「外政に關する注意」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「外政に關する注意」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

自重自衛の大切なるは人に於けると同樣國に於ても亦然り人と人との競爭あれば國と國との競爭あり此競爭に處して障碍を受けず侵害を被らざらんとするには漫に他の徳義を責む可らず自から防衛の道に注意して乘ぜらる可きの間隙を殘さざらんことこそ肝要なれ竊に政府年來の方針を見るに内政上に就ては當局の注意常に淺からずして特に民論に對する注意の如きは實に至れり盡せりと云ふ可し治安妨害の豫防にとて言論出版集會等の法をも制限し更に進んで保安條例豫戒令等を設定して其取締の綿密嚴重なる殆んど犯す可きの餘地なきまでに行屆きながら外政に關しては却て然らざるもの多きが如き轉た人をして内外の政策一致せざるを怪ましむるの情なきに非ず多年鎖國の風習を因襲したるの弊もあらんとは雖も人と人との競爭に拘泥して國と國との競爭に重きを置かざるの嫌なき能はず兄弟墻に鬩けども外その侮を防ぐと云ふ官民の矛盾相爭ふは兄弟の鬩墻にして外に對するの注意は寧ろ幾層の急務なれば對外自衛の身構心構は時勢と共に片時も油斷ある可らずと我輩の飽くまでも主張する所にして當局者に於ても必ず同感なるを信して疑はざる者なり近日の問題たる千嶋艦衝突の裁判の如きも我輩の既に述べたる如く我瀬戸内を以て世界の公海なり云云とは不當至極の沙汰にしてイヅレ遠からず事理判明の日ある可しと雖も裁判論の外に立ちて省慮するときは夙に早く航則を設定する等充分の用意ありしならんには此回の如き間違も其未だ起らざるに防ぎ得たることならんと今更遺憾の情に堪へず猶ほ今後を想像すれば北海道千嶋近海に於て外國密獵船の出沒するに就ても他日或は國際交渉の紛紜を釀すことなかる可きや注意深き政府ならんには豫め關係諸國と商議を遂ぐるか又は相應の處置なかる可らざる筈なれども未だ此邊の運びあるを聞かざるは是亦油斷の譏を免かる可らざるものの如し又眼を轉じて條約改正の始末如何を視れば民間には非内地雜居論者なるものを生じて其立言都て實際に行はる可らざる事を主張し曾て憚る所を知らず此種の議論をして勢力を得せしむるときは條約改正は幾年を期するも實行の日ある可らず分り切つたることなれば非内地雜居論は即ち非條約改正論と云ふも可なり然るに政府が此非條約改正論者を其論ずるがままに差置き陰にも陽にも之に反對し之に干渉し之に説諭し之に議論したるを聞かざるは政府の本心は果して何れの邊に在るや聊か疑なきを得ず國會議員の撰擧に就ては既に樣樣の干渉を試み今日にても多少心を勞する其政府が現に條約の改正を非とし尚ほ早しとするに等しき非内地雜居論又雜居尚早論の喧しきを見て平氣なるが如きは之を評して内外輕重の釣合を得たるものと云ふ可らず畢竟するに内國施政の多端なるが爲めに外を顧るの道なきことならんなれども左りとは我輩の感服せざる所なり一國の政權を執る者は其地位高くして人に尊敬せらるることも大なる其代りに責任も亦大なり而して國政は單に内國の事務のみにあらず内政に跼蹐して外事を等閑にするが如きは國家の不幸のみならず我輩は其人の私の爲めに謀りても尊敬の日に去らんことを恐るる者なり