「富豪大家大に動く可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「富豪大家大に動く可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

富豪大家大に動く可し

世人或は曰く社會の安寧幸福は一般の貧富相平均して萬民等しく其生を樂むに在り彼の巨萬の富を積める富豪大家の如きは多々ますます貧富の勢を偏重ならしむるものにして民安の爲め寧ろ有害物なり云々の説なきに非ず封建鎖國、天下太平、四海無事、士族は職を世々にして世祿に衣食し商工は一國内の商賣製造に從事して其業を營み敢て多を求めざる時代ならんには一般に甚だ富めるものもなく又甚だ貧しきものもなく貧富平均、熙々煌々として萬民共に太平の春を樂むを得べし富豪大家ありと雖も巨萬の資本これを用ふるに所なくして恰も寶の持腐と同樣の次第なれば之を無益視するも或は可ならんなれども既に一國を開放して外交の道を廣くし次第に進んで文明の競爭場裡に入り商賣に興業は滿世界を相手にして大に爭はんとする今日の世態と爲りては先だつものは資本の入用にして差當り大資本家の必要を感ぜざるを得ず或は資本の供給は必ずしも富豪大家を待たず之を一般の世閒に募集して一個人の出金は何千何百の小額にても細々積んで山を成せば自から大資本を得るに難からず現在の諸會社は孰れも此趣向にして營業の實際に差支なきに非ずや論より證據にして特に大家に依賴するの必要なしとの説あれども畢竟迂闊の説たるに過ぎず云々の目的にして云々の計畫なりなど先づ豫算より割出して資本を募るが如き悠々閑々の事業には株式會社の組織も適當ならんなれども世界商工の劇しき競爭に敵と相對して一擧に勝敗を決し或は他の知らざるに先んじて奇計を運らし奇勝を制するが如き活溌機敏の掛引は株式會社には到底望む可らざる所にして大資本家の自由運動に一任せざるを得ず喩へば政府の事にしても通常の政令法律を發するの場合には先づ議會の協贊を求むる等、夫れ夫れ手續を要すれども外交の機密、宣戰媾和の決斷の如きは之を大權の自由に一任して苟も他の容喙を許さゞるが如し我輩は此一點よりして今の社會に富豪大家のますます多くして其運動のますます活溌ならんことを望むものなり蓋し富豪大家が社會の表面に立つ其有樣は猶ほ森林の大樹の如し重蔭四邊を壓して日光を蔽ひ雨露を遮り爲めに樹邊に生々する草木の發育を妨るの害は幾分か免れざれども鬱葱たる枝葉は水分を吸收して大に水源を養ひ屹然たる樹幹は自から障塀を成して暴風を防ぐ其效能の偉大なるは自から掩ふ可らざる所のものなる然るに世人が單に其小害を云々して大效能を認めざるは決して公平の見解に非ざれども然れども亦一方より見れば從來富豪大家が大に運動して其大功能を一般に示すの機會なかりしは遺憾なりと云ふべし是れまで大家の人々は自から業を企てたること甚だ稀なり或は世閒小資本の輩が何か事業を企てながら自から力の足らざるか又は經濟社會の不景氣に遭ふて維持に苦しむなどの場合に至り大家は恰も他に泣付かれて辭するを得ず不本意ながら其事業を引受けて自から經營するなど畢竟消極的の運動にして進取活溌の風なかりしかども今や日本の社會は非常に發達して國内の企業の如き敢て大家の力を要せざるのみか實際その力を要す可き大事業も乏しき其反對に顧みて海外の近情を見れば競爭の大勢ますます切迫して最早や寸時の猶豫を容さゞる其中にも差當り日淸戰爭の結果として支那内地の商賣企業は恰も世界競爭の據點と爲り速に自から進んで取らざるときは他に機先を制せられんとするの實勢を呈したり是れ豈に我富豪大家が大に奮發して其大功能を社會に示すの時機に非ずや此時機に際し進んで自から利して兼て國を益するの大企圖は其運動の自由活溌なる大資本家の外に求む可らず國民一般に望を屬する所なり然るを尚ほ狐疑觀望して決すること能はず國内に蟄居して内々小利を漁るが如き擧動あらんには世閒の非難はますます聲を高ふして富家大家は果して有害の毒物なりなど評するものあるも我輩は辨解の辭なきに苦しむものなり