「佛國と暹羅」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「佛國と暹羅」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛暹事件は既に落着を告げたり左の一篇は英國の兵事新聞に記したるものにして今日に於ては少しく時機に遅くれたるの憾なきに非ざれども兩國交渉の顛末并に軍事上の形勢を知るに足る可きが故に此に譯載するものなり

佛國と暹羅

佛國が暹羅に對するの計畫は敢て奇とするに足らず國境問題の交渉を名として他國の版圖に指を染むるは露人得意の手段にして今回佛國の擧動は恰も其聯合國の爲に傚はんとするものゝ如くなればなり佛國の植民次官デルカツセー氏(海軍卿の監督の下に植民事務の責任に當るものなり)は去る五月十三日上院に於て佛國は不幸にして其國力に相應する領地を有せず而して戰爭又は政略の失敗に由りて土地を失ひたるが爲めに植民地擴張の必要はますます切なるに至れりとの旨を公言せり而して暹羅に於けるメーコン河沿岸の地方は有望の土地にして若しも此土地を手に入るゝときは從來盤谷に於て行はれたる貿易を自國の領地なる西貢に引寄することも難きに非ざるが故に佛領印度支那の太守ラネツサン氏の如き正に此地方を以て植民擴張の手段を實行するに恰好の塲所と爲すの意見なるが如し今を距る二年前時の外務卿リボー氏も議院に於て少しく其邊の意味を漏らしたることありし程の次第なれば目下兩國交渉の塲合に際して佛人の望む所甚だ小ならずメーコン河の兩岸には現に其所屬なる安南人民の住居するもの多しとの理由を以て大に求むる所あるも決して怪しむに足らざるなり然りと雖も暹羅の爲めに謀れば若しも佛領安南の國境をしてメーコン河畔に到らしむるときは恰も國土の三分の一を失ふの姿にして其要求に黙從すること能はざるは無論、既往現在の事情に徴するに佛の政略は正理の當を得たるものに非ざるが如し抑も佛暹の交通は千六百年代に始まりたれども其後殆んど二百年間は中絶して實際兩國の間に通商條約を取結びたるは千八百五十六年の事なりとす爾後佛人が暹羅の内治外交に關し英國の勢力を承認したるは事實にして彼の千八百六十三年に其隣國なる柬埔塞を佛の保護國と爲したるが如きも實際は英人の同意を得て行ひたるものに外ならず其後佛の海軍大佐ラグリー氏が其報告書に添へたる地圖には暹羅安南の境界はメーコン河と支那海との間なる山脈に在ることを明記せり千八百八十三年黒旗兵の亂に暹羅兵が之と戰ふて敵を退けたるは此山脈の境界内にして又千八百八十六年より同八年の間、暹羅兵が佛暹兩國の委員を警護したるも亦この境界内なりとす左れば之を歴史の事實に撤するも佛國が其勢力を内地に及ぼしたるは實に近年來の事に過ぎざれども扨目下の形勢は如何と云ふに海軍提督ヴアロン氏は同國の或る新聞記者に向て佛國は飽くまでも運動せざる可らずと明言せり盖し氏は東洋艦隊の司令官たること二年間の經驗に於て英國が暹羅を煽動しつゝあるの事實を發見したりとて政府に向て非常手段を勸告したりと云ふ目下暹羅に在る佛國艦隊は其旗艦なる甲鐵艦トリオンフアント(四千七百噸)一等巡洋艦フヲルフエーを最として報知艦砲艦等合せて五隻なれども事の必要あれば印度洋艦隊より援艦を派すること甚だ容易なる可し而して東京及び交趾支那に在る河川用其他の小軍艦は何れもメーコン并にメナン河の用に適する者にして其數總て九隻の多きに及べり又暹羅の軍艦は如何と云ふに昨年新造の巡洋艦マハチヤクルクリー號(二千四百噸)を首として巡洋艦砲艦等の小軍艦九隻あり司令官は暹羅人パデー氏にして高等の士官は何れも英人もしくは獨逸人を使用せり是等の軍艦が實際に活溌の用を為すや否やは頗る疑はしき所なれども一旦事を生じて佛人が小軍艦を以てメナン河より盤谷に溯るに際しては必ず抵抗を免れざることならん然るに佛國の方に於てはトリオンフアント、フヲルフエーの如き大艦ありと雖も此塲合に用を為すこと能はざるは外ならず盤谷府はメナン河口を距ること十五哩餘の處に在り而して其河口は甚だ淺くして退潮の時は三フヒートに過ぎず滿潮にても十三四フヒートに越えざるの一事にして河口を封鎖するは易けれども盤谷に溯るは難からざるを得ず又メーコン河の方は如何と云ふに千八百六十六年より同八年の間、佛國政府より派遣したる探險委員の一人なるカルネー氏の説に從へば航行の困難は柬埔塞の境界に始まりて暹羅領のコン以北は到底溯回の望なしと云ふ其後佛人が試みたる數回の經驗に由るも亦同樣の結果なりと云へば是れ又軍艦を用るの塲所に非ざる可し但し此方面に於ては佛人は其河の下流を管理するの便利ある其上に柬埔塞の人民は暹羅のバタンボン及アンコルの地方を蠶食せんとするの望、切なるが故に一たび使嗾するときは敵愾の心を起さしむること容易なりと云へり事情果して然らば佛國の爲めに利なるが如くなれども一方に於ては又不利の事情なきに非ず即ち植民地の仕組甚だ不整頓なるの一事なり抑も東洋に於ける佛の植民地は本來軍艦碇泊所の目的に出でたるものにして今尚ほ海軍卿の監督に歸せり故に植民次官デルカツセー氏の如き憲法上に於ては毫も管理の權力なき旨を自から明言したれども實際に於ては海軍卿の監督に下に植民事務の責任に當らざるを得ず此不始末なる管理の結果として政略に一定を欠き隨て實力の不足を致すは自然の數にして即ち彼の東京の始末の如き國民の非難を免れんとするの手段として實際は非常の混雑にも拘はらず表面には只平和々々と聲言したる其結果は同地方に於ける海軍の勢力を減殺したるに過ぎざるのみ思ふに佛國多數の人民は斯る睹易き道理を見ずして徒に事を好むの愚を演ずるものに非ざる可し然りと雖も英國は此事に對して毫も利害を感ぜざるに非ず暹羅は亞富汗と共に我東洋の藩屏國たり吾々英人たるものは實に其滅亡を坐視して止むものならんや