「軍人の勢力果して大なるか」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「軍人の勢力果して大なるか」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

軍人の勢力果して大なるか

此頃世間の説を聞くに政府部内にては施政上不如意の原因を軍人の勢力に歸して例へば財政計畫の整はざるも軍備擴張の一方に過大の經費を吸收せらるるが爲めなり又臺灣總督府の官制に文官制度説の行はれざるも軍人の反對強きが爲めなり其他政府の施設に不如意の多きは孰れも軍人の故障に由るもの少なからずとて竊に嘆聲を洩らすものありと云ふ軍人をして喙を容れしむるは文明政治の本色に非ず若しも實際の事實ならんには容易ならざる次第なれども果して眞實なるや否や日清戰爭の結果は我國空前の大勝利にして軍人の功勞甚だ偉大なる其上に所謂戰後の經營と稱する政府の仕事を見れば單に軍備擴張の一事のみなりと云ふも可なる程の始末にこそあれば一般の人心も自から軍事の一方に傾て軍人の名譽甚だ盛なるが如しと雖も其勢力を政治上に及ぼして當局者をして不如意の嘆あらしむると云ふに至りては大に怪しまざるを得ざるなり或は戰爭の最中、我軍連戰連勝、非常の功名を成したる當時に在りては我輩とても戰後軍人の擧動に就ては多少の掛念を懷きたることなきに非ず勿論、上長官以上の人物に於ては戰勝の威名に乘じて自から誇るが如き行爲なきは固より疑はざる所なれども下士卒の輩に至りては果して如何なる可きや勇氣勃勃除隊歸休の後にも殺伐の氣風は容易に收まらず之に加ふるに軍夫として戰地より歸りたる破落戸なども少なからずして處處に横行するが故に自から一般に血腥き風を吹かしめて田舍の地方などには或は喧嘩人殺等の出來事も多からんかとて聊か掛念したる次第なりしに實際は甚だ穩にして更らに斯る沙汰を耳にしたることなかりしは畢竟人文進歩の結果にして今の日本社會には最早や軍人跋扈の心配なきを認む可し或は一般の有樣は斯くの如しと雖も若しも彼の戰爭に付き特に傑出の將軍ありて戰勝の功名、全く其人物の一身に歸したりとせんか其功名を利用して政治上の勢力を博することも敢て難きに非ざれども實際に徴するに事の難易、地位の高下に應じて自から勳功の大小はあれども特に其中に傑出して全局の功名を一身に專らにしたるものを見ず假りに戰爭の最中に當り内の軍機に參し若しくは外に軍團を統率したる長上官の中にて死したるものありとするも作戰計畫の進行には毫も差支なかりしことならん實際に果して然りとすれば特に傑出の人物、一身に全局の功名を擔ふ可きものなかりし證據にして此事實こそ取りも直さず我國の進歩を示すものに外ならず現に今の内閣員たる樺山高嶋の二氏の如き戰功者中の錚錚たるものにして殊に樺山氏の威名は婦人小兒に至るまでも識らざるものなき程の次第なるにも拘はらず特に軍功に誇るの色を見ず他の閣員に比較して特に勢力の著しきを認めざる現在の事實に徴するも軍人跋扈の爲めに政府をして毎事、不如意を感ぜしむると云ふ其原因は果して何くに在るや我輩の認むること能はざる所なり或は軍備擴張の一事を目して總ての不如意は其一方に經費を吸收せられたるが爲めに外ならずと云はんかなれども抑も其擴張計畫に就ては或は過大云云の説なきに非ざれども其事たる既に確定の事實のみならず今の日本の國勢に於て現在の軍備計畫を要するは國民の一般に認めて異論なき所に非ずや今更ら云云とは毫も解せざる所なり又臺灣の官制に付き文官説は軍人の反對の爲めに行はれずと云ふ軍人の異説は實際の事實ならんなれども當局者に果して定見あらんには自から責任を執て斷行するに何の難きことある可きや我輩は其始末に就ては只政府の無定見を認むるのみ要するに國民の眼を以て見るときは毫も軍人跋扈の事實として認む可きものなきに然るに政府部内に於てのみ軍人云云の爲めに不如意に堪へざること多しと云ふ甚だ解せざる所にして或は軍人云云に口を籍りて自家の無能無力を掩ひ以て姑息を謀るものに非ざるか果して然らば自から責を免かれんが爲めに他に汚名を嫁するものにして政治家にあるまじき擧動なりと云ふ可し我輩の所見に於ては實際に軍人跋扈の實を認むること能はざるものなれども政府の基礎甚だ薄弱にして政黨者流の強迫にも狼狽するが如き次第ならんには或は軍人に對しても漫に恐を懷き自から疑心暗鬼を生じて獨り自から畏縮するものなるやも知る可らず斯の如きは沙汰の限りにして云ふに足らず軍人云云は自家の責任を盡したる上にて始めて語る可きものなり