「海軍士官の俸給」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「海軍士官の俸給」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

海軍士官の俸給

海軍擴張に就ては先づ軍艦製造に着眼し此一事さへ充分なれば以て擴張の目的を達するが如く思ふは一般の常情なれども軍艦は金を以て買ふを得べし資力さへ豐かなれば幾十萬噸の軍艦も立どころに辨す可しと雖も乘組員に至りては多年の養成を俟つに非れば容易に得べからず苟も其人に乏しければ幾十隻の軍艦も唯是れ無用の長物にして全く戰闘の實力なきに均し我輩の屡々乘組員養成の急要を論ずる所以なり或は軍艦出來して艦長に大佐の必要とあれば少佐を大佐に大尉を少佐に繰上げ順次にその地位を進むるときは決して乘組員に乏しき憂なかる可しと云はんなれども如何せん海軍全體の人員には自から限りあれば結局定數に不足を告ぐるなきを得ず現在の規定に依れば海軍兵學校に三箇年修業の後遠洋航海に一箇年士官候補生に一箇年都合五箇年の歳月を經て始めて少尉と爲るの制にして苟も一定の年限順序を踏みたる者に非れば少尉たるを得ざるが故に少尉を大尉に繰上ぐるときは最早や少尉を得るの途なくして勢、欠員を生ぜざるを得ず殊に乘組員中尤も多數を要する準士官以下々士官に至りては其人を得ること極めて容易ならず兵卒に平均八箇年の服役を終りて下士官となり引續き準士官に昇進するには再び八九箇年を要する次第にして其間多少の遅速はあれども概して早くも十二三箇年遅きは二十箇年を經ざれば其地位に昇ること能はざるの規定なるが故に彼等が一旦服役の義務を終りて其職を辭退するときは更に順序を經て進級し來るものに俟つの外なく強ひて其人を得んとすれば止むなく年限を縮めて經驗熟練共に不充分なるものを採用するの一法あるのみ乘組員を得るの困難なること斯の如くなるに然るに實際に徴するに士官の候補者たるものも甚だ多からざるのみならず準士官及び下士官にして三ヶ年の再服役を志願するものは至て稀れにして大抵は服役業務を終ると同時に職を他の方向に轉ずるの常なりと云ふ經驗熟練容易に得難きものをして去らしむるは當局者の尤も惜しむ所なれども去りとて之を引止むるの工風なく此一事は當局者の大に當惑する所なりと云ふ盖し其源因は一ならざる可しと雖も要するに俸給の豐ならざるは彼等をして其職を抛つに躊躇せざらしむる重なる理由として認めざるを得ず海軍の業務たる等しく兵役とは云ひながら陸軍とは自から異にして從て其俸給の如きも割合に豐なるは各國皆一樣にして我邦の如き士官の薄給は他國に其例を見ず殊に下士官の如きは下級十圓より最上級二十圓迄に止まり十數年來辛苦經驗を積みたる其結果は僅に此薄給を得るに過ぎずして上陸の際偶々一席の交際宴會に一盃のシヤンパンを傾くるにも價せず戰勝〓の海軍に進んで再服役の義務を負はんとするもの少なきも敢て怪しむに足らざるなり殊に近來航海業の發達に隨て海員に人物を要することますます多く多少の〓〓〓〓を有するものは競ふて有利の方向に動かんと〓〓の〓きあるは事實に爭ふ可らず况んや〓〓の發達〓して現〓の有樣に止まらずして將來ますます進歩の一方なるに於てをや人情利益の多き職業を拝んで此に向ふは自然の〓なれば若しも俸給の割合にして依然今日の程度に止まるときは乘組員は次第に不足を告げて海軍の前途掛念すべきものなきに非ず果して然らば假令ひ軍艦は出來するも眞實擴張の目的は容易に達す可らず我輩は乘組員奨勵の方便として先づ俸給の增加を主張するものなり