「毛織物の製造」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「毛織物の製造」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

毛織物の製造

我國に於て毛織物類の需用は年々に增加するの傾ありて明治二十四年には毛絲及び毛織物

の輸入高三百三十二萬餘圓なりしに同二十六年には五百九十七萬餘圓に上り二十八年には

一千三十八萬餘圓に達したり近來婦人も「あづまコート」など羅紗を着用するに至りたれ

ば其輸入はますます增加することならん然るに顧みて内地の製絨事業を見るに甚だ微々た

るものにして僅に需用の一小部分を充すに過ぎず遺憾至極なれども然れども亦前途の望な

きに非ず綿絲紡績の如きは既に内國の需用を充して海外に輸出する程なれば毛織事業も亦

然らざるを得ず其原料を外國に仰ぐは綿絲と同樣にして技師職工の次第に熟練を得るに隨

て次第に外國品を凌ぐに至る可きは明白なり現に今日に於ても陸軍の製絨所の外に二三箇

所の毛織物製造所ありて中には千幾百名の職工を使役し年々五六十萬圓の製品を出すもの

なきに非ず其優等品を以て西洋出來の最上品に比すれば固より遜色ある可しと雖も通常の

品に至ては格別優劣なきのみか其直段を問へば二割も三割も廉にして膝掛の類は今日にて

も西洋に輸出の望ありと云ふ就ては千住製絨所の如きも最早や官業として經營の必要はな

かる可し本來民業に屬す可きものを官にて營業するは一時の權宜に出づるものなり例へば

事、新規にして將來の望はありながらも人民が一時の損失を恐れて着手せざるか又は其有

利なるを知るも資本莫大にして一個人或は一會社の力に及び難き塲合に於ては政府は試驗

誘道の爲め自から手を下して然る可しと雖も既に民間に於て其事業を營むものあり而かも

相應の成績を示すに至れば直に之を民業に讓らざる可らず若しも然らずして何時までも官

業として經營せんには徒に民業と競爭するものにして國の爲めに事の發達を妨るに至る可

し千住製絨所の如きも當初國内に羅紗を製造するものなきを以て毛織物は斯樣にして織る

ものなりとて其手本を示さんが爲めに創立したるまでにして其趣意は甚だ善しと雖も既に

目的の如く民間に於て斯業に着手して相應の發達を示したるものある以上は速に〓下げて

然る可し〓〓〓く千住製絨所にては丈夫にして且つ廉価なる羅紗を製出すれども一旦民業

に〓せば然るを得ず〓〓〓を作す者あれども固より耳を傾るに足らず一體〓〓の〓に如何

なる〓方あれば上品廉價と稱する不可思議を演じ得るや官業は資本豐なるが爲めに然りと

云ふか事業さへ有望なれば幾千萬圓の資本にても民間に集まる可し一の製絨所を經營する

に何の難きことかあらんや製絨所の運轉資本は三十八萬圓なりしを今回增して漸く六十萬

圓と爲したるものにして是式の資本は云ふに足らず然らば監督宜しきが爲めと云ふか民間

の事業家が其營業の盛衰に付て感ずる利害は官吏が管下の事業の好成績を望むの情よりも

切ならざるを得ず官業が往々にして失敗するは主として事業の盛衰と監理者の利害と一致

せざるが爲めにして不振の官業も民間に移ると共に俄に春色を催ほしたるの例に乏しから

ず或は職工に優劣ありと云はんか千住も王子も將た品川も同じく日本の職工にして相違な

きのみか之を拂下ぐれば官業の職工は即ち民業の職工にして異なる所は只官の器械的なる

監督を離れて私の活きたる支配の下に移るの一點に在るのみ我輩は其營業のますます活發

と爲る可きを信ずるものなり然るに又或は曰く羅紗を購ふに商人の自由競爭に附せば利を

貪るの結果、古羅紗を再製して新しきものに織込むなど瞞着手段を行ふが故に不安心なり

矢張り政府自から織るに若かずと殆んど辯ずるにも足らざる理由なれども念の爲め一言せ

んに如何にも商人は劣等の品を優等と詐ることある可し馬を指して鹿と云ふこともあらん

と雖も其瞞着に乘ると否とは買手の鑑識如何に在るのみ檢査して惡しき品をば颯々と排斥

すれば自から善き品を持參すべし或は内地の商人は到底箸にも棒にも掛らずとならば時に

外國より購ふも可なり陸軍は羅紗毛布の大華主なれば各々競爭して此顧客を得んと欲し必

死に勉強すること必然なり廉にして丈夫なる品を得るに難からず若しも商人は時として瞞

着せんとするが故に兵士の衣服は政府自ら織らざる可らずとせば官の營む可きもの何ぞ獨

り毛織物の一事に限らんや紙の製造所をも設けざる可らず椅子テーブルも自から作らざる

可らず米も麺麭も味噌も醤油も苟も官の消費するものは一切自から製せざる可らず只奇説

として一笑に附す可きのみ孰れの點より見るも毛織物に限りて政府自から營む可き理由な

きは勿論なれば製絨所は最早や斷然拂下げて然る可し望ある事業に對しては民間に於ても

資本の欠乏を憂へず企業の熱心は燃ゆるが如くにして其腕前も亦侮る可らず鑛業にても製

絲にても政府の手にある間は繁昌して民業に移ると共に衰へたるものあるを聞かず特に毛

織業は尚ほ幼穉なりと云ふと雖も既に實際に獨立營業の證據を示したる上は官の專賣は無

用なるのみならず又有害なり窮窟なる官の支配を離れて民間の自由競爭塲〓に飛躍活動せ

しむ可きのみ