「米國の新勢力」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「米國の新勢力」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

米國の新勢力

北米合衆國が英國とヴエ子ズ井ーラの境界爭論に喙を容れんとし英國が之を却くるや大統

領クリーブランド氏が一百萬挺の小銃、千門の野戰砲、五千門の海岸砲を製造せんがため

一億弗の經費を支出せんことを議院に要求したる一事は輕々に看過すれば對岸の火災、毫

も我に得失なきが如くなれども其實决して然らず東洋に於ける英露の衝突にも劣らざる外

交上の重要事件と云はざるべからず抑もヴエ子ズ井ーラと英國と孰れか是にして孰れか非

なるかは容易に分別すべからず又我輩の分別するを要せざる事なれども之に對する北米合

衆國の擧動に至ては殆んど從來の外交政策以外に一新面目を生じたるものにして之と隣國

の交ある日本國民の輕々に看過す可らざる一現象なり今を去ること七十三年前米國に於け

る西班牙の屬地が獨立を企だてしとき西班牙の兵力足らずして或は歐洲の強國と聯合軍を

起さんとするの恐ありしがため時の大統領モンローは歐洲に對する豫防線を張らんとして

下院に下だしたる敎書の中に如何なる國民にても米國大陸に頒圖を擴張するが如き方法を

以て干渉するを容さずと宣言したり爾來幾十年、北米合衆國は此モンロー主義を基とし他

國をして毫末も米國大陸を蹂躙せしむるを容さゞるを國是としたりしが歐洲大陸に於ては

佛國大革命の反動として最近三十年來國民主義の流行を催ほしたるよりして米國の少年輩

も亦自から此流行に感動せられ本來自由、博愛、無干渉の外交を主としたるものが漸く趣

を改め内に於ては聯邦各州の權を薄くして中央政府に集中し隨て國防を嚴にし海軍を擴張

し外に向ては徐々に政治上の勢力を擴張せんことを勉むるの風を生じ曾て西班牙の暴力を

拒絶せんが爲め一時の便宜より發したるモンローの敎書は今や一變して全般に對外政策の

基礎と爲り歐洲佛國の邊に發生したる國民主義は新世界に飛來して米國の政界を風靡せし

めつゝあるこそ近來の新事相なれ左れば嘉永六年水師提督ペルリが浦賀に來りし以來米國

の外交政策は古今一律無干渉に止ると思ふ者あらば舟に刻みて劔を求るの愚と何ぞ撰ばん

其證據としては布哇の革命、キユーバ叛亂の内情、朝鮮に於ける米國公使の進退、又今回

のヴエ子ズ井ーラ事件を數ふるを得べし思ふにヴエ子ズ井ーラ事件は遂に砲烟彈雨を見る

に及ばずして落着する事なるべしと雖も苟も北米合衆國人が其祖母國に向て開戰を挑むの

風を示したるは容易ならざる事にして獨りクリーブランド氏のみならず前大統領ハリソン

氏も今は檄を四方に飛して強硬主義を勸告しつゝあるを見ても北米の人心が外に向て勢力

を張らんと欲する熱心の度を見るを得べし若しそれ少年政治家に至ては此に止らず土耳古

の問題すらも米國の手にて解釋せんと主張するもの少なからず兎に角に國民主義の發達と

云ひ、海軍の擴張と云ひ世界の外交社會に於ける米國の勢力は獨り道德上の勢力たるに止

らずして敬聽せざるべからざる政治上の一大勢力となり又ならんとしつゝあるは慧眼なる

政治家の共に均しく識認する所なる可し我輩は此に至て端を改めて我政治家に勸告せざる

可らず自今以後宜しく一層の注意を以て米國との間抦を親密にすべしと我政府は米國を以

て已に道德上の勢力と見るも政治上の勢力として之を待つこと不十分にはあらざりしや、

從來これを視ること英露諸國と同一樣なりしや否や、ヴエ子ズ井ーラの事件我れに遠きが

如くなれども之に關して北米合衆國の擧動を見れば世界の大共和國は世界の政治上に一大

勢力たるの實を證するに足る可し其交際の間に注意する所あらんことを勸告するも亦自か

ら架空の言にあらざるを信ずるものなり