「實業社會の風紀」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「實業社會の風紀」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

實業社會の風紀

近來銀行會社の役員輩に不始末の事多く少なからざる金圓を私消して跡を晦まさんが爲め

に逃亡し或は申譯の爲めに自殺したるなどの談あり斯る不正の輩を出したるは強ち銀行會

社の罪として咎む可きに非ず喩へば嚴肅なる家庭に放蕩息子を生ずるが如き珍らしからぬ

ことにして父母の罪に非ざれども熟ら熟ら今の實際を視察するときは我輩は其平素の風紀

に就て大に遺憾なきを得ざるなり抑も彼の役員の末輩が保管の金錢を私消したる其原因を

尋ぬれば自身の贅澤浪費を恣にする爲めに投機に手を出し其失敗に出るもの多きが如し薄

給の末輩が重役の華美奢侈を見習ひて欽羨の情に堪へず去ればとて正當の手段にて錢を得

るの道なければ小人窮して亂するの喩に漏れず惡事と知りつゝ保管の金錢を私消して投機

に關係すること禍の本源なれ投機の性質として一攫千金の利を得る代りに損失の危險も非

常にして薄資家の堪ふる所に非ず况んや事に慣れざる若輩が偶ま偶ま手を出して忽ち失敗

するは當然なれども更らに其失敗を償はんとして手近き保管金を私して更らに手を出し失

敗に失敗を重ねたる結果遂に如何ともする能はざるに至て其罪跡を社會に暴露するものな

り其罪固より悪む可しと雖も其行爲は放蕩息子の嚴肅なる家庭に於けると一般、全く息子

の罪にして父母の知らざる所なりやと云ふに我輩の所見を以てすれば决して然らず恰も其

父母なる銀行會社の重役も大に責任を分たざるを得ざる可し彼の重役輩の平生を見るに漫

に奢侈贅澤の風を成して外觀の華美を裝ひ下僚の輩をして自から其風に化せしむるは既に

監督の實を誤りたる尚ほ其上に彼等の中には眞面目に自家の本職を守るもの少なく其地位

を利用して投機に關係するのみか寧ろ投機を以て本職と心得るが如き輩なきに非ず左れば

下僚輩の暴動如何を監督して嚴密の取締を爲す能はざるは勿論下僚却て重役の手本を習ひ

投機は會社員の本色など心得て勝負を爭ひ遂に相率ゐて不始末を招くに至るこそ自然の勢

なれ故に不始末の源は銀行會社の風紀診らざる所あるが爲めに外ならざれば其不始末の跡

を絶んとならば先づ風紀を嚴肅にせざる可らず其方法は自から種々あらんなれども我輩が

差當り最も必要なりと信ずるは銀行會社の重役が平素の奢侈贅澤を謹むは勿論斷然投機に

關係することを思ひ止まり自から率先して役員を率ゐるに在るのみ抑も投機の事は决して

排斥す可らず機に投じ利を博するは商業の常にして苟も銀行會社の重役たる者は巧みに商

機を利用する位の手腕を有せざる可らず其心得の必要なるは武士の武藝に於けるが如く寸

時も忘る可らずと雖も飽迄も其心得はありながら自から手を出さゞるは武士が容易に刀を

拔かざると一般にして大に謹しむ可き所なり今の重役の如く自己の信用位地を奇貨として

投機に私利を逞うするが如きは决して其本分を盡す所以に非ず畢竟實業社會に彼の虚業家

の輩が跋扈して風儀の宜しからざる其禍根も全く此邊にあることなれば今後銀行會社の重

役たるものは自から自身を全うすると同時に官吏の含む規律と同樣の規則を設けて役員中

にて苟も投機に關係したるものは容赦なく解任することゝなさば下僚の輩に對する取締も

嚴重となりて自から虚業に流るゝ惡風を脱し近來の如き不始末を豫防するに足る可し我輩

の注意する所なり