「宮城蔵王不忘山B29三機連続墜落事故の謎」

2016-05-12

このテキストについて

平山氏の依頼により、2016年5月2日のアマゾンキンドルによる出版「宮城蔵王不 忘山B29三機連続墜落事故の謎」(常葉叢書17)を掲載します。

本文

宮城蔵王不忘山B29三機連続墜落事故の謎

                                   

平山 洋

1.テレメンタリー「蔵王に消えたB29~墜落の謎70年目の真実~」

 その奇妙な事故について知ったのはあるテレビ番組によってだった。2015年11月にテレビ朝日系列で放送された、

東京大空襲の日、なぜ3機のB29は東北へ向かったのか?「蔵王に消えたB29~墜落の謎70年目の真実~」【テレメンタリー】

という番組においてである。

 その内容はといえば、おおむね次の通り。太平洋戦争末期の1945年3月10日、10万人の犠牲者を出した東京大空襲と時を同じくして起きた、ある謎の出来事がある。それは、宮城・山形両県の県境に位置する蔵王連峰・不忘山(ふぼうさん)に相次いで墜落した3機のB29爆撃機だ。東京から300キロも離れたこの山に、何ゆえにB29は飛来したのか。しかも、別々の米軍部隊に所属する3機が、30分から1時間の間隔を置いて。彼らの目的は何だったのか。そして、墜落の原因は。戦史に残る謎の一つとして、いまだにそれは解明されていない。11月8日放送のテレメンタリーは、そうした敗戦の色が濃くなって行ったさ中、東京大空襲と時を同じくして東北の蔵王へ飛来し、不忘山に激突した3機のB29の謎を追った。日米の関係者や地元に残る目撃証言、更には残された米軍の資料、気象データなどをもとにその謎に迫るものである。

 インターネット上の「Gooテレビ番組」にアップロードされた紹介文では、調査結果の核心についても公開されていている。その部分を引用するならば、

 1945年3月10日、東京大空襲の夜、B29 3機が墜落した。どこへ向かっていたのか、墜落原因などについてお送りする。

 宮城・不忘山にB29 3機が墜落した話が語り継がれている。高橋秀雄さんは目撃した様子を語った。福島・郡山市の川股浩さんは当時15歳、4ヶ月後現場を撮影した。もう一人の目撃者・松本長政さんが不忘山を案内し、残骸とみられる破片が転がっていた。当時の毎日新聞には国民感情を表す記事が載っていた。加藤昭雄さんはB29墜落について調べており、1機目が墜落後、2機目、3機目が墜落していた。仙台市歴史民俗資料館にはB29の破片が眠っている。

 埼玉・新座市の斎藤彰さんはB29が山形に向かっていたと語った。米国立公文書館に所蔵される文書では、3機とも目的地は山形とは書かれておらず、悪天候のため墜落していたとされていた。仙台管区気象台の当日の天気図によると、不忘山のデータはなかったが岩手山は氷点下19度となっており、視界が効かない状況だったという。3番目に墜落したパイロットの兄弟が生きていると聞いた記者はアメリカに向かった。

 ワシントンD.C.の機密文書には3番目に墜落したパイロットが行方不明と記載されていた。アーカンソー州にいるパイロットの兄弟・クレム・コーズマイヤーさん、ジャック・コーズマイヤーさんは当時の兄の様子について語った。軍からの電報ではパイロット行方不明になったことが記載されており、事故から1年後死亡が認定され、1年後ワスレズヤマで死亡したという知らせが来た。家族は詳細は知らされなかった。

 インディアナ州オシアンのB29元機関士・エド・ゲッツさんは、東京以外に違う目標があったとは思わない、当時の高度では強風は関係ない、東京に行かず進んだ可能性はないとし、5000フィートからの爆撃により熱風が飛行機まで巻き上がり、レーダーが故障した可能性があると指摘した。アメリカ軍の資料による出発時間によると、到着時は爆撃が本格化している時間であり、レーダーが故障し不忘山に墜落した可能性はある。

