「 進取と平和 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 進取と平和 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 進取と平和 

日本の國是は開國進取に在ること今更ら云ふまでもなけれども今日に至るまで果して

其國是を實にしたりやと云ふに我輩の見る所にては尚ほ未だしと答へざるを得ず外國

との交通は開國三十餘年來絶えず行はれて年を逐ふてますます繁多に赴きたるは事實に疑ふ可らざる所なれども進取の點に至りては更に一事の見る可きものなし或は政府が百般の制度慣例を改めて西洋文明の風に傚ひたるが如き自から認めて進取の政略と爲す所ならんかなれども是れは單に開國に伴ふたる自然の變化にして所謂萬里の波濤を開拓するの計畫は曾て當局者の心頭に上りたることさへもなきが如し維新以來政府の政略を見るに征韓論、臺灣征伐の如き一時の變動は姑く擱き專ら無事平和を旨として進取の實を認めず啻に外政に於て然るのみならず内政の如きも亦同じく緩慢の一方にして商賣に殖産に大に國本を培養して外に對するの策を講じたることなし怠慢至極にして既定の國是に對して申譯なき次第なれども幸なるは日本自然の國情他の奬勵保護を待たず自から發達進歩の素質を備ふるの一事にして殖産の事業は次第に盛大に赴き製造品の如き外品と競爭して之を壓倒したるもの一にして足らず殊に外國貿易の如き非常の進歩にして開國の當初に比すれば未だ四十年ならざるに殆んど四十倍の額に達し今後ますます發達の望ありと云ふ此一點より見れば政府の政略は無事緩慢を事として内外共に進取の實なきも商賣殖産は其政略の如何に頓着せず獨り自から進歩して止まる所を知らざるが如し日本の前途萬々歳なりと云ふ可し果して然らば今後は商賣一偏と覺悟して開國進取の國是を開國退守と改め陸海軍の如きは只體裁を備ふるに止めて其費用を他の用途に向け條約改正の如きは成るも可なり成らざるも可なり自然の成行に一任し政府の當局者は部内の任免黜陟を行ふの外、何事にも手を出さずして只枕を高ふして安眠する其安眠の中に國運は自から進歩す可しと云ふ實に氣樂の沙汰にして是亦自から一種の安心法なれども顧みて世界の大勢を察し我立國の成行を思へば其安心も决して永久の策に非ざるを見る可し若も今の世界にして無事平和單に商賣一偏の世界ならんには只商賣上に國を開きたるのみにして政府の局に當るものは枕を高ふして永く鎖國の夢を夢みるも亦妨なけれども世界進取の風潮は日にますます荒して獨り日本政治家の安眠を許さゞるを如何せん近くは東洋の有樣を見れば我近隣なる朝鮮の如きは殆んど亡國の状を呈して其運命甚だ久しからざるが如し若しも自から支ふること能はずして他の強國に併せらるゝにも至らば我立國の爲めに事態の容易ならざるは今更ら云ふを待たず之に對するの用意は目下の急にして單に退守を事とするの時に非ざる可し又世界の形勢を案ずるに歐洲の或る二強國が東洋に於て衝突の端を發く數年の後を待たざる可しとは獨り我輩の私見のみに非ず内外の識者の説を同ふする所にして早晩免れざるの勢なれば此塲合に臨んで獨立の體面を全ふし立國の安全を期せんには今日よりして豫め覺悟する所なきを得ざる可し右は立國自衛の急を述べたるものなれども更に國家經綸の大計を考ふればますます進取政略の必要を見る可し我商賣貿易はますます進歩の望ありと云ふと雖も之を自然の發達に任せて滿足す可きに非ず大に海外の航路を擴張し日本の船舶をして世界の海上に横行せしむるの一事は商賣貿易の發達を助るが爲めに是非とも必要の計畫なれども航海發達の歴史を見るに海外の航路を開て永遠の利を占めんとするには其航海の要路に適當なる碇泊所を有すること最も必要にして英國の新嘉坡又は香港に於けるが如き皆然らざるはなし今日差當り其塲所を見出すは容易の事に非ざれども此邊の考は豫め當局者の胸臆に畜へざる可らず又植民の計畫に至りては取りも直さず海外に領地を求むることにして其事たる進取の氣象あるに非ざれば行ふ可らず南洋邊の絶海孤嶋に數千に足らざる人民を送りて單に出稼に從事せしむるが如き小計畫は我輩の取らざる所なり盖し是種の進取政略を事として着々歩を進むるときは端なく他國の利害と衝突して交渉の事端を生じ或は不祥の事を見るが如き塲合もある可しと雖も進取と平和とは常に兩立するものに非ず既に進取を以て國是と爲す以上は時としては非常手段を要するの覺悟なかる可らず若しも不慮の事端を恐れて飽までも無事緩慢に安んずるの心ならんには開國進取の國是は一切止めにして鎖國退守を旨とするの外なからんのみ