「ペスト病原の發見」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「ペスト病原の發見」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ペスト病原の發見

北里青山兩博士がペスト調査の爲めに香港に出張したるは世間の眼より見れば誠に危く恐ろしき次第なれども醫師の病に於ける軍人の戰爭に異ならず千軍萬馬の敵を恐れざるは勇士の事にして百發百死の流行病を危しとせざるは醫師の本分なり我輩は兩博士の行を盛なりとして其調査の成跡如何を待設けたりしに一昨十九日午前北里博士より香港發の電報内務大臣に達し

 今回黒死病(ペスト)の病原を發見せり

とあり電文簡單固より詳なるを知る可らずと雖ども爰に我輩の想像を以て其調査發見の事情を案するに病毒は果して有形の黴菌(或は小動物)にして博士は既に之を捕へて培養し又これを動物に試みたることならんペストの發症は專ら腺に在るとのことなれば博士は患者に接して其血液膿汁を取り顯微鏡に照らして一種異樣の黴菌を見出し乃ち相應の培養液を製して之を養ひ純粹培養の効を奏したることならん(純粹培養とは原語にライン、コルチュールと云ひ黴菌を調査するに當り一點の血膿中に千差萬樣の黴菌を出現する其中より此黴菌こそ云云とて先づ之を見分け其物だけを養ふて他を混することなからしむるの法にして黴菌學中至難の術なり北里氏は特に此術に巧にして歐羅巴諸國の醫學社會に於ても氏と優劣を爭う者は稀なりと云ふ殊に東洋地方に在る西洋醫中には未だ黴菌學の門に入らざる人さへ多ければ香港在留の醫師も北里氏に接して始めて大に得たることある可し)既に純粹培養を得たる上はペストは北里氏手中の物にして之を動物に試みたることならん、此動物の種類を擇ぶに就ても樣樣に工風を要することなれども幸にペストは鼠を犯すこと甚だしとの事實あれば氏は先づ鼠を以て試驗の用に供したることならん、扨その培養したる黴菌を鼠に注射し又は食物に混して食はしめなどすれば忽ちペストの病症を發したることならん、尚ほ比較の爲めにペスト患者の血液膿汁等を其まま注射し又は食はしめて發する所の病症も人造培養物より發する病症も正しく同樣にして果して培養物の眞に病原たるを證したることならん又或は此病毒の口より入ると皮膚より入ると孰れか感染に急なるやも發見したることならん、又この病毒は何物に強くして何物に弱きや、何度の熱に死し何等の消毒藥を恐るるか、乾濕明暗孰れか生存に利にして其程度如何をも發見したることならん、又右等の事實を明にして實際の豫防をも工夫し尚ほ一歩を進めて黴菌學の主義に基き藥液を製造して注射免病の法にも心を寄せたることならん

以上は我輩が醫學社外の素人を以て北里氏の病原發見の次第を想像したることなれば眞實の事實に中る可しとは思ひも寄らず百事氏の歸來を待て發表することならんなれども此想像にして大凡の實際に彷彿たることもあらんには氏の發明はペストの豫防法に就て利する所最も大なりと云はざるを得ず開闢以來世界中に此病あるを見て其病原の所在を知らず其病毒の性質を知らず敵は恐る可しと雖も其敵は何れの邊に潛伏して如何なる武器を携ふる者か一切人の知見に洩れたるものが明治廿七年即ち千八百九十四年の今日日本の醫學博士北里柴三郎君の爲めに發見せられたるこそ愉快なれ既に敵の伏する處を發して其強弱を詳にすれば之を防ぐの勇氣も亦自から百倍す可し醫學の勝利人類の幸福にして其榮譽は單に博士の一身に止まらず我帝國文明の進歩を全世界に發揚するに足る可し