「 條約改正談 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 條約改正談 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 條約改正談 

久しく跡を收めたる條約改正談は近來又もや世間の噂を催ほして或は近々の内に事の

成就を見るならんとの説あり一片の風説素より信ずるに足らずと雖も時勢の大局より

觀察し來れば亦自から信ぜざるを得ず其事たる外交の秘密に屬して當局者に就て眞否を糺す可きに非ず之を糺したりとて固より語る可きにも非ず又或は之を窺ひ知るも决して口外す可き事柄に非ざれば我輩に於て假令ひ聞き得たることありとするも之を公にするが如きは徳義上、敢て爲さゞる所なれども事の全體より推して其成行を察するに今日に於ては决して困難事に非ず當局者の覺悟次第にてはイツ何時その成就を見るも圖る可らず從來西洋諸國が我國に對するの有様を如何と云ふに單に一個の貿易國と見做して商賣貿易上に於て自國に利する所あれば則ち可なりとして其他を問はざりしものが近年來我開進々歩の國勢は彼國人の眼中に映じて次第に重きを成し遂に純然たる政治上の一國民と認むるに至りたるや實際に疑ふ可らず政治上の國民とは即ち對等國と認めたることにして對等の國に對して條約の改正を肯んぜざるの理由はある可らず左れば我申出にして苟も至當の請求ならんには先方に於ては漫に異議を張るに非ず其内實は却て彼れより進んで之を促すの事情もある可し改正の機正に熟して時節妙なりと雖も顧みて我國の内情を見れば如何なる次第にや條約改正と云へば極めて難病にして恰も結核癌腫の類の如く到底治療の及ばざるものと朝野一般に斷定したるものゝ如し故に或は竊に之を診察して實際必ずしも左ほどの難症に非ざるを發見し進んで自から主任醫の局に當らんとするものも其療法果して効を奏して手もなく難症を治し去るときは名醫の功名は其一人に歸し從來傍觀して手を束ねたる輩は全く顔色を失はざるを得ず是に於てか事の稍や佳境に入らんとするを見るときは百方に手を廻はして陰に陽に之を妨げんとする其魂膽いつしか外に漏れて忽ち世間の俗情を撤せしめ賣國奸臣など譯もなく騷ぎ立てゝ内外一遍の騷動を催ほすの常なるが故に當局者も茲に至りては自から匙を投ぜざるを得ず即ち毎度の失敗を重ねて不治難症の名をしてますます高からしめたる次第なれども國内に於て其評判のますます高きにも拘はらず相手なる外國の模樣を見れば前に記したる通り事、甚だ容易なるが如しと云ふ苟も局に當りて事情に通ずるものは此機會を看過する筈はある可らず况んや現政府の中には曾て其事に關して一たび匙を投じたる經驗家もあるのみならず近來は政府自から開國進取の旨を宣言して對外の責任に一層の重きを加へたることなれば改正の事業に就ては自から成算の存するものと認めざるを得ず若しも當局者が此際に當り覺悟を極めて至當の談判を試るに於ては成功必ず期す可し我輩の敢て疑はざる所なれども爰に恐る可きは其機密の少しにても漏るゝことあれば忽ちに例の反對を引起すの一事にして折角の苦心盡力も水泡に歸することなれば實際に着手したる以上は深く自から藏めて苟も事に關係せざるものは假令ひ政府部内親近の地位に在る吏人輩と雖も一切これを語る可らざるは無論、部外一般に對する取締の如きも飽までも嚴重にして漏洩を防ぎ一切萬事秘密の間に謀議を凝らして其發表は疾雷耳を掩ふに遑あらざるの趣向こそ肝要なれ斯くて内外の反對故障も起らずして容易に成功を見ることならん素より尋常一樣の事を成したるものにして一服の藥を投じて風邪を醫したるに異ならず當局者の手際として殊に感服す可きに非ざれども世間凡俗の情に於ては則ち然らず年來不治の症と認めたる條約改正の難病を立談の間に治したりとあれば天下の大功名は忽ち其人に歸すると同時に一世の怨惡も自から之に歸して或は不慮の奇變も圖る可らざるが故に大願成就の曉には之を機會に功成り名逐げて身退くの心を以て自から政界の外に去るの决心肝要なる可し單に其人の一身の爲めのみならず一時の治安を謀る善後の處置としても策の得たるものなる可し我輩の敢て豫め勸告する所なり