 B29研究者・早乙女勝元さんによるとレーダーに不慣れだったといい、日本に来るまでの高度も低かったと指摘した。B29航続距離は5500km、基地からの往復は4600kmでぎりぎりであり不忘山は更に300kmであり、3機は東北を目標にしていた可能性は低いという。東京に出発したB29のうち何をしていたか資料のないのは40機にのぼる。早乙女勝元さんは真相は分からないと語った。松本さんらは不忘の碑で弔いをしている。不忘平和記念公園の建設を進める高橋良夫さんは戦争の傷痕を風化させないことが主旨だと語った。公園にはハナミズキの花が植えられ、式典には日米関係者500人が参加した。(http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/abc/53547/428071/

 私は大学院の出身が東北大学であるため、宮城蔵王にも土地勘がある。今や30年ばかりも前ということになるが、墜落地点からほど近いスキー場にも行ったことがある。バブル景気絶頂期のその頃に、その近辺にB29が3機も墜落した事故について聞いた記憶はなかった。

 この番組を見て、私は好奇心をかき立てられた。東京空襲のために飛来したB29が迷走のあげく宮城蔵王の山奥に墜落した、というのは、レーダー故障の可能性を考慮しても、いかにも不自然なことだと思われたのである。しかも1機だけならともかく、3機がほぼ同地点に落ちるなどということがあり得るのだろうか。

 そこで私なりにもその謎を解いてみたいと思って、まずはネット上の情報を調べ始めた。

2.インターネット上での調査

 調べてみると、この3機墜落事故は、テレメンタリーの放送前からかなり大きな話題となっていたことが分かった。ネット上の主な記事をあげるなら、

2015年3月9日の河北新報デジタル版「<不忘山 戦争の痕跡>3機が相次ぎ山中に/(上)謎だらけ」(http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201503/20150309_13036.html

2015年7月26日の朝日新聞デジタル版「B293機墜落不忘山に焼夷弾今も」 (http://www.asahi.com/articles/CMTW1507260400001.html

同日のNHKおはよう日本 「不忘山“B29”墜落 その時何が」 (http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2015/07/0726.html

8月4日の毎日新聞デジタル版「戦後70年・みやぎ不忘山望む公園完成 B29墜落事故、搭乗員34人を慰霊 七ケ宿 /宮城」 (http://mainichi.jp/articles/20150804/ddl/k04/040/283000c

が昨年(2015年)大手マスコミによって取り上げられた当該事故の報道である。

 さらに個人が公開しているブログ等をさかのぼって調べてみると、

2014年3月9日開始のまとめサイト「サメさんによる、東京大空襲の夜に起きたもう一つのこと」(http://togetter.com/li/640178

早坂茂氏の2008年以前にアップロードされたエントリ「B-29 蔵王山腹に相次ぎ墜落」(http://www.geocities.jp/shizentoningen/hu-B29.htm

斎藤彰氏の2008年以前にアップロードされたエントリ「終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳(7)」(http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen7.html

を発見することができた。そうして見いだせた一番古い日付をもつエントリは、2005年7月17日付の「不忘山蔵王B29墜落」(http://www.jmcy.co.jp/goto/photo2005/050717/050717_B29.htm)である(2016年4月現在)。

 おおざっぱにいえば、この事故がマスコミ取り上げられるようになったのは東京大空襲70年にあたる昨年の3月頃からで、それまでは知る人ぞ知る、といったものだったらしい。一般に知られるようになったきっかけは、テレメンタリーにも重要な証言者として登場していた加藤昭雄氏の『東京大空襲の夜B29 墜落の謎と東北空襲』(2008年3月・仙台本の森)が刊行されてからであったようだ。さっそく取り寄せてみると、調査の行き届いたよい本で、大変参考になった。本件を考察するための基準となる本と思われるので、以下その内容の紹介をしたい。

