「 兩國橋の變事 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 兩國橋の變事 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 兩國橋の變事 

文化四年の昔し深川八幡の祭禮衆人雜沓の最中に永代橋、落橋して無數の死傷者を生じたる慘話は九十年前江戸時代の昔語として故老の傳ふる所、今日の實際には又とある可らざる珍事と思ひきや一昨夜の川開きに兩國橋の欄干破壊して花火見物の爲め橋上に群集の男女何十名欄干と共に川に陥り死傷の數さへ尚ほ判然せずと云ふ恰も永代橋の昔語を眼前に演じたるこそ無殘至極なれ或は不慮の變事、恰も天災同樣に觀る可きやと云はんに决して然らず架橋は人爲の工事にして天然の設に非ず本來人を載す可き橋梁が人を載せたる爲めに破壊して死傷者を生じたとあれば即ち人口の盡さゞる所あるが爲めにして其責は自から歸する所なきを得ず抑も兩國橋は府下五大橋の中にても其中央に位して人車馬の往來最も雜沓の塲所なれば其築造は最も堅牢を要する其上にも終始修繕に怠らずして注意の上にも注意を加へざる可らず然るに同橋の架設は明治八年にして既に廿餘年を經過して然かも木橋の事なれば既に腐朽して橋上に凸凹を生じ平素の通行さへも難儀を感ずること多し尤も橋板の如きは時々切張的の小修繕は施す樣子なれ共欄干に至りては平生の注意を怠りたることなかりしや如何、花火見物の群集を支ふる能はずして破壊したるを見れば其注意の程も自から知る可くして一昨夜の大變、其責の歸する所、自から明白なりと云ふ可し或は架橋の目的は徃來の人馬車を載せながら其重さ===るに充分の力あれば可なり欄干の如きは單に川に==の危険を防ぐまでの装置にして本來多人數の==を支ふるの必要なきものなれば今度の出來事は實際止むを得ざる次第なり人爲の責に非ずと云はんかなれども斯る申譯は斷じて許す可らず兩國の川開きは江戸時代より年々歳々の習慣にして今年始めての事に非ず毎年一度の川開きに人出は非常のものにして其群集は最も橋上に多く孰れも花火を見る爲めに先を爭ひて欄干に寄縋ることなれば其欄干の裝置は少なくも毎年一回此群集の推壓に充分堪へ得るの力を備へざる可らざること勿論なり若しも其裝置を單に川に陷るを防ぐのみにして最初より多人數の推壓に堪へざるの設計なりしならんには從來毎年の川開きに怪俄を見ざりしこそ實は僥倖にして今度の變事は寧ろ當然と認めざるを得ず果して然らんには言語道斷、返す返すも許す可らざる處置にこそあれば其變事は本來の構造の爲めに非ず一昨夜の群集が例年に比して特に雑沓の實もなきに破壊を免かれざりしは畢竟平生の注意を怠り其腐朽既に危險に瀕しつゝありたるに心付かざりしが爲めとして怠慢の罪を自白するの外なかる可し抑も江戸時代の永代橋事件の如き二百何十年の間に一回あるか無きかの珍事なるに今の兩國橋の架設は僅々二十年を經ざるに斯る大變事を見たるは甚だ不思議に似たれども實際决して偶然ならず近來東京市政の不行届は殆んど極點に達し市中の道路橋梁の如き其腐朽敗頽に一任して更らに顧みず板橋の缺處に車の齒を挾まれて顛覆するものあり又は大道中の空洞に篏りて倒るゝものあり爲めに非常の負傷して或は不具癈疾に陷る掛念のものもある其危險事は毎度の沙汰にして實際の慘狀は一昨夜の變事に讓らざれども只その出來事たる同時同所に起らざるが故に割合に他の耳目を惹かざるのみ然るに今回の大變事は首府の中央然かも幾萬人群集の眼前に於て一時に何十人を死傷せしめたりと云ふ聞くも恐ろしき次第にして市政當局者の怠慢の爲めに斯る災に罹りたる其不幸者の父兄又は子弟の身として考たらば如何なる可きや我輩は殆んど言ふ所を知らざるものなり罹災者の始末は別として今や府下の道路橋梁の始末は既に便不便の利害談に非ずして人命の安危に關する緊急の大問題なり當局者たるものは自から其責を明にし着々改良の實を擧げて寸刻も猶豫す可らざるものなり