「如何にして恐慌に處せん」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「如何にして恐慌に處せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

如何にして恐慌に處せん

戰後我經濟社會が變態に陷りたるに就ては種種の説あれども要するに政府が財政上の遣繰より償金を輸入して兌換制度に自然の作用を妨げたるにあるは既に世論の認むる所なるが如し元來償金なり又公債の代金なり無盡藏のものに非ざれば之に依頼して人爲的に兌換券の増發を維持せんとするも結局輸入超過の爲めに非常の取付に遭ひて金融上の變動を招くは必然の成行にして其變動こそ經濟社會の變態を匡正する所以なれ即ち日本銀行の正貨凖備が外國貿易の消長に依て増■(にすい+「咸」)するに至れば物價は平凖に歸し金融も自から常道に復す可けれども一旦騰貴したる物價が下落し膨脹したる通貨が收縮する塲合に一時經濟社會に種種の困難を見るは免かる可らざるの數にして製造家は製造品の原費を償ふ能はず商賣人は商品の原價を得る能はずして意外の損失を被むる其上に金融も亦一時大に逼促し資金を得るの道なきに至れば破産者踵を接して起り信用機關の作用澁滯して不景氣の極に陷らざるを得ず或は正貨の流出する塲合には公債の賣出し其他の手段に依て輸入品の代價を支拂ひ以て一時の變動を免かれんとの説もあらんかなれども斯る姑息の策を施さんには輸入超過の勢は到底止むの時なきのみならず却てますます經濟社會の變態を重ぬるに過ざるを以て假令ひ正貨に多少の輸出を見るも唯自然の成行に一任して經濟社會の復舊を待つの外に手段なしとすれば世間に恐慌の襲來を云云するものあるも自から偶然に非ざるなり或は恐慌の襲來と聞いて一驚を喫する者少なからざる可けれども其襲來必ずしも憂ふるに足らず或は凶〓内亂等より起る恐慌は其災害怖る可きものあれども事業膨脹等の爲めに輸出入の平均を失ひて正貨の濫出するより生ずるものは其災の大ならざるは西洋諸國の實例に徴するも甚だ明にして之が爲めに倒るるものは信用の薄弱なる事業にして經濟社會の全體には自から健全の進歩を見るの効なしとせず姑息の手段を施して自然の成行を妨げざるこそ今日に處するの策なれども只茲に掛念に堪へざるはいよいよ恐慌の塲合に信用の確實なる事業をして一時の事變の爲めに不確實の事業と共に倒産するの不幸を免かれしむるを得るや否やの一點にして此〓の凖備にして充分ならざれば意外の邊に害を及ぼすやも知る可らず抑も恐慌は商業上に生ずる一種の恐怖心にして商賣人が彼我互に疑惑を懷きて信用機關の作用を澁滯せしむるものに外ならず信用の發達せる社會に於ては資金を借入れんとする者が望む丈け借入るる能はざるやの恐怖を〓き資金を貸す者も亦期限に至りて返濟せられざるやの恐怖を〓けば既に恐慌の端を開けりと云ふ程なれば恐慌の曉に最も必要なるは中央銀行が充分の發行餘力を有し信用の確實なる者には盛に貸付割引を爲して斯る恐怖心を制するの一事にして斯くの如くして始めて前途〓望の事業が泡沫事業と共に破産し又は信用ある實業家が投機專門の虚業家と共に失敗するなどの災害を免るるを得るなれ、左れば經濟社會に種種不滿の〓〓を呈して前途の掛念少なからざるの今日、金融の中央機關たる日本銀行は大に警戒の方針を採りて發効餘力を裕にし以て他日の變に備へざる可らざるに然るに同行の現状如何を見るに非常の塲合に於て始めて運用す可き制限外發行は七月以來既に實施せられて發行高は次第に増加し年末に至れば三千五百萬圓内外に達す可しと云ふ當局者は目下の經濟事情に於て兌換券の増發は已むを得ざる次第なりとて頻りに通貨膨張に對する非難を避けんと勉むるものの如くなれども果して幾何の増發を爲せば事業家に充分の資金を供し得るや否や當局者と雖も別に成算はなかる可し啻に成算なきのみならず物價騰貴の爲めに資金の需要著しく増加したる際に日本銀行が現在の金利を維持して資金の需要に應じ兌換券を増發するときは物價いよいよ騰貴して資金の需要際限なきは當然の事にして今日制限外發行高の次第に増加するも畢竟此邊の事情に出でたるには非ざるかと我輩の疑を存する所なり彼の英蘭銀行の如き前年は金融市塲に對する處置宜しきを得ずして貸付割引を妄りにして投機熱を促し資金の需要最も切迫せる時に當て非常の取付に遭ひ確實なる事業にも貸付を拒みて恐慌の災害を大ならしめたることも屡ばなりしかども近年に至りて次第に其非を覺り投機熱の起らんとする塲合には豫め金利を引上げて一方には市塲に警戒を〓ふると共に一方には正貨凖備を充實して發効餘力を裕にしいよいよ恐慌の起るに及んでも信用ある事業には貸出しを拒まざるを以て數度の恐慌に際して容易に之を鎭靜するを得たるは世人の記憶する所に非ずや日本銀行が今日の儘にて經過せば或は英蘭銀行前年の失策を再演せざるを保し難かる可し區區たる人爲の小策を以て恐慌を豫防する能はざるは經濟上最も進歩せる西洋諸國に於てさへ殆んど時を期して起るを見るも甚だ明にして其襲來は深く憂ふに足らずと雖も前途有望の事業をして其災害を免かれしむると否とは中央銀行の方針に由る所少なからず日本銀行が此邊の覺悟を以て今日の經濟社會に處せんこと我輩の望む所なり