3.加藤昭雄著『東京大空襲の夜B29 墜落の謎と東北空襲』

 加藤氏の本(以下本書)は、第一部「不忘山墜落機と東北空襲」と第二部「首都圏墜落機と生存飛行士」の二部構成となっている。本文の章立ては以下の通りである。

 第一部 第1章「損失十四機の行方」(「洋上不時着水機」と「硫黄島不時着陸機」の2節)第2章「不忘山墜落機」(「山頂を紅に染めた一番機」・「焼夷弾を投下した二番機」・「三ヵ月後に発見された三番機」・「米軍調査と墜落機のなぞ」の4節)第3章「三月十日東北空襲」(「福島県平空襲」・「仙台市霞目・四郎丸空襲」・「岩手県盛岡空襲」・「青森県上北郡への焼夷弾投下」・「三月十日東北空襲のなぞ」の5節)

 第二部 第4章「首都圏墜落機」 (「東京都荒川区尾久町」・「埼玉県川口市青木町」・「茨城県筑波郡板橋村」・「千葉県東葛飾郡福田村」・「東京都城東区南砂町」の5節)第5章「生存飛行士の運命」(「東京憲兵隊で起こったこと」・「東京陸軍刑務所で起こったこと」の2節)

 巻頭には東京大空襲研究の第一人者であり、またテレメンタリーでも重要な証言をしていた早乙女勝元氏による「推薦のことば」が寄せられている。そこで早乙女氏は、テレメンタリーでは触れていなかった不忘山墜落事故以外の東北空襲について次のように述べている。

 本書によれば、福島県平市で死者一六人、岩手県盛岡市で死者四人、罹災者六五五人、死傷者は出なかったが、宮城県仙台市で焼夷弾一五三二発、青森県上北郡で六一四発が投下されている。わけても戦慄を覚えたのは平市における死者一六人で、八四~八五ページに殉難者氏名が出ているが、よくぞ調べて、その墓碑にまでたどりついたものである。

 三月一〇日未明に、東北地方を襲ったB29は、首都東京への無差別爆撃を目的にした大編隊の一部と考えられるが、なぜ目標を東北に変更したのだろうか。

 B29 の航続距離は約五二〇〇キロで、マリアナ基地から東京まで片道二三〇〇キロ、往復で四六〇〇キロになる。攻撃のための滞空キロ数を加えると、ぎりぎりの燃料だ。しかるに東京~盛岡間は五三〇キロ、その先の青森県までとなれば、燃料切れは必至である。

「三月一〇日に東北を襲ったB29 は、基地に帰れたはずがなく、その後はどうなったのでしょうか」

 数年前に著者からそんな質問を受けて、私はあわてて、米軍側の史料を確かめた。

 解禁された「作戦任務報告」によれば、三月一〇日の出撃本体は三二五機で、直接攻撃に参加したのは二七九機、総計一六六五トンの焼夷弾を投下したとある。これによる損失機は合計一四機で、海上で四機分四〇名の乗員が救出されている。

 その乗員救助計画は、まことに綿密なもので、東北を襲った機は、海上に不時着水したか、もしくは不明七機に含まれるのかもしれない。

 ほとんど同日同時刻に、まるで死神にとりつかれたように、三機のB29 が蔵王連峰の不忘山に墜落している。

 ひょっとして、東北を襲った機と関連はないかと調べてみたが、関連どころか、なぜそんなところに三機も落ちたのかの疑問は、ついに解消されなかった。(本書8~10頁)

