「孟買航路」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「孟買航路」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

孟買航路

日本郵船會社が内國の綿絲紡績聯合會社と契約を結び印度より輸入する綿花を運送の爲め孟買の航路を開きたるは實に昨年十一月の事なり其次第を尋ぬるに近年來日本の紡績業は非常に發達して隨て原料たる綿花を要すること一方ならず而して其綿花は從來英國彼阿會社の船舶にて孟買より輸入したるものなれども運賃は一噸に付き印度貨幣十七ルーピーの割合にして甚だ廉ならず然るに綿花の輸入は紡績業の發達と共にますます其量を增すのみなるが故に斯る高價の運賃を看す看す外國船に貪らるゝは實に馬鹿らしき次第なれば内國船をして孟買の航路を開かしめ運賃を減ずるこそ得策なれとて紡績業者及び綿商賣に從事する五六の人々は郵船會社に向て請求する所ありたれども同會社にても現在の船舶は夫れ夫れ既定線路の往復に忙しくして海外の航海に使用す可き餘裕とては非ざる其上に綿花の運送も彼阿會社の如く一噸十七ルーピーの運賃なれば非常に利益もある可けれども請求者の如く大に之を減ぜよとありては収支の計算立ち難しとて容易に應ぜざる折柄、孟買の商人にタヽ氏なる者あり本來波斯人にして綿絲綿花の製造商賣に從事し同地にて屈指の豪商なるが近來印度の綿絲が兎角日本に賣れざるより實況視察の爲めとて我國に來り日本の紡績業は案外の發達にして印度の綿絲の如き迚も競爭の限りに非ざるの事實を發見して今後の策は只原料の綿花を賣付くるの外なしとの商案を決したることならん同氏も兼てより彼阿會社の運賃を不相當なりと思ひしことなれば日本の同業者中に綿花直輸入の議あるを聞て大に之を賛成し日本人にしていよいよ直輸入を企つるに於ては同氏も亦相當の船舶を出して共同の責任を〓らんとの案を申出したるにぞ郵船會社も茲に至りていよいよ坐視するを得ざることゝ爲れり本來同會社が孟買航路の開始を躊躇したるは船舶不足の事情もあり第一には収支の計算立ち難きが爲めなりしなれども綿絲紡績當業者より懇々の請求と云ひ又タヽ氏の申出と云ひ日本唯一の航海會社として内外に屬望さるゝ郵船會社たるものは國の面目に對しても捨置く可きに非ず成敗利鈍は後日の談として姑く擱き兎に角に其事を試みんとの議に決して當業者の請求を容れ會社とタヽ氏とは雙方より二隻つゝの船舶を出し都合四隻の船を以て孟買日本間の綿花運送に從事することゝなしたるが最初郵船會社に向て請求したる者は五六の會社に止まりしかどもいよいよ事の成らんとするに至りて同業者の加盟を申込むもの頗る多し即ち郵船會社は右の綿絲紡績聯合會社に對して以上の船舶を以て通常毎三周間一回を目的とし運賃は一噸に付き十三ルーピーの割合に定め一箇年間に五萬俵の綿花を輸入するの約束を結び其約束は一箇年間繼續することゝして茲に郵船會社と聯合會社との契約は全く整ひ郵船會社は右の契約に從ひ昨年十一月より孟買の航路を開始することゝなりたり抑も事の始めは内國の綿絲紡績業者が彼阿會社の運賃不相當に高きが爲めに郵船會社の開航を促して會社も止むを得ず之に應じたることなれども其成行は端なくも彼阿會社と競爭の地位に立たる姿にして事體容易ならざるものあるが如し是れより先き我會社にて孟買航路開始の企あるや彼會社の役員等は此事を聞知りて恰も忠告するが如く恐嚇するが如く我に體して其企の不利を鳴らして事の中止を望みたるよしなれども固より中止す可きに非ざれば其儘に聞流して格別取合はざりしに彼も亦其儘にして止みたりと云ふ盖し彼の考に於ては例の日本人の企なれば永續きのす可き筈なし其中には自から疲れて自から倒るゝことならんとて深く意に介せざるものゝ如くなりしに爾來事の成行を見れば聯合會社の結合はますます固くして其契約は着々實行せらるゝの有樣なるにぞ此儘に捨置き難しと思ひたることならん彼會社の香港支店長は倫敦の本社に到りて協議せしよしにて從前十七ルーピーの運賃を遽に引下げて遂には僅に一ルーピー半と爲し又印度より支那に輸送する阿片の如きも一箱に付き十九ルーピーなりしを一ルーピーに減じて大に競爭を試み以て我航路を壓倒せんとするの色を現はしたるぞ由々しき大事なれ顧みて裡の有樣を見れば聯合會社の結合固からざるに非ず又その契約も嚴ならざるに非ずと雖も聯合會社が郵船會社の船舶に搭載す可き綿花の量は一箇年五萬俵を限るの約束にして其他は何國の船に搭載するも勝手なれば我商人たるものも彼會社の低運賃を利して約束以外の荷物は勢、彼に托するに至らざるを得ず又郵船會社の運賃は最初十三ルーピーの約束なりしもタヽ氏の印度に歸るや彼地の事情止むを得ざるものあればとて十二ルーピーに減額の旨を申來り會社に於ても之を承諾するの止むを得ざるに至りしより左なきだに収支如何を氣遣ひたる計算はますます狂ひを生じて斯る次第にては契約の維持も如何あらんと當局者の心配一方ならざりしが聯合會社の人々も茲に見る所ありて更に協議を盡し運賃は十二ルーピーに減じたれども聯合會社にて輸入する綿花は其運送を悉皆郵船會社に托し一俵たりとも他の船舶に搭載せざることを約し又郵船會社に於ても前の四隻の外に更に臨時船を使用して運送の便を謀ることゝ爲し從來の約定期限一箇年を二箇年の繼續に改めたり即ち今回郵船會社と聯合會社との間に契約の追加を要するに至りし次第にして目下の處にては内部の結合ますます固くして他の競爭も先づ以て恐るゝに足らざるが如くなれども更に將來の成行を考ふれば大に掛念す可きものあり我國人の等閑に看過す可らざる所なり (以下次號)