「千嶋艦事件及び領海問題」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「千嶋艦事件及び領海問題」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

千嶋艦事件及び領海問題

上海なる英國上等裁判所が千嶋艦衝突事件の訴訟に對して下したる判决の要領は此頃の紙上に詳記したるが如し其判决の不當なるは申す迄もなく殊に前裁判破棄の理由として擧げたる日本領海云云の論據の如き無稽の甚だしきものにして世間の論者が新聞に演説に之を論破し或は國際問題として爭はざる可らずとまで極言するものあるも國民の情として决して無理ならず我輩に於ても之に對するの情は世の論者に讓らざることなれども右の判决は只上海なる彼の上等裁判所が前裁判を破棄したるまでの手續にして本事件の訴訟は是れにて終を告げたるに非ず尚ほ此上にも事の直曲を爭ふの道は明に存するのみならず既に我政府にては右の判决を不當なりとして英國の樞密院に上告することに判したるよしなれば今日は輕卒に其是非を論ずるの塲合に非ず須らく心を靜にして其判决を待つ可きのみ若しも彼の樞密院の判决にして上海裁判の判决と説を同ふし不當の裁判を下すこともあらば其時こそは大に之を論じて其非を鳴らすも可なり或は事の次第にして國際問題の性質を帶ぶるものもあらば彼政府と談判を開て之を爭ふも固より其處なれども裁判事件の尚ほ未だ終結を告げざるの今日に當り遽に之を云云して國際問題など提起するが如きは太早計の謗を免れざる可し故に我輩は姑く筆を收めて終局の結果を待つものなれども彼の領海云云の問題に至りては訴訟事件とは全く別なるのみならず日本内海の日本の領海たることは明明白白の事實にして假令ひ外國の裁判所が如何なる判决を下せばとて其判决は此事實を抹殺し得べきに非ず日本の政府は日本の國權に據りて其領地を處置するの自由あることなれば我輩は此際に當り當局者に向て大に所望の個條ありと云ふは外ならず内海に特別航則を規定し内外の船艦をして一樣に之を守らしむるの一事なり彼の外國の船艦が不案内なる内海に入りて無理なる航路を取り屡ば衝突の危險を引起すが如きは航則の守る可きものなきが爲めにして其不都合は言ふまでもなく又彼の國人等が我庭前の泉水に等しき内海を世界一般の海上と同樣に觀て端なく今回の如き不法の判决を下すに至りしも畢竟我國に航則の設なく其取締の不完全なるよりして年來の習慣以て彼等の僻見を養成したるの事情なきに非ざれば此際内海の航則を規定して其取締を嚴にするの一事は最も肝要なる可し我輩は曾て千嶋艦衝突の當事に於て此事に就き意見を記して當局者の注意を促したることあり其大要は左の如し

 從來外國船の我内海を航するや往往無理なる航路を取りて之が爲めに屡ば他船をして避けしめ又は漁舟群集の中などを通過して覆沒破壞せしめたるの例さへも多し單に不時の災難として看過す可きものに非ず畢竟かかる不都合の生ずるは我内海に特定の航則なきが故なりと我輩の常に遺憾に思ふ所なり本來内海は讀んで字の如く眞の内海にして之を一家に喩へば庭前の泉水に異ならず唯便宜の爲めに他人の通過を許し置くまでのことなれば主人の都合に由り當分の内航行無用の札を立つるも他人に於て彼れ是れ云ふの權利はある可らず若しも一旦かかる禁制を定むるときは外船の西より東に來るものは氣の毒ながら薩摩沖を經て四國沖を迂回するの公道に由るの外なかる可し然れども斯くの如き窮屈の處置は公共の便利に少なからざる關係を及ぼして主人の好まざる所なれば爰に嚴重なる特別港則を設け苟も内海を通過する船艦は内外の區別なく之を守らしむること適當の處分なる可し抑も我内海には屈曲の多き處あり、嶋嶼の散在する處あり、海幅の殊に狹き所あり、潮流の急激なる處あり、漁舟の群集する處あり、海底深淺の差遽に變ずる處あり、千差萬別にして航海者は注意に注意を加ふ可き處なり而して航則を定むるにも精粗の別あれども先づ其大體を云へば一千噸以上の船舶は晝間は七八ノツト日沒後夜間は五六ノツトの速力と定め殊に前述の如き難處を經過し又は兩船相遇ふときは更に速力を遲緩ならしめ又船中に於ては甲板上に在る見張番の數を二倍し通常二人のものなれば内海通過の間は四人と爲し四人なれば八人と稱して一層見張に注意せしめ又楫取の人數も増して臨時急遽の令に應じ得るの用意肝要なり其他舷燈は殊に光力明透のものを用ひしむる等最も大切なる可し陸上の市街に於てさへ車馬の往來には自から法則ありて一定の速力を超ゆることを許さず又曲角、橋梁等の塲所に至れば進行を遲緩ならしむる等夫れ夫れ定めあることなれば况して危險の多き海上の船舶には取締の規則を欠く可らず彼の蘇士運河の如き嚴重の航則あるは世人の遍く知る所なるに今日に至るまで我内海に此設なかりしこそ我輩の遺憾とする所なれ云云  (本年一月八日の社説)

或は論者の中には内海の我領海なることを世界各國に宣言す可しなどの説のあるよしなれども内海の我領海たることは明白の事實にして今更ら宣言するの必要もなかる可し我輩は只前記の趣旨に基き一日も早く特別航則を規定發布し内外の船舶をして一樣に之を守らしめ以て其取締を嚴にせんことを當局者に勸告するものなり