「金の騰貴」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「金の騰貴」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

左の一篇は英國下院の議員にして經濟社會に有名なるリオナルド、コールトニー氏が此程「十九世紀雜誌」に寄送したる論文中より金の騰貴に關する部分を抜抄意譯したるものなり目下此問題に就ては世間に議論少なからざれは掲げて以て本日の社説に代ふ

金の騰貴

金貨本位論者の説に金は常に一定の價格を保ち銀の如く時々相塲の變動することなきを以て通貨として最も便利なる金屬なりと云へり然れども金價は實際果して一定不變のものなりや聊か疑なきを得ず余は曾て金銀取調委員の一人として兩貨制に反對したる者なり該委員會の報告中に「近來普通物價の下落したることに付き其事情及び其時期を考ふるに大勢は物品の位を落したることにして金の騰貴したるに非ずと云ふ方穩當なるが如し但し吾々は決して金位の昇りたる痕跡なしと斷言する者に非ず或は實際に多少の騰貴ありしならんなれども唯その割合を知るに由なきのみ」云々の言あり當時余は委員の此報告に反對せずして署名したれども今日は最早これに同意するを得ず何となれば余は爾後此問題を考究して金の騰貴は余が曩に信じたる程些細のものに非ざるを發見したればなり左れば今日余の信ずる所を茲に記して聊か世間經濟學者の參考に供せんとす

千八百七十三年より九十三年に至るまで二十年間に通物價の大に下落したるは人の許す所にして其下落の割合は平均三割と見積りて大過なかる可し然るに此下落の原因に就ては經濟學者の意見各々同じからず或は工業の進歩と共に物品生産費の減少したるが爲めなりと云ひ或は金の生産費の揄チしたるが爲めなりと云ひ或は以上二原因が兩ながら働を逞ふしたるが爲めなりと云ひ結局三種の説あれども今假に物品生産費の減少を以て其大原因と爲さんか是れが爲めに金の産出に如何なる影響を及ぼす可きや一般の物品を得るに必要なる勞力は減少して金を採掘精製するの勞力は舊のまゝなりとあれば金鑛業の利益は自然揄チす可き筈なり何となれば物價の下落に連れて採掘精製に要する機械の價運搬の入費等都て安くなる可ければなり金鑛の利益揄チすれば資本家も勞働者も共に鑛業の區域を擴張して成丈け其利潤に浴せんことを務るは當然の勢にして是れが爲めに世界の産金額は揄チす可し即ち物品生産費の減少は間接に金の産出を奨勵するものと知る可し試に此理論を今少しく解し易く述べんに凡そ如何なる種類の事業にても生産物の價格騰貴するときは其騰貴したる割合に應じて隆盛を致すは經濟の原則なり例へば曾て錫の相塲の大に上騰したるときコウンウォルの錫鑛は是れが爲め俄に繁昌して錫の産額非常に揄チしたることあり左れば今この道理に從ひ若しも金の相塲にして騰貴するときは金の産額は之に應じて揄チす可き筈なり而して金相塲の騰貴とは取りも直さず通物價の下落することに外ならず即ち前にも云へる如く苟も金鑛に變化なき以上は物價の下落するに從て金の生産は益々盛ならざるを得ず然るに顧て事の實際を見れば過る三四十年間に金の生産額は更に揄チすることなくして寧ろ減少したるの實を見る可し左表は即ち千八百五十一年より九十年に至るまで毎五年間の金の産額を示したるものなり

