「投機者流に欺かるゝ勿れ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「投機者流に欺かるゝ勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

投機者流に欺かるゝ勿れ

一派の實業家は昨今世間に行はるゝ鐵道官有論を利用して此際一時に多額の外資を輸入し

政府をして私設鐵道を買収せしむるときは自から金融逼迫の勢を緩和して資金の餘裕を見

るに至る可しとの考より軍人政客の輩と運動を共にして熱心に官有の事に盡力するもの少

なからずと云ふ金融逼迫の塲合に實業家の輩が一時の苦痛に堪ふる能はざるより種々の姑

息策を案出して政府に實行を求むるは從來の慣手段にして鐵道官有論の如きも其實際を云

へば全く右の手段に供せられたるに外ならざるは既に識者の認むる所なれども或は彼等の

運動に巧みなるより着實なる實業家までも意を動かして官有論の爲めに盡力するに至るや

も知る可らず斯くては其人の一生に取りて甚だ遺憾なるのみか斯る空論に勢を加ふるの掛

念なきに非ざれば聊か今の經濟社會の眞相を明にして官有論の實際に無用なる所以を述べ

んに戰爭後經濟上に種々の變態を招きたる原因は全く政府が財政上の必要より年々多額の

償金を回収して通貨の膨脹物價の騰貴を促したる他の一方には日本銀行が一時金利を引下

げて事業熱を勃興せしめたるが爲めにして輸入の超過も金融の逼迫も株式の下落も歸する

所は右の一事に外ならざりしか共目下の成行如何と尋ぬれば昨年來償金回収高の減少に連

れて輸入超過の爲めに日本銀行の正貨準備の取付けらるゝに從ひ銀行が金利引上に依て兌

換券の回収を謀りたる結果は漸く昨今の經濟社會に現はれ昨年七八月頃と比較すれば兌換

券の發行高は六千萬餘圓を減じてますます貸出金の回収を見るのみか京阪兩地の物價は本

年五月以來引續て下落の傾あり本年に入りてより毎月千五百萬圓以上に達したる輸入の超

過も先月は九百萬圓臺に減じ本月は更らに減少の見込ある他の一方には重要輸出品も既に

其期節に向ひて着々增加の模樣あれば若しも米西兩國の戰爭が無事に終局を告げて米國の

經濟社會が多年の不景氣を恢復せんには大に輸出品の需要を增して次第に依りては本年中

に輸出超過を見るやも知る可らず一旦貿易上の逆勢を改めて正貨の流入を受けんには日本

銀行の制限外發行の如きは自から消滅して金融逼迫の勢を緩和するは必然の成行と云ふ可

し經濟社會の前途を考ふれば次第に變態を恢復して順境に向ふは疑を容れざる所にして實

業家は此時を俟て再び前年の計畫に着手して新事業の發達を謀りてこそ然る可きに輕忽に

も株式相塲の高低に依て投機の利を収めんとする輩と事を共にし徒に世間を噪がして天下

の笑を買はんとするは何事ぞや眞に實業の發達を謀らんとならば今の官業の内にて利殖の

見込、確實なるものは次第に民業と爲し民間の資金を以て營むこそ適當の道にして一時の

困難に堪へ得ずして多年經營の民業を政府の手に移すが如きは自家の無氣力を世間に暴露

するに過ぎざるのみ假りに今度の官有論が實際に行はれたりとして如何なる結果を呈す可

きやを考ふるに株式の下落に苦しめる株主の輩は自から資金融通の道を得て滿足すること

ならんなれども鐵道會社の株主は斯る投機專門の輩のみに非ず中には鐵道株が確實にして

今後いよいよ利益の增加す可きを見越し殆んど世襲財産と同樣に心得て所有する者も决し

て少なからざる可し此輩の方より見れば株式の配當も次第に增して營業の基礎も確實とな

りたる際に株式專門の輩の都合に依りて遽に政府に買収せらるゝとありては此上もなき迷

惑にして今後金融市塲緩慢を告げて事業家が鐵道業を發企するも着實なる資産家は投資を

拒みて鐵道株は專ら投機者流の玩弄物たらんのみ鐵道業前途の爲めに甚だ掛念に堪へざる

所にして眞に實業の發達を希望する人々は此際篤と事の成否得失を考へて一時の熱に狂せ

ざらんこと我輩の切に勸告する所なり