「 金貨本位の前途 」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「 金貨本位の前途 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 金貨本位の前途 

本年三月貨幣法案の提出以來銀價は次第に下落して近日倫敦市塲の相塲を聞くに銀塊一オンスの價は二十五片四分の三なりと云ふ即ち金銀の比價は一と三十二、強より三十六、六一に變じて我金貨百圓は銀貨二百廿六圓に騰貴したる次第なり今後の比價に如何なる變動を見るやは固より推知す可らずと雖も若しも十月一日貨幣法實施の曉に市塲の比價と法定の比價と相對して斯る相違あらんには我經濟社會の困難損失は决して尠少ならざる可し抑も貨幣法附則の規定に據れば從來發行の金貨は新貨幣の倍値に通用し一圓銀貨は政府の都合に依り新金貨一圓の割合を以て漸次に引換へ其引換の終る迄は無制限に法貨として通用するを得るものなり金銀の法定比價と市塲の比價とに差異

なければ兎も角も今日の如く銀貨下落の結果として双方の間に著しき差異ある塲合に右の規定を實施するは取りも直さず二百圓の貨幣と二百二十六圓の貨幣とを同時に法貨として通用せしめんとするものにして自然の成行として價の廉なる貨幣が其貴きものを驅逐せざるを得ず即ち十月一日以後金貨兌換の制實施の上は兌換券を所持する者が日本銀行に就て引換を請求するは無論又銀貨は無制限に法貨として流行するの定めなれば日本銀行に支拂を爲す者は銀貨を以てす可きが故に日本銀行は勢、銀貨を得て金貨を失ふに至ることならん而して斯くの如く金貨を驅逐す可き銀貨は唯に内地流通の者に止まらず外國に流出したるものも續々内國に歸來して金貨と引換へらるゝに至る可し造幣局創業以來政府が鑄造したる本位銀貨は一億五千萬圓にして其内海外に流出したる額は一億圓内外なれども其三分の二は或は刻印せられ或は鑄潰されて實際原形の儘にて流通するものは三千萬圓内外ならんとの想像なり而して目下内國市塲に流通する高は三千五百萬圓なりと云へば十月以後金貨と引換へらる可き銀貨は少なくも六千五百萬圓以上と見て間違ひなかる可し或は上海香港海峽殖民地等に於ては我銀貨を以て流通上必要の通貨と爲すことなれば實際内地に歸來するは案外に少額なる可しと云ふ者あれども此は故意に金貨本位を辯護せんとするの辭柄に過ず日本に於て銀貨の價格騰貴とあれば之を所有する外人等は必ず金貨と交換して從來我銀貨の爲めに排斥せられたる墨銀を以て通貨の不足を補ふや疑なければ金銀の比價にして今日の如くなる以上は海外流通の銀貨は滔々歸來して内國流通の分と共に金貨を驅逐するものと覺悟せざる可らず而して日本銀行は果して此に應ずるに足る可き充分の準備あるやと云ふに準備の額は詳細に知る能はざれ共前記の引換の爲めに六千五百萬圓を失ふものとすれば殘る所は少額に過ぎざる可し或は銀行には巨額の銀貨を蓄ふるも十月以後は兌換銀行券條例に於て銀貨及び銀塊は引換準備總額の四分の一を超過するを得ざるの定めなれば金貨準備の減少したる塲合に當り政府に於て銀貨の引換に應ずれば兎も角も然らざるに於ては利子を引上げて兌換券の收縮を謀るか、公債を海外に賣出して金貨を吸收するか又は不足したる準備の補償を免かれんとして制限外發行を爲すか、其一を斷ぜらる可らずと雖も通貨の收縮は目下經濟社會の變態を救ふには自から必要なるも之を急激にすれば物價の暴落を來して不測の害を招くの患あるを如何せん公債賣出策は米國政府にて金貨準備を充實せしむるが爲めに實行したる所なれども日本銀行をして之を行はしむれば五分利の公債を廉價に賣出すが如き拙策を再びするやも保し難し而して準備の不足を補償するの責を免かれんが爲め制限外發行を爲すが如きは兌換の精神に背くものにして斷じて行ふ可らず此塲合に當り日本銀行は如何にして準備の不足を足して兌換制度の安全を保たんとするや幣制改革に伴ふて生ずる第一の困難は差當り此始末にこそあれ或は處置宜しきを得て困難を免かれたりとするも銀價の下落今日の如くなるときは銀貨處分の爲めに國庫は損失を被むらざるを得ず或は引換を終りたる銀貨を補助貨に改鑄すれば相當の利益を得るが如くなれど之を以て銀價下落より生ずる損失を蔽はんとするは不條理の甚だしきのみならず盡く補助貨に改鑄するは事情の許さゞる所なり左ればとて國庫に貯蓄し置くは財政困難の塲合に非常の拙策と云はざるを得ず然らば地金として賣却せんか却て銀價の下落を甚だしうするのみ或は又臺灣に限り金貨本位を行はざることゝして内地に於て處分に窮する銀貨を同嶋に廻送するが如き處分の一法としては自から妙なるが如くなれども金銀の比價に變動を生じたる今日之を行へば徒に内地の金貨準備を減少するのみにして到底行ふ可らず孰れにしても國庫の損失は免かる可らずと知る可し

金貨本位を實施するに當て生ずる困難損失は右の如しとして此困難を免かれ此損失を忍びて金貨本位を實施すれば果して如何なる利益ある可きや幣制を改革したるのみにて當局者の豫想通り外貨の移入は覺束なし或は外債募集の塲合には多少の便利を得たるが如くなれども我國の信用を以てすれば銀貨本位にても金貨公債の募集は難からざるに非ずや而して十月以後銀價の下落にして繼續するときは我國が是迄銀貨國として商工業上に得たる利益は全く失はざるを得ず即ち差し當り支那を始め東洋の銀貨國に對する輸出貿易に非常の困難を感ずるのみならず折角西洋諸國に擴張したる物産の販路も是等の銀貨國の爲めに蠶食せられて我商工業は非常の逆運に陥る可し而して銀價の前途を察すれば其下落は决して空想に非ず此塲合に際して當局者は如何に金貨本位を辯護せんとするや我輩の聞かんと欲する所なり抑も幣制改革は一國の大事にして其利害の及ぶ所甚だ大なり我輩が其改革に就て當局者の深計熟慮を勸告したるは即ち之が爲めなるに當局者の輕擧盲斷終に非常の困難と損失を招かんとするこそ返す返すも遺憾なりと云ふ可し