「去年今日」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「去年今日」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

去年今日

本日は黄海海戰の一周期にして吾吾國民の最も記臆す可き日なり抑も昨年開戰の始めに際して國民一般の衷情を問へば日本の國威を發揚して多年の鬱抑を伸ぶるの時機到來したりとて非常に奮發したる中にも顧みて竊に心を病ましめたるは海軍の實力如何の一事なりき陸軍は最初より自から信ずる所ありて必勝を期したれども海軍に至りては彼我の勢力を比較して艦體と云ひ噸數と云ひ彼に及ばざるの點少なからず頼む所は只將士の熟練と勇氣とのみ甚だ不安心に堪へずして誰れ一人として口外したる者こそなけれども胸中無限の心配を藏めて事の成敗を氣遣ひ默して言はず、言へば則ち〓〓を放ちながら互に竊に心を痛しめたる其有樣は若武者の初陣に門出を祝する家人の情に異らず今日は如何、明日は如何と手に汗を握りつつありし折■(てへん+「丙」)、昨年の今月今日、平壤の勝報に引續き黄海の激戰、海軍大勝利の報知に接したる其時の嬉しさは喩ふるに物なく手の舞ひ足の踏むを知らざる程の次第にして事の意外に出でたるのみならず戰爭の局面を一變して勝敗の大勢を定めたるは實に此海戰の結果と云はざるを得ず平壤の大勝美事ならざるに非ず最初の一戰に敵の精鋭を殲して先づ其膽を奪ひ爾來連戰連勝の始を成したるの效蹟は素より大なれども海戰の一擧殆んど彼の海軍力を破碎し了り敵海を制壓して我進撃の路を開き攻守の勢を一變せしめたる其結果に比すれば自から同日の談に非ず若しも彼の一擧なかりせば朝鮮の國境内に敵の隻兵を見ざるに至るも鴨緑江以北の進軍は容易ならず况んや海を隔つる旅順口威海衛に於てをや其門戸を窺ふも覺束なかりしことならん彼の義州附近の耳湖埔に運送の便を開て第一軍の進軍を助け又花園口榮城灣に第二軍を上陸せしめて敵國双關門の占領を容易ならしめたるは黄海の一戰、敵海を制壓したるの結果に非ざるはなし制清史上に特筆大書す可きは實に去年の今日にして一般國民の永久忘る可らざる所なり戰爭の伎倆如何は其事實の世に明なるに隨て自から公評あり我兵器の精良、速力の輕快、乘組員の熟練勇氣を以てすれば當日の勝敗决して偶然ならざりしを知る可し今日に至りて世間或は説を作す者あり云く敵の艦隊が既に其列を亂し踏留て戰ふものは定遠鎭遠の二艦に過ぎず殊に其一艦は艦内に火を失して進退自由ならざるを目撃しながら何故に我炮火を彼の二艦に集注せしむるか若しくは衝撃を試みて其生命を絶つの决斷を取らざりしや、敵艦既に戰鬪に堪へずして逃走するは我進撃の好機會なり然かのみならず彼は失火の爲めに非常の損害を蒙り其走て向ふ所は船渠を有する旅順口なること問はずして明白なるに我艦隊は速力の輕快なるにも拘はらず何故に其方向に追撃するか若しくは先廻りして之を要撃し以て其全滅を期せざりしやなど自から種種の批評もあるよしなれども是れは事後無責任の空談にして勝敗の事實を輕重するに足らず我輩は特に外國との戰爭に全局の大勢を决するは一に海軍力の如何に在りとの證明を眼前の事實に得て大に國民の覺悟を促すの利益を認むるものなり今回の戰爭は日本國の威光を世界に發揚して國の地位を高め又隨て四邊の事を多端ならしめたるも自然の數にして之に對しては大に備ふるの必要を生じたり而して一旦事の端を開くの曉には進んで敵を攻むるの姿勢を取るも退て自から守るの地位に立つも之を决するは海軍の勢力如何に在り若しも去年今日の海戰に其事實を反對にして敵艦を我海上に引受くるの塲合ともならんには今年今日の有樣は果して如何あらんと自から考へたらば自から大に悟ることならん我國民たるものは今日を紀念として永久記臆すると同時に四邊に對して有力の海軍を備ふるの必要を一日も忘る可らざるものなり