「 輸出の増加 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 輸出の増加 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 輸出の増加 

銀價下落の影響は日本より外國に輸出する品物の價を騰貴せしむると同時に其數量を増加して我國の利益に歸するは疑もなき事實なれども之を疑ふて却て日本の利を損するものなりと云ふ人々の説を聞くに我輸出品の價は騰貴したるに相違なけれども其騰貴は銀に對するの騰貴にして金に對すれば依然として元の價に止まるものなり左れば其騰貴を假りに一割と定めて一割だけ高く賣れば從來の直段に相當することなれども實際は然らず唯その呼直の高きに欺かれて七分の騰貴に滿足するものなり例へば米國に輸出する生絲の直段百斤に付き五百弗(相塲は便利の爲めに假定したるものにて實際の計算に非ず以下これに傚ふ)のものが一割騰貴すれば五百五十弗に賣りて相當なれども我商人は實際五百三十何弗の直段に滿足して賣放すが故に金貨國なる米國人の方より云へば正しく二十弗を利するの割合にして其差は即ち我國の損に歸するものなり故に日本の輸出は其直段の高きにも拘はらず實際は損を免れざるものなりと云ふに在るが如し實に其説の通りにして直段の上より見るときは國損を免れざることなれども其直段に於て損する所こそ即ち數量に於て益する所なれ凡ろ同一の品物にして一方は安く一方は高しとあれば其安きものを選むは商賣の常なり今米國にて需用する生絲は伊太利佛蘭西及び我日本より輸入するものなれども伊佛兩國の絲は依然四百弗の直段なるに日本より買へば三百何十弗にして幾分の廉價なりと云へば高きを去り安きに就くは商賣上自然の數なるのみならず其價いよいよ廉なれば從來生絲を知らざりし者も之を用ることゝなりて日本絲の需用は必ず大に増加せざるを得ず即ち我國の爲めに謀れば直段の上に於ては多少損するに相違なけれども之が爲めに輸出の額を増して從來は年々一千萬斤を輸出するに過ぎざりしものが増して二千萬斤となり三千萬斤となるに至れば總額の上に於て非常の利益を見ることならん即ち俗に云ふ數でこなすの流義にして一部分より見れば損するが如くなれども全體の上に於て益するものなり而して斯る塲合に至れば伊佛の兩國は日本絲の競爭に對して如何なる手段を取る可きやと云ふに悲いかな彼等は金貨國にして四百弗に一弗を欠ても割に合はざることなれば銀貨國なる日本の品物に對して競爭の望はある可らず即ち日本の生絲は伊佛兩國のものを米國の市塲外に驅逐するに至るやも亦知る可らざるなり右は生絲に就ての談なれども茶なり米なり織物なり綿絲なり又は其他の雜貨類なり外國に賣るものは何れも同樣の關係にして輸出の額はますます増加せざるを得ず日本の商賣貿易は萬々歳の繁昌必ず疑ある可らずと我輩の敢て信ずる所なり然らば外國輸出の望は疑なしとして國内に於ける生産の有樣は如何と云ふに吾に自由を與へよ然らざれば死を與へよとは米國獨立の際に一志士の唱へたる警語なれども今日は貴重なる自由の夫れならで吾に仕事を與へよ云々の聲は世界一般到る處に反響せざるはなし今の世界の人口は多し其多數の中には手足を動かさずして終日眠るものも亦多し其輩の無性懶惰なるに非ず世に働く可きの仕事なきが爲めなり幸に我日本は尚ほ未だ甚だしきに至らざれども其程度こそ違へ人民が仕事なきに苦しむの情は即ち異ならず東京府下に五萬の人力車夫あり一日の中に客を載せて走るものは幾許ぞ、客を得ずして終日路傍に佇立するものは幾許ぞ、佇立するもの走ること能はざるに非ず客なければなり府下の繁昌を以てして尚ほ且かくの如し以て各地方労働社會の情態を推知するに足る可し左れば苟も爰に働く可き仕事を生ぜんか從來働かんと欲して仕事なきに苦しみたる人民は賃銀の如何をば第二として兎に角に仕事を得たるの一事のみにて蘇生の思を爲すことならん或は一歩を退て今の日本の社會には徒手遊惰の人民なしと假定するも人間の力は無生なる機械の働に異なり機械の如きは假令ひ鐵にて製したる大丈夫のものにても之を使用すること甚だしければ次第に摩損擦亡して次第に其働を失ふものなれども人間の力は之と反對にして活溌に使用すれば使用するほど其力を加ふること實際の事實なるが故に爰に働く可き仕事あり働けば隨て錢を得らるゝの望さへあれば八時間働きたるものは十時間となり十二時となり終日にして尚ほ餘力あるときは夜を徹して業を執るも决して厭ふ所に非ず即ち從前は一日に一反の織物を織りたるものが一反半と爲り二反と爲り一把の絲を製したるものが二把となり三把となるは容易のことにして其仕事さへあるに於ては國中の生産は促さずして自から増加す可きのみ左れば銀價下落の爲めに我輸出品の直段は騰貴したり但し其騰貴は名のみにして實際には損を免れざること前に記したる論者の説の通りに相違なしと雖も我商人は從前の價に比して幾分の騰貴を見るが故に眼前に損を感ぜず外國人は日本品を他の諸外國のものに較べて其價の廉なる處よりますます之を需用することゝなりますます賣行を増すが故に數量の上に於ては優に我商人の利益たる可き尚ほ其上に之が爲めに國内の生産を奬勵して人民に仕事を與へ從來手を空ふしたる者が仕事に有付て生活の道を得るのみならず是まで八時間働きたるものが更に其時間を増し假令ひ賃銀の割合は増さゞるも其働の進みたるが爲めに從前僅に六七錢を得たるものは十錢と爲り二十錢は二十五錢に二十五錢は三十錢と爲る自然の數にして労働社會の喜び想見る可し即ち日本の商賣生産は共に春を催ほすものにして和氣洋々たる其有樣は金貨國なる外國人の到底企て及ばざる所なるのみか夢にだも見ること能はざる所にして恰も銀貨國なる日本專有の利益と云はざるを得ず左れば個々の品物に就て其直段を問へば多少に損するが如くなれども數でこなすの商賣主義に從ひ銀貨國獨得の好地位好機會を利用するときは輸出の總額を二倍し三倍するは容易のことにして遂に我日本國の大利益に歸す可きは我輩の斷じて疑はざる所なり