に出ることな

らん我輩の敢て疑はざる所なれども扨その苦情の口實を聞くに市街の中に工塲の如きもの

を存するときは其近傍に住居する人民は烟の爲めに家を汚され機械の響に眠を妨げられ又

時としては不慮の危險も圖る可らず一個人の營利の爲めに多數の人民に斯る迷惑を掛るは

不都合なり云々にして或は其口實も時として通用することなきに非ずと云ふ不可思議千萬

の次第にこそあれ抑も文明開化とは商賣工業の盛なることにして商賣工業の營みは自から

都會の地に於てせざるを得ず而して商賣工業の盛なる都會の地に不潔、喧噪もしくは危險

の虞を免れざるは世界各國何れも然る所にして其營みますます盛なれば其不潔等も亦ます

ます甚だしきは倫敦其他の例を見ても知る可し今東京の市中に追ひ追ひ工塲等の出來する

は即ち商工業繁昌の徴候にして文明開化の花を發きつゝあることなれば寧ろ大に喜ふ可き

次第なるに然るに不潔云々の迷惑を口實として其繁昌を妨ぐるとは實に氣の知れぬ擧動と

云はざるを得ず若しも其輩の希望に從へば蒸氣の烟も立たず機械の響も聞えず山靜に水清

き奈良の都の如くにして始めて滿足することならんと雖も今後の東京は決して其希望の如

くなるを得ざるのみか各種の工塲製造所も起る可く高架鐵道地下鐵道も敷設せらる可く四

階五階の大厦高樓も建築せらる可く年々歳々商工業の繁昌と共に不潔喧噪を增す可きのみ

文明の大勢に於て然らざるを得ざることなれば其繁昌の有樣を見て物憂く思ふものは今よ

り早く奈良の邊へなり移住して自から之を避くるの外に工風なかる可し我輩は是等の輩に

頓着せず眞實東京の繁昌を希望する人々と共に永く此地に留まりてますます其繁昌を樂し

まんとするものなり誠に殺風景の談なれども元來商賣工業は炭烟鐵響の中に成長發育する

ものにして不潔喧噪は云ふに及ばず時としては之が爲めに死傷の危險さへも免れざること

一般の習なれば苟も府下の繁昌を望まんとするには殺風景は覺悟の前としてますます其殺

風景を逞ふするこそ目下の急なる可し不潔云々の苦情の如きは决して取るに足らざるなり

左れば當局者も是種の處置に就ては都會の體裁もしくは衛生上云々の空論を去り活眼を開

て實際上より觀察し區々の苦情に頓着せずして大膽の决斷あらんこと我輩の希望に堪へざ

る所なり尚ほ事の序に一言を要するものあり近來は警察の規則頗る細密に渉りて夜間十二

時後には絃聲高歌を禁止し又芝居寄席等の時間に制限を設くるが如き畢竟他の安眠を妨げ

若しくは衛生に害ありとの掛念に出でたることならんと雖も今日の如き人事の繁多なる社

會に斯る禁制は唯徒らに事を多くするのみにして實際に無益の沙汰と云はざるを得ず是れ

又前述の理由に據りて敢て廢止を望む所なり