「酒造業は充分に保護せざる可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「酒造業は充分に保護せざる可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

酒造業は充分に保護せざる可らず

今回政府が提出したる酒造税改正の諸法案は目下皆衆議院特別委員の手に渡りて調査中の

由なるが大體の上に於ては既に世人の非難も少き事ゆゑ兩院の通過も殆んど疑ひなきも

のゝ如しと雖も我輩は政府將來の収税策と酒造家今日の境遇とより考ふる時は今回の諸法

案は更らに缺點なしと云ひ難きのみならず尚又政府が豫算する収税の金額如何に就ても結

局の處不安心の點少からざるが如し故に今議會參考の爲めとして茲に我輩の所見を述べん

に酒造税は從來既に國庫歳入の大部分を占めて毎歳大凡一千六百萬圓あり國家經濟の爲め

には實に貴重の財源にして其釀造一石を減ずる時は國に四圓の収入を減じたると同じく又

百石を增す時は國に四百圓の税源を擴めたると同樣のものなるを以て之を煎じ詰めて語れ

ば取りも直さず國民に上戸の增加して痛飮家の殖るは國家の理財に大利益あるものにして

租税を取立る政府の眼より見れば出來得る限り酒を造るものを保護して毎歳多額の酒を造

らしめ之に依りて税金の収入高を增加せしめんとする事は恰も釀造家自身が酒の販路を增

して己れの商業を廣く營んとするに異らず酒を造る者は獨り酒造家一人なりと雖も其販路

の消長に利害を感ずるものは政府も酒造家も同一なりと言ざる可らず然るに政府は斯の如

く酒造家と同身一體の感情を持ちながら從來双方の關係は如何といふに其折合常に宜しか

らずして或は敵視し反目し酒造家は政府を以て租税を搾取るが如くに考へ政府は酒造家を

以て只管租税を免んとする惡人の如く思ひ居るの形跡往々にして免れざるが爲め今回增税

の事に就ても當業者は啻に己れの利害上よりのみならず政府収税の金額上に於ても甚だ疑

惑を抱くといふは何ぞや畢竟政府が從來唯租税を収納するを以てのみ目的として未だ此貴

重なる税源を保護するの實意なかりしに基くには非ざるか、今既往に遡りて明治十三年度

に政府が從來二圓なりし造石税を倍加して一石四圓と爲すの法律を出したる時に當り全國

酒造家の模樣を見るに其營業者は實に二萬五千人にして一箇年五百三十萬石の酒を造れり

と然るに其後明治十五年に至り政府は自家用料に限り無税免許の法律を施行するや翌十六

年には之を出願するもの四十萬人に達し爾來今日までの經歴を見れば酒造營業者は漸次に

其數を減少すると共に自家用料は次第に其數を增して明治二十七年度には營業人の數一萬

四千人と爲りて此造石數は三百七十萬石に減少せると同時に自家用料酒を造るものは其人

員百三十萬人に上れり實に驚く可きの景况ならずや尤も此年度間には我酒造社會は他より

一種の影響を受けて輸入酒類の次第に增加し來りたると同時に酒精の輸入甚だしく增進し

て日本酒の賣捌人は之に依り一種の混成酒を造る事を發明し輸入の酒精一升に混ずるに水

七升を以てして都合八升の酒と爲し之を又純粹の日も我國の人口今日の數を以て明治十三

年度に比較すれば無慮五百萬人の增加ありしに依りて考ふるも酒の釀造は明治十三年度に

比べて甚しく增す可き筈なるに事の眞相は却て反對の姿を示し來れるものは政府が實際の

利害上酒造家と同情同感の地位に在りならが其財源として貴重なる造石の保護に就き策の

足らざるに依るものにして日本全國民の飮料は毎歳决して限りなきものに非ざれば又决し

て甚だしく減退す可きものにも非ずして明治初年の頃より通じて之を平均すれば濁酒清酒

混合して一箇年大凡六百萬石内外を飮盡すと云ふ故に日本人民を一人の身體とすれば此人

の酒量は一箇年六百萬石を飮で滿足するものにして其以上も飮ざれば又以下にても滿足せ

ざるのみならず過不足共に健康を害して身體の榮養を壞るの基と爲る可きに依り今日政府

の策と爲す可き所は此六百萬石を以て目安と定め之を酒造家に造らしめて消費者に賣るに

依りて政府は利益のある所以を考へ一方には之を以て國家永久の財源と定めんが爲め税則

を嚴にすると同時に他方には此税あるが爲め酒造家は安心して營業し得るの道即ち從來の

如く課税を恐れずして寧ろ之を喜ぶの道を定めたきものなり其道といへるは他に非ず政府

と酒屋は元來同情同感の地位にあるが故に一方に造石税を高むる代りには他方に總ての手

段を盡して酒造家を保護し自家用料の如き又混成酒の如き其他酒精の製造賣買の如き苟も

脱税の源と爲り又酒造家の營業を妨害するものには嚴密なる取締法を設けて止を得ずんば

少しの情は忍んでも之を禁止し若くは重税を課して酒造家が營業に對し充分の餘地を與ふ

可きなり斯くの如く取締行届きて酒造家は同業以外に競爭の敵なくんば今回の增税案を更

らに增加して八圓と爲し十圓と爲すも彼等は喜んで之に應ず可きのみに非ず目安の六百萬

石は之に依りて減少する事更らに無かる可しと信ずるなり當局者の宜しく猛省す可き所の

ものなり