「漫に忠不忠を言ふ可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「漫に忠不忠を言ふ可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

漫に忠不忠を言ふ可らず

忠義は人生の本心に存し殊に日本人の重んずる所にして國中如何なる無法者にても我帝室を累はし奉らんとの邪心を抱く者はある可らず萬一或は穩ならぬ言語を表する者もあらんか、唯是れ筆舌に拙なきが爲めか若しくは熱心の餘り一歩を踏み外づしたるまでにして其心中を察すれば同じく忠良の人たるに相違なし左れば〓〓の人を戒しむるには單に言葉の末のみを見ずして又其衷情を酌み頭下しに汝は不忠不臣なりなど罵詈せずして靜に其不心得を諭し汝の言論は假令ひ忠義の心より出るも其吐露の方法穩ならずして或は聖徳を累はし奉るに至るの恐なきにあらざれば其邊は能く能く愼む可しとて懇に諭へなば當人も深く省みて自から發明する所ある可きに反し偶然に他の一言一句を聞て偶然に之を怒り熱心切迫直に大不敵など容易に用ふ可らざる激語を以て之を罵るときは罵られたる當人に於ては固より斯る大罪を犯したる覺なければ憤然として怒るは勿論にして其〓名を附したる者を以て倶に天を戴かざるの敵と爲し激語に對するに激語を以てして一方が大不敬と疾呼すれば他の一方は汝こそ却て大不忠なれと絶叫し共に忠義の人にてありながら共に不忠の人と爲り無二の忠義國が恰も亂臣賊子の巣窟と化したるが如き觀を呈するに至る可し昇平の平地に不忠不義の波瀾を生ずるものにして唯長大息す可きのみ又忠義は日本人の共有物にして何人にも專有を容さず上は大臣より下は車夫馬丁に至るまで各各其分前を取るの權あり譬へば猶ほ空氣の如し何人が之を呼吸するも禁ずる能はず如何なる有力者も獨り之を私するを得ず而も我我日本人の之を重んずること甚だ厚くして殆んど生命にも代へ難きほどなるに爰に人あり已れ獨り忠義顏して他を目するに不忠を以てするは取りも直さず國民共有の權利を犯し天上天下唯我獨忠を氣取る者にして汝は日光に照さるるの權なしとて地下の暗窟に葬らんとするに異ならず人心激することなからんと欲するも得べからざるなり左れば現今の言論界に忠不忠は容易に云ふ可らず云はず語らず默して各各其分を盡せば忠義は則ち無言の間に存して帝室は自から萬年の春を樂むことを〓べきに世間の論者が性急にして此邊に心附かず單に〓〓と〓へ云へば傍より異議を容るる〓〓きを〓〓〓〓ならざる大義を〓〓に〓ふて容易ならざる〓〓を〓し或は誠忠の士に〓ふると云ひ或は大不敬を犯せりなど稱して獨り忠義を私せんとするは大なる心得違と云ふの外なし更に一歩を進めて論ずれば帝室は尊嚴なると共に亦仁愛の泉源たり臣民の之を敬すること神の如く之を慕ふこと父母の如くにして其徳いよいよ高きを知る可し古は只その敬す可きを知て親む可きを知らず皇帝を拝すれば明を失ふ可しとの俗説さへありしほどなるに今は則ち然らず内外の士に屡屡謁見を賜ひ又時としては諸方に御巡幸の事などありて民と共に樂ませ玉ふの御意なること窺ひ知る可し然るに今若し宮廷官吏の行を議して言少しく穩ならざればとて直ちに目するに大不敬など云へる恐ろしき名を以てせば其結果は如何なる可きや人民は只恐怖戰慄して所謂觸らぬ神に祟なしとの念を起し云ふ可き事あるも口を閉して復た云はず帝室を以て恐る可くして近く可らず敬す可くして親む可らざるものと為すに至らん寒心す可き事ならずや政治の爭は如何に激しきも頓着する所に非ず只其爭に忠不忠を云ふは我輩の深く恐るる所なり