「 奮發すること能はずんば退くべし 」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「 奮發すること能はずんば退くべし 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 奮發すること能はずんば退くべし 

今の文明は維新政府の率先して輸入したる所にして當時の人民は只その指揮に從て動きたるのみ政治法律は云ふに及ばず商賣工業の革新も其端を啓きしものは政府にして初めて鐵道を敷き銀行を開き印刷業に着手したるは政府なり製絲の先例を示し製絨の模範を置きしも政府にして曾て外國に商店を設けて政府自から貿易を營みしことさへありと云ふ勿論民間には洋學者の一類ありて夙に文明主義を主張したることなれども學者は只口に唱へ筆に記すのみにして實行の力なし其力を備ふるものは即ち政府にして一旦文明主義の利を悟るや活潑果斷、苟も廢す可きは即時に廢し採る可きは即時に採て毫も躊躇せざりし其勇氣は感服の外なし或は廢刀斷髮を令し或は廢藩置縣を行ひ又は門閥を打破して平民に苗字乘馬を許す等直に决して直に行ひ改革に次ぐに改革を以てしたる其勢は恰も急雨の如くにして人民は只狼狽したるのみ其證據は當時政府より御布告を發すれば之を狀凾に納めて各戸に廻達するの習なりしが京都の人民は此狀凾を名けて喫驚箱と云ひしよし以て政府の果斷人民を驚したるの情を察す可し然るに此人民の性質本來愚鈍ならず唯一時の方向に迷ふのみなれども其實は怜悧活潑にして如何なる事をも學び得べからざるものなし僅か三十年の間に殆んど同一の人民とは思はれざるまでに進歩して文明の利器は一として利用せざるなく曾て鞭撻せられし者が今は却て他を鞭撻して其急進を促すに至りしこそ今日の實際なれ現に運輸交通の機關は發達せる商工業の需用に應ずるに足らず大に擴張す可しとは人民の疾呼する所にして其他地方政なり教育政なり一切の行政その規模狹小にして用を爲さず速に増税を斷じて其進歩を計る可しと迫るにも拘はらず當局者が優柔にして敢て斷行せざるは何ぞや政府の仕事も停滞不動に非ず數年前と今日とを比較すれば著しき進歩にして例へば鐵道の如きも或は信越線を敷き又北陸線を開きたるのみか既設の線路にも多少の改良を加ふるなど見る可き事蹟なきに非ざれば假令ひ民間より苦情百出して緩慢と云はれ優柔と難ぜらるゝも左まで不面目と思はざるの情もあらんかなれども兎に角に人民が疾驅急行して政府を追ひ抜き兩者の間に距離を生じたる上は先んずるものを引止むるか後るゝものを促すか二つに一つの處置なかる可らず然るに世間を見れば孰れも一生懸命に進行して一歩にても他に先ぜんと競ふことなれば寸時も油斷す可らず進む者を引止むるなどは思ひも寄らざることなれば矢張り政府を鞭撻して急がしむるより外に工夫ある可らず政府とて本來鈍き性質に非ず維新の際には活潑果斷、即時に决して即時に斷行し改革又改革、人民をして=を廻はさしめたるほどなれば今一たび奮發して前日の勇氣を振=に於ては一躍して人民に追ひ付くこと容易なる可しと言へども若しも或は多年の奔走に疲れて最早や大に振ふの氣力なしと云はんか遠慮に及ばず=々と閑地に居て休養す可し政治は元來今の所謂政客輩の專賣に非ず人民も亦何時までも之に依頼するの心なし一旦政府に空位を生ずれば直に相應の相續者を得べきは疑ふ可らず商賣工業は斯の如く發達し學問教育も相應に進歩して聞く可き議論少なからず巧に實業を經營し立派なる議論を發する人民にして獨り政治の出來ざる理由はある可らず在朝の人々にして果して勇氣あらば思ひ切て掉尾の運動を試む可し然らずんば退て老體を養ふ可し天下决して政治家の乏しきを憂へざるなり