「戰勝の結果を收む可し」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「戰勝の結果を收む可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

戰勝の結果を收む可し

戰爭の結局目出度く我勝利に歸して日本國の名譽を世界に轟かしたる今日に當り社會一般の人氣は兎角沈鬱して引立たず殖産興業の計畫の如き成る可く控目にして自から進んで着手せんとするものなきが如し連戰連勝美事に敵國を挫折して一も二もなく彼を降伏せしめたる結果は必ず非常のものなる可しと一般に待設けたる其豫想に反し結局に至りて意外の成行を見たることなれば不愉快も亦人情にして敢て無理ならずと雖も事の實際に於ては遼東半嶋こそ我手に入らずして恰も掌中の珠を奪はれたるの感なきに非ざれども平和條約の結果として我に收めたる臺灣は土地豊穰にして各種の物産に富み開發拓殖の望多多なるのみならず支那に對する通商貿易の規定を改正して新に數個處の市塲を開かしめ彼の内地に於ける航業、製造、貿易等に非常の自由を得たるが如き恰も我商賣工業を培養發達す可き新天地を開きたるものにして單に此一點より見れば充分滿足の結果と云はざるを得ず况んや今日は結末の成行無事に治まりて臺灣の處分も次第に其緒に就き改正條約の訂結も數箇月の内に見る可しと云ふ我國人たるものは漫に想像を〓き杞憂を憂へて自から鬱することを止め大に勇氣を奮て敢往進歩戰勝の結果を實際に收むるの用意肝要なる可し今や我國も文明の一強國として世界の競爭塲裡に入りたる上は海陸の軍備も從前の小規模に安んぜずして大に擴張せざるを得ず目下一般に其必要を認めて異議なき所なれども軍備の擴張は國力の富貴と相伴ふ可きものにして幾十萬の兵隊を備へ幾十隻の軍艦を造りて盛に武威を張らんとするも國力にして空乏を告ぐるときは如何ともす可らざるのみか本來軍備は不生産的にして多多ますます國力を消費するものなれば既に擴張の必要を認めて實行を期する上からは國民の分として其消費を償ふが爲めに只管商賣工業を勵みて資力の増殖に勉めざる可らず孜孜勉強百方に注意する中に就ても戰勝の結果として恰も富殖の爲めに自から開きたる原野は〓に一葦帶水を隔てて主人の來りて開拓せんことを待つものの如し因循躊躇す可き塲合に非ざるなり抑も今度の戰爭に付き日本の損失を〓ふれば直接の軍備は申す迄もなく豫備後備の兵を臨時に召集して就業に必要の時間を空しふせしめ運兵の爲めに鐵道汽船を專用し運輸交通の便を■(にすい+「咸」)じて商賣を澁滯せしめ又外國貿易の通路に危險を感じて幾分か輸出入の不便を來したる等、間接の影響は非常のものにして容易に算す可らず然るに平和談判に際して我に收めたる償金は僅に二億兩にして漸く實際の軍費を償ふに過ぎず如何にも少額にして得失相償はざるが如くなれども盖し當局者の考に於て目下支那の國情は現金を償はしむるに困難の事情を諒し一時の償金よりは寧ろ永遠の利益を期せんとて金額を少にしたる其代りに通商條約に於て商賣工業上の自由を收めたるものなるや疑ふ可らず左れば陸海の軍人は身命を抛て國の爲めに戰ひ外交の當局者は永遠の利害を考へて談判に苦心したる其結果を實際に收むると收めざるとは國民の覺悟一つにして若しも因循奮はずして躊躇する其中には折角戰勝の結果も徒に他國人の利する所と爲りて日本は非常の力を勞しながら俗に云ふ虻蜂取らずの愚を見るに至るやも知る可らず此程の外國新聞を見れば香港在留の西洋人は今度支那の内地に一大紡績所を設立せんとて株主の募集を廣告したるに七千五百株の内既に五千五百株の應募者あり遠からず設立の運びに至る可しと云ふ我戰勝の結果を利用したるものにして彼等の機敏驚くに堪へたり支那内地の企業一にして足らざれども差當り紡績、航業、船渠業の如きは利益の見込確かなるものなり我國の金滿家資本家たるものは早く此點に注目して事を計畫し自から利し兼て國を益せんこと我輩の敢て望む所なり