 テレメンタリーの番組中ではひかえめにもせよレーダー故障による迷走説を唱えていた早乙女氏も、本書が出版された7年前の時点では原因不明としていたのである。

 さて、不忘山墜落事故に関係する本書第一部の本文に話を進めるならば、加藤氏はまず第1章で損失14機の行方を追っている。その要点をまとめるなら、首都圏の地上に墜落5機、不忘山に墜落3機、洋上に不時着水5機、硫黄島に不時着大破1機となっている。ちなみに洋上に出てから不時着(水)した6機の搭乗員のうち死亡はわずかに3名で残りは救出されたのに対し、不忘山の3機は34名全員死亡、首都圏の5機は53名が死亡し、6名が落下傘降下後日本軍により拘束された。要するに出撃した3千人強のB29 搭乗員のうちは戦死90名で、そのうち34名が東京から300キロも離れた不忘山に激突して死亡したことになる。

 第2章ではその不忘山に墜落した3機に焦点が当てられる。この3機は編隊を組んだままほぼ同時に墜落したのではなく、30分以上の時間差をおいて別々に落ちている。加藤氏による考証を省いてほぼ確からしい情報をまとめると次のようになる。

 一番機は3月10日午前0時過ぎ不忘山の山頂から南東に約1キロの地点(ケチャグラ沢源流付近)に墜落した。この場所は尾根のすぐ西にあたり、当該機は福島県方面から宮城県側に北上して斜面に衝突したらしい。積載していた燃料と焼夷弾が燃え上がり、尾根の東側にあたる白石の人々は山形が空襲にあっていると推測した。搭乗員のうち6名程度は事故後も生きていたらしいが、南西に6キロほど離れた横川集落から出発した捜索隊が同日昼頃到着したときにはすでに凍死していた。米軍の記録と照合すると、この機は第314爆撃団第29爆撃群所属の機体番号#42-63564、ニックネーム「チェリー・ザ・ホリゾンタル・キャット」であった。

 二番機は同日午前1時半ころ不忘山の山頂から南西に約1キロの地点に墜落した。やはり尾根の西側で、横川の住民によると一番機とほぼ同じ進路をとっていたようである。3月13日に到着した捜索隊が目にしたのはばらばらの機体と損壊した遺体であった。こちらの機の搭乗員は全員即死だったのは明らかで、また墜落前に焼夷弾を投下したことが確認されている。米軍の記録によると、この機は第314爆撃団第19爆撃群所属の機体番号#42-65310で、通常の乗員のほかに同乗者として操縦士より階級の高い少佐が乗り込んでいた。定員11名のB29 が3機墜落して死者が34名というのは、この少佐が搭乗していたためである。

 三番機は同日午前2時ころ不忘山の山頂から北西に約2キロの地点に墜落した。この機体の発見は、山奥ということもあって終戦2ヶ月前の6月になってからであった。この三番機の進入経路は前2機とは異なって東から西へというもので、白石上空を低空で飛行後、尾根を越えてすぐのところに着地滑落したものらしい。墜落時に生存者がいたかどうかは不明で、焼夷弾も積載されていなかった。この機は第73爆撃団第498爆撃群所属の機体番号#44-69747であった。

 見られるように、所属も墜落時刻も別々の3機が、直径ほぼ3キロの圏内に残骸をさらしていたのである。このような事態となったのが編隊飛行中の戦闘機隊ならまだしも分かる。隊長機の判断ミスによって僚機全部が墜落した事故の実例もある。ところが本件二番機に搭乗していた少佐はただの同乗者で、編隊長ではなかった。そこでこのような至近に墜落した理由を当時の気象状況と照らして想像するなら、すでに零時過ぎには一番機が墜落して派手に炎上していたのであるから、続く機はその確認のため現場に近づいたところ、誤って山腹に激突した、ということが考えられる。空襲中の東京からは300キロも離れているのだから、灯火管制されている東北地方は真っ暗だったはずで、そこに火の手が上がっていれば、別の機はまずは米軍機の墜落を疑うだろう。そうして後続の2機は図らずも最初の事故機の道連れになってしまったのかもしれない。

