「盍ぞ自家用酒を全廢せざる」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「盍ぞ自家用酒を全廢せざる」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

盍ぞ自家用酒を全廢せざる

從來自家用酒は八十錢の鑑札料さへ納むれば或る一二の營業者を除き何人にても一石まで

釀造するを得たれども昨年自家用酒税法を發布して直接國税五圓以下の者は税金二圓にて

一石まで又五圓以上十圓以下の納税者は三圓にて一石まで八圓にて二石までと改めたり一

段の進歩には相違なけれども我輩は更に歩を進めて其全廢を□□□□より元來自家用酒は

貧民の爲めにして一方に清酒□を增すと共に他の一方に自家用酒を禁ずれば勞働者は酒に

近くを得ず氣の毒千萬なりとて特に之を許すことならんなれども實際貧乏人は少しも其れ

蔭を蒙ることなし年中の用料を一度に造り置くは多少の資本を要することにて中産以上の

者に非ざれば能はず日々稼ぎ出したる賃錢の内より食料薪炭を買ひ其餘を以て僅に一二合

の晩酌を求むるは即ち勞働者の常態なれば其飮む所のものは固より普通有税の酒ならざる

を得ず左れば自家用酒は徒に中産以上の人々を益するのみにして肝腎の小民は其惠に浴せ

ざること明なり斷然全廢して差支なきを見る可し今福嶋縣下の自家用酒免許人員の調査を

聞くに明治二十八年即ち新法實施以前の人員は六萬七千七百二十四名なりしに二十九年三

月末日には僅に一萬二百六十六人と爲り五萬七千四百五十八人を減じたり若しも之が爲め

に著しき不便を感ぜんには苦情喧かる可き筈なるに實際曾て其聲を聞かざるのみか或る酒

造家は自家用酒の釀造を制限したるに付き自から濁酒の需用を增す可しとの見込にて大に

之を醸造したるに實際に至りて濁酒は賣れず唯清酒の販路を增したるのみにして濁酒屋は

失敗したりと云ふ左れば彼の自家用を廢したる五萬七千の人は手製の濁酒を止めにして清

酒を飮むの資力あること明に見る可し中には或は自家用酒を禁ぜられて困るなど云ふ者も

あらんかなれども是れは只表面一通りの世辭にして其實情を穿てば却て禁止を望む者こそ

多けれ其次第は用酒釀造の資格を有しながら若しも之を見合すこともあらば某は吝嗇なり

酒も造らずなど近所近邊の人々に五月蠅く批評せらるゝの憂あり自から造らざるを得ず既

に之を造れば出入の者にも時々飮せざる可らず家の僕婢にも折々振舞はざるを得ず遂には

子供迄も何時となく之を味ふて一家酒仙の群と爲り制限の一石にては不足を感じて更に幾

石を密造し飮めども吸へども一石の酒の盡くるときなく屡々醉ふて時に風波を生じ又下男

共は微醉機嫌に乘じて野心を起し或は居酒屋に入り或は青樓に登り賭博を試み喧嘩口論を

始むるなど兎角良からぬ風を養ふて遂に其身を持ち崩すに至ることなしと云ふ可らず若し

も平生家に酒の貯なくば主人も濫に鯨飮せず出入の者又は下男等にも漫に振舞ふを要せず

して自から儉約と爲るのみか酒より生ずる諸種の弊害も隨て減ず可し左れば自家用酒は目

的の小民に益なきと共に又中以上の人々にも有害なり貧民は既に實際に於て普通有税の酒

を飮で立派に國税を拂ひながら中以上の有税酒を買ふに綽々餘力あるものは自家用酒を許

されたるが爲めに内實却て苦めらるゝとは天下の奇觀なり當局者焉ぞ速に其全廢を斷ぜざ