「開明主義と保守主義の消長」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「開明主義と保守主義の消長」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

開明主義と保守主義の消長

維新革命の先鋒として幕府を攻め倒したる攘夷論も文明改〓の勢には敵すべくもあらず次第に屏息して一時全く其形影を〓るに至りしが其後死灰再燃、或は國粹論となり或は雜居尚早論となり或は條約〓行論となりて國〓の〓歩を妨るに至りしは何故なるやと云うに開明派の人々が一時の方便として代る代る守舊論者を利用したる結果と云わざるを得ず今其次第を語らんに明治十三四年の頃國會開設論なるもの四方に勃興して何となく不穩の樣子なりしかば當局者も其始末に困却し或は勢に乗じて國會を開設し以て治安を維持すべしと云うもあれば或は民權論を征伐すべしと云うもありて議論粉々の末、〓に征伐論の勝利となりて大隈氏は冠を掛るに至りぬ扨て征伐論と決したる所にて如何にして之を征伐せしかと云うに別に名案もなかりしと見え一たび屏息したる古學者の類を呼び〓し高天原主義と儒〓主義とを混和して古めかしき議論を唱えしめ以て民權論の氣〓を殺がんとしたり文部の邊に古風なる人物を採用し儒〓主義を再興したるも此時にして帝政黨なるものを組織せしめ〓主や時勢後れの頑固〓を〓り集め民權自由の説を挫かしめんとしたるも此時なり、明治日報など云へる改明主義反對の新聞紙を興したるも此時にして漢書類の再び世に出で始めたるも亦此時なり、即ち開明派が守舊論を利用したる第一回にして今日排外論の氣〓中々に盛にして動もすれば文明の〓歩を妨げんとする實あるは此政略の賜と云わざるを得ず次に守舊論を利用して其勢力を助長したるは明治二十二年條約改正騷ぎの時にして此時に於ては開明派は一部分が大隈外務大臣の改正案を不可として陽に論じ陰に妨ると同時に保守論者は好機失うべからずとて躍〓となりて反對論を唱えしかば開明派の人人も〓生は相反目するにも拘わらず直ちに相提携して頻りに之を鼓舞奨勵するのみならず其口調をさえ保守論者に似せ二十餘年前に流行したる攘夷論者の筆法を以て盛に排外的〓〓を撥揚したるは當時の新聞紙に徴しても事明白なるべし盖し開明派は條約改正を打ち破るるに急にして後害を思うに遑なく何人にても苟も改正に不同意なるものは之を友として一時の利用に供したることならんと雖も今日より之を思えば保守論を助長して開明主義の〓歩を妨害したるものにて自家永日の利害の爲めには至極の不得策として惜まざるを得ず是れ即ち開明派の人々が保守論者を利用したる第二回にして而して今や第三回の例として開明派の一部分が保守論者と提携し相共に條約〓行論など唱〓して盛んに排外の〓氣を醸〓しつゝあるは盖し亦一時の政略にして其本意にはあらざる可しと雖も之れが爲めに培養せられたる保守論は今や其培養者は反〓し明治二十二年に鼓舞奨勵したる排外主義は今や其鼓舞者に刃向いつゝあるも亦偶然に非ざるなり左れば今日開明主義なる某政黨の友として利用する所の保守排外論も〓に出るものは爾に〓りて何日か一度は必ず其利用者の政略を妨害して之を惱すことある可きは明白にして我輩の餘所ながら感服せざる所、否な世〓の〓歩の爲めに深く悲む所なりと云うは外ならず我日本の如く文明の中心點より〓く離れて世界の片田舎に居を占るものが文明の諸國と共に文明の競爭せんには田舎漢の國自慢を學ばずして〓心〓氣に彼の事物を觀察し苟も〓て利あり學んで益ありと思わるゝ所のものは何國の〓たるを問わず〓慮なく之を採り之を學んで我〓歩の用に資する覺悟なかる可からず我開國三十餘年來長足の〓歩を以て西洋人を驚かしたる其由來を尋れば唯大膽に開國主義を取て海外の文明を輸入するに〓疑せざしりが故のみ支那帝國の廣大なること彼の如くにして守舊排外の氣風盛にして文明の事物を容るゝ勇なきに坐するものなり我日本に於ても維新以來舊時の鎖國風に安んじて外人に對し外物を〓ること今日の如く無〓刻薄にてありしならんには文明の〓歩に一段の後れを取りしは論者も亦疑わざる所なるべし左れば開明派の人々が一時の方便として保守論を利用する利は則ち利なるに似たれども少しく前後を考れば自家の爲め又國の爲めに他日の害を〓す可きは明白にして之を譬えば政界の〓動に所謂〓士を使用するが如し撰擧の時などに反對派を脅〓する〓具としては〓士の暴行も至極便利なるに似たれども毎度これを利用する結果は〓士の勢力を盛ならしめて〓に彼等の爲めに利用せらるゝに至る例なきに非ず現に或る撰擧區に於ては多年來〓士の團體が撰擧の事に關係するよりして其團體の勢力甚だ強く苟も地方の有力者にして候〓を爭わんには先づ錢を出して團體の承諾を經ざる可からず其承諾を經て幸に當撰すれば歳費八百圓は耳を揃えて之に奉納し我身も亦團體の事務所に出入して少年輩と共に雜居眠食せざる可からず全く〓士の奴隷と云うも可なり又或は漫〓と披露して京坂地方などへ出掛る常なり其次第は〓具に使いたる因果として議會の期となれば兼て〓づけたる〓士輩が續々出京し例の大家に出入して横風に眠食せんとする其煩〓を〓るが爲めなりと云う奇〓と云うべし開明派の論者が前後の思慮もなく屡々保守論者を利用する結果は主客顛倒〓〓に斯くの如き始末に立ち至ることなきを期すべからず我輩の氣の毒に思う所なり