「宮中府中の別」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「宮中府中の別」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

宮中府中の別

寸毫も犯すことなく又犯さるゝこともなく儼然守る可き所を守て各々其分を盡すは即ち文

明の作法にして屬官が大臣の進退を議し無官の彌次馬が大政に容喙するが如きは斷じて容

す可らず特に宮中府中の分界は成る可く嚴重にして假令ひ政治界に如何なる騒動を生ずる

も宮内官吏の與る知る所に非ず一切馬耳東風に附し去らざる可らず即ち帝室の尊榮を完う

する所以なるに然るに往々にして政治に容喙の風聞あるは我輩の甚だ憂ふる所なり彼の宮

内大臣事件に於て宮廷の官吏が内閣に迫りて其政策を動したるは爭ふ可らざる事實にして

其後御大葬の時に際しても宮中の事と國務とを混同して當然國家の義務に屬す可き事柄ま

でも差圖したるは是亦人の知る所なる可し會計檢査院事件に付ても宮内官吏中に彼是れ奔

走するものありしとの説を聞くのみならず實際宮内官吏の歡心を得たるものは政治上に於

ても自から勢力あるに反して假令ひ政治家として勝れたる伎倆あるも宮廷に不人望なれば

不如意を感ずるの事情なきに非ずと云ふ宮中の意見、時に府中を左右するの證として見る

可し斯の如くにして何か事ある毎に宮中の吏員が陰に運動し陽に容喙して政務を動すこと

いよいよ甚だしきに至らば國務大臣として國政の衝に當る者は汲々として宮中の歡心を買

はざる可らず或は宮内官吏をして閣員と共に進退せしむ可しとの議論を生ずるに至る可し

英國の如きは内閣と共に宮中の重なる役人も更迭するの例にして其譯は盖し宮中よりの掣

肘に閣員が自由に腕を揮ふこと能はざりしに由るものならん已むを得ざる次第なれ共本來

を云へば宮中の官吏は帝室私用の奉公人にして閣員は國家公共の公僕なり一は宮中の都合

に依て進退し他は國民の與論に依て動く可き者にして全く性質を異にするものなり政府の

官吏が與論の攻撃に遇ふて退けばとて累を無關係の宮中に及ぼすの謂れなきのみかいよい

よ政治の波瀾が宮中をも捲き込むに至らば自から帝室の尊榮に害なきを得ず凡そ政治ほど

俗なるものなし黨を結び權力を爭ふ其間には罵詈することもあれば脅迫することもあり媚

ぶることもあれば賄賂を使ふこともあり正人君子の眼より見れば堪へ難きこと多し幸に我

帝室は高く其上に位して少しも俗塵に觸れ給はず大小の政務は閣臣をして責を負ふて執行

せしめらるゝが故に假令ひ政界に如何なる濁浪起るも毫も累を聖徳に及ぼさず帝室は獨り

萬年の春を樂ませらるゝことなれども若しも其濁浪が宮中にまでも押寄するに於ては時に

或は飛沫袞龍の御衣を汚し奉ることなしと云ふ可らず畏れ多き次第にこそあれば宮中は嚴

重に府中と隔離し帝室をしていよいよ高くますます尊からしめんこと我輩の切望する所な