「司法權の獨立を維持す可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「司法權の獨立を維持す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

司法權の獨立を維持す可し

改正條約の實施は一年内の近きに迫りたることゝて政府は本月十六日より新法典を施行し

たり法の整備は間然する所なしとして扨外人に對する日本國の法權は單に法の力のみに依

て其働を全うするに足る可きやと云ふに法の運用は法其物の完全を要するのみに非ず施行

の任に當る可き人物の技能を待つこと自から大ならざるを得ず然るに今の司法〓内の實際

を見るに能否相雜は騏駑駢び駕し執法の際運用の妙を缺くは實際に蔽ふ可からざるの事實

にして新法の施行と同時に法治一新の美果を収めんとならば大に部内を刷新するの急務な

ること言ふまでもなし前内閣が司法部内の上級部に對する改革を斷行したるに就ては或は

其手續に盡さゞる所あるのみならず部内一派の輩に私したるの嫌ありとて大に非難するも

のあるよし果して然らば其事實は自から調査を要することゝして兎に角に老朽淘汰の一事

は我輩の賛成する所なれども其改革が上級に止りて下級に及ばざるときは充分の功を収む

る能はざる可し新内閣が前内閣の後を承けて飽くまでも法官淘汰の目的を達せんこと我輩

の望を屬する所なり聞く所に據れば今の司法の當局者も夙に改革に意ありて其决行の順序

は正に考案中なりと云ふ新條約實施の曉に外人が安心して我法權の司配を受くるやう今よ

り準備するは政府の責任として當然の務なりと雖も茲に一言、注意し置く可きは司法權の

獨立を重んずるの一事なり本來行政部と司法部との區劃は立憲政治家の最も分明を期すべ

き所のものなるに然るに昨今世間の風説を聞くに新司法大臣は改革を斷行すると同時に從

來政黨に關係ある民間の辯護士を登庸して司法部内の重要なる地位を與へんと企てつゝあ

るやに云ふものあり是れぞ目下流行の獵官熱が漸く司法部内にまで波及したるものならん

かなれども司法部内の改革にして政黨の臭味を裁判所に引入るゝが如き目的に出でなば其

れこそ司法權の獨立を害するものにして國の爲め由々しき大事なり或は司法部内に在りて

現に職を奉ずるものゝ中には民間の法律家に比して學識才能の劣等なるものもある可し法

官淘汰の必要に應じて新分子を民間より登庸するは實際、餘儀なき次第ならんなれども今

の司法部は渾然として大小相貫聯せる一種の獨立自治體たるを忘る可らず若しも司法部に

は司法部固有の秩序あることを忘れ政務官たる大臣次官の意思に依りて政黨臭味の法律家

を各裁判所に登庸するが如きことあらば改革刷新の美果を収むるに足らざること明なり我

輩は司法部内の改革を速に實行するの今日に急務たるを信ずるのみか多少の新分子を司法

部内に注入するの必要を信ずるものなりと雖も政黨臭味の法律家を部内に引入れて一般の

紛囂を招くが如きをあらば之を非難するに躊躇せざる可し司法大臣たるものは只その大綱

を綜べ細目に至りては相貫聯せる獨立體の行動に委ぬ可し即ち各控訴院長、檢事長にして

其處置、當を得ざるものあらば大臣の監督權を以て之を匡正するは素より可なれども既に

各院長等の能否を鑑別して之を信任しながら自から下級法官の黜陟に干渉するが如きは斷

じて不可なり我輩は各控訴院管轄内に於ける法官の淘汰に關しては司法大臣が大綱を綜べ

て細目に渉らざるを以て司法部内の秩序を維持するに利なるを信ずるものなり