「遼東半嶋の一時占領」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「遼東半嶋の一時占領」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

遼東半嶋の一時占領

我政府は曩に露獨佛三國の忠告を容れて遼東半嶋の地を清國に還附することに決したれども其還附の措置は詔勅の文にも明なる如く日清兩國の間に會商す可きものにして決して他の容喙を許す可らず其會商の結果は未了の問題にして素より知るを得ずと雖も我輩の所見を以てすれば右還附に付ては更に賠償の金額を增加せしめ其擔保として一時該半嶋を占領するを以て穩當の處置なる可しと信ずるものなり抑も遼東半嶋は平和條約の結果として我に收めたる條件中の最も大なるものにして實際賠償金の割合に少額なるも畢竟右の土地を得たるが爲めに大に恕したるの意味もある可し然るに今これを還すとあれば其代りとして賠償の金額に增す所ある可きは至當の沙汰にして彼に於ても素より苦情のある可きに非ず半嶋の地たる彼に取りては非常に重要の塲所にこそあれば之を金に見積るときは容易ならざる額に及ぶことならん兩國の會商に於て其數を定め之を既約の二億兩に合するときは賠償の負擔は更に大に增加して隨て拂込期限も自から延引せざるを得ず目下清政府の事情に於て左もある可きことなれば故さらに之を急にして其財政を苦しむるは我本意に非ざるが故に拂込皆濟までの擔保として假りに該半嶋の地を占領し彼に十分の便利を與へて會計の都合を謀らしめ期限の長きを厭はずして心靜に皆濟の日を待つの外ある可らず本來の條約には本約の規定を誠實に施行す可き擔保として日本軍隊は一時威海衛を占領するの明文あり右の擔保占領は對岸の遼東半嶋を日本の所領地として單に威海衛と限りたることなれども今や其半嶋を還附することゝ爲り且つ之が爲めに賠償の金額を增したる上は更に擔保を大にす可きは勿論にして現在我軍隊の占領したる土地を其儘擔保と爲して一時占領を繼續するは至當の處置として何人も異議なき所なる可し

右に述べたる如く賠償金の擔保として若干年の間、遼東半嶋を占領するは素より至當の處置なれども更に我輩の所見を以てすれば半嶋の一時占領は右の理由を外にして世界人道の爲めに實際止むを得ざるの處置なりと云ふ其次第を述べんに平和條約第九條に「清國は交戰中日本國軍隊と種々の關係を有したる清國臣民に對し如何なる處刑をも爲さず又これを爲さしめざることを約す」との一節あり自國の人民にして一時敵國の軍隊と關係したる者あれば其事情の如何を問はず直に奸賊の名を付して之を殺戮するが如きは支那の國風にして其慘酷看るに堪へざるものあるが的に今回の條約に特に此明文を掲げて其蠻風を豫防したることなり實に注意の至れるものなれども扨實際に於て斯る注意は果して有効なる可きや否やと云ふに我輩は彼が平生の擧動に〓し單に條約の文言のみに依賴して安んずること能はざるものなり盖し我軍隊と種々の關係を有したるものは多くは占領地内の人民なれば其地にして永久我所有に〓せんには是種の人民も日本の保護の下に生命の安全を托することを得て實際に危険の虞あるものは甚だ少なしと雖もいよいよ其土地を彼に還附して日本の軍隊を引揚るの暁に至れば憐む可し苟も我軍隊に往來出入したる土民等は忽ち身首處を異にするの不幸に陥るや萬々疑を容れず或は條約に規定ある上は彼の政府に於ても流石に斯る慘酷の擧動はなかる可しと思ふ人もあらんかなれども如何せん彼國の現状は政府の威令行はれずして百事當局者の意の如くならず例へば今度臺灣の明渡に就ても同嶋に在る黒旗兵等は政府の命を用ひずして其明渡を拒むの模樣あるにぞ鎭撫の爲めにとて中央政府より更に五千の兵を發したれども其兵も亦黒旗兵に與して共に暴動するならんと云ふ以て事情の一班を知る可し左れば政府の當局者に於ては或は條約の規定を無にするの考なしとするも無知蒙昧なる地方官等は條約の何物たるを知らず一地方の唯我獨尊の權能を濫用して漫に人民を虐殺して却て國の爲めに奸賊を誅したりなど自から得々たるは實際に疑もなきことなれば條約の明文の如きは決して依賴するに足らざるなり又或は右等の事情を冷淡に看過し半嶋の地も我日本の版圖と思へばこそ心配なれども既に之を還附すれば今は則ち外國なり外國人民の安危幸不幸は吾々の知る所に非ずと一概に論破し去れば夫れまでのことなれども左りとは世界の人道を如何せん今や日本の軍隊が占領地を去ると同時に幾百千の人民を不測の禍に陷るゝは疑もなき成行にして之を豫防するものは唯一片の約束のみと云ふ不安心至極の事なり左れば今後數年の間は我軍隊の力を以て地方人民の生命を保護し人民をして徐々に自から全ふするの道を得せしめ又一方には支那政府に向て徐々に勸告を試み能く中央の威嚴を維持して國中苟も不人残酷の擧動を制止せしむること肝要なる可し何れも歳月を要することなれば償金拂込の不如意こそ却て幸なれ悟らしむるは吾々日本國民の天職なりと知る可し遂に軍隊を引揚げて幾百千の人類を見殺にするが如きは我輩の斷じて忍ぶこと能はざる所なり