千八百五十一年より五十五年迄  二七、八一五、四〇〇封度

千八百五十六年より六十年迄   二八、一四四、九〇〇封度

千八百六十一年より六十五年迄  二五、八一六、三〇〇封度

千八百六十六年より七十年迄   二七、二〇六、九〇〇封度

千八百七十一年より七十五年迄  二四、二六〇、三〇〇封度

千八百七十六年より八十年迄   二四、〇五二、二〇〇封度

千八百八十一年より八十五年迄  二〇、八〇四、九〇〇封度

千八百八十六年より九十年迄   二二、六四〇、〇〇〇封度

右の表に據れば千八百五十年來金の産出は次第に減少して唯最近四五年間に少しく揄チの傾を現はしたるのみ(此揄チは即ち南亞非利加ツランスヴァル國の金鑛頓に發達したるの影響なり)一方に於て物價は次第に下落して二十年間に遂に三割を減ずるに至りしにも拘らず金の産出の更に揄チせざるは何故なるか余は之を以て近來金錢業の困難著しく揄チしたるの一事に歸せざるを得ず若しも今日金を産出すること二十年前の如く容易ならんには世界の産金額は非常に揄チす可き筈なるに實際其額は殖へずして却て減じたり且つ又物品生産費の下落の外に尚ほ近來大に金の産出を奨勵したる一事あり即ち過る二十年間に世界の大國は皆銀貨を廢して金貨單本位を採用し爭ふて金塊及び金貨を貯藏したる其額は決して少小ならず是が爲め物價は一層下落の勢を現し金の産出に大なる奨勵を與へたるは亦疑ふ可きに非ず斯の如く二種の原因相助けて金の産出を奨勵したるにも拘はらず實際其産額の減じたるは近來金鑛業の次第に困難を揩オたる事實を示すに屈強の證據なりと云ふ可し而して鑛山より金を得ること次第に困難なりとは金の生産費の揄チしたることにして生産費揄チすれば金價の上騰するは自然の結果として免かる可らず何となれば鑛業者が以前の如く容易く金を得ること能はざれば廢業するか或は事業の區域を縮小するの外なく爲めに金の産出減少して其價騰貴するは勢の當に然るべき所なればなり若しも金が人生に欠く可らざる必要品にして隨て産出すれば隨て消費せらるゝものならんには其産額の減ずると共に價格の上騰すること恰も飢饉の年に米價の騰貴するが如くなる可しと雖も其性質米穀に同じからずして市塲に出るも直に消費の道なし且又これを装飾品と爲し通貨と爲すの塲合にも其産額に聊かの減少は人間社會に左したる不便を及ぼすことなければ從て其價格も俄に上騰するを得ず即ち其物の性質に於て然る所なれども近來その産出費の揄チしたるが爲めに自然に價の騰貴したるは事實に爭ふ可らざるが如し過る四十年來の成蹟を觀るに前の二十年間には金價下落し後の二十年間には上騰したるに相違なしと雖も今其下落を上騰との割合をば數字を以て示すことは甚だ易からず唯吾々の所見を以てすれば始め二十年間の金價下落は物價騰貴の割合よりも甚だしかりしを信ずる者なり何となれば物價は自然に下落す可き勢ありしものを金價下落の爲めに却て引上げられたるの形跡あればなり又同樣の道理にて後の二十年間の上騰は物價下落の割合よりも少なかりしに相違なかる可し之を要するに余は今日金價騰貴の事實に就ては殆ど疑ふ所なき者なり唯目下の問題は此上騰が果して永續す可きや否やの一事のみ或は今後ツランスヴァルの金鑛發達の爲めに世界の金勢に再び大變動を生ずることもあらん歟なれども固より来よう豫言し得可き限に非ざるなり

斯の如く金價は二十年來慥に騰貴したれども之に反して銀の相塲は通物價に對して變動甚だ少なきが如し即ち諸物品の相塲は既往二十年間に凡そ三割方下落したると共に銀の價も亦同樣三割下落したるを以て若しも英國にて銀を以て通貨の本位と爲せしならば二十年來物價に變動はなかりしならん然れども物價は近來製造術の發達に由て自然に下落したるに相違なければ銀の相塲が通物價に對して大なる變動なきは畢竟するに銀の生産費が他の物品の生産費と同じ割合を以て減少したるものにして即ち銀價は二十年間に幾分か下落したるには相違ある可らず而して又近來歐米諸國にて銀貨を廢止して金貨單本位を採用したるの一事は銀貨を其天然の相塲よりも安くするの傾向あるは明白なれば是れ等の事情を考ふるときは銀の産出は他の物品の産出に比して發達の度稍少なきものと云はざるを得ず

前期の如く既往二十年間に金は騰貴し(即ち金を産出するに必要なる勞力揄チし)銀は下落し(即ち銀を産出するに必要なる勞力減少し)たれば兩者共に一定不變の本位たるを得ざるは明なれども通物價に對する相塲の變動少なき點より云へば銀を本位とせし方寧ろ得策なりしが如し之を要するに金と銀とは通貨の本位として正しく反對の欠典を免かれざるものなれば是れまで數は經濟社會の問題と爲りたる金銀混合の貨幣を鑄造するの策こそ最も實際に効能を奏するものならんなれども斯の如き新奇の策は急に實行せらるゝの望なし現に「金銀取調委員會」にも此案を提出したる者あれども一も二もなく拒絶せられたる位なれば世界の國々が協同一致して之を實行するの時は未だ容易に來ることなかる可し然らばこれを如何して可ならんかと云ふに唯兩貨制の一法あるのみ(以下兩貨制は之を略す)