 以上はあくまでここまでの情報に基づく私の勝手な憶測であるが、加藤氏は第2章の最後の部分で別の推測をしている。すなわち3機とももともと東北空襲を企図して北上し、山形に向かう途上で山腹に激突したというのである。その証拠は斎藤彰氏が山形第四国民学校で開かれたB29 展覧会で見たという「東北地方の地図の、(山形市など)主要な都市についていた赤丸印」である(同書74頁)。この証言は斎藤氏のエントリ「終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳(7)」(http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen7.html)で確認できる。

 加藤氏が3機とも最初から東北地方を指向していたと考える証拠は、斎藤氏が目撃したという死亡した搭乗員が所持していた地図だけによるのではない。早乙女氏の「推薦のことば」にもあったように、問題の3月10日にはほかにも空襲にあった東北地方の都市があったためである。第3章ではその点を検証している。

 第3章の「福島県平空襲」の節で、加藤氏は3月10日午前1時頃B29 1機(以下平機)が平市上空に現れ、焼夷弾約100発を中心街に投下し、住民16名が死亡したことを突き止めている。本書83頁に引用されている3月11日付福島民報の記事によると、同機は県内山間部にも投弾したとあるが、それがどこなのかは判然としない。

 次の「仙台市霞目・四郎丸空襲」の節では、3月10日午前0時58分に第500爆撃団所属の2機(以下仙台機)が焼夷弾11トンを現在の仙台市若林区霞目と太白区四郎丸に投下したことが明かされている。この地域は仙台駅から南東に7キロばかりところで、広大な田園地帯である。軍事施設も軍需工場もない東京から300キロも離れた仙台近郊の農村に11トンもの焼夷弾を投下した理由は明らかではない。また第500爆撃団所属機は全機無事帰還しているので、仙台から南西に30キロ離れている不忘山に墜落した3機とは無関係である。

 続く「岩手県盛岡空襲」の節には、3月10日午前2時30分頃、B29 1機(以下盛岡機)が盛岡駅周辺に焼夷弾を投下し、4名の死者が出たことが書かれている。この機は北上川沿いに盛岡まで到達後進路を東にとったようで、焼夷弾は盛岡市中心部から北東に10キロばかりにある現在の玉山藪川にも投下されている。さらに盛岡から南東に70キロほどの現大船渡市越喜来からも不発弾が発見されている。

 3月時点での空襲としては最北にあたる「青森県上北郡への焼夷弾投下」はまた、不可思議な事態である。B29 1機(以下青森機)が十和田湖近傍の上北郡某所に焼夷弾を投下した時刻は3月10日午前2時5分頃から30分までとされているが、報道管制が敷かれたためその場所はおおよそしか分かっていない。加藤氏が苦労して調べた投下地点は十和田市惣辺というところで、炭焼小屋しかないような場所だそうである。

 ここまでの4節を整理した「三月十日東北空襲のなぞ」の節で加藤氏は次のように述べている。

 不忘山墜落機との関係で見ると、一番機はかなり早い時間帯に白石上空に姿を現しており、東北空襲機との同一性はない。仙台機は基地に帰還しているのでこれも無関係である。平機と二番機、青森機・盛岡機と三番機に同一の可能性が残るが確証はない。

 第2章で不忘山墜落機が山形・秋田を目指したのではないかという疑問を投げかけたが、同様に、盛岡機・青森機(場合によっては仙台機も)は、東京攻撃の代替として東北を目指したのではなく、最初から東北地方を偵察(一部攻撃)する命令を受けていたのではないか、機体重量を軽くし、補助タンクをつけて、直接東北地方を目指したのではないかという疑問が湧く。盛岡駅前は焼夷弾攻撃されたが、仙台市街・青森市街は攻撃されず、仙台市街から離れた霞目・四郎丸に焼夷弾攻撃したことも腑に落ちない。(同書117、118頁)

 まったくそうだ、というのが今の私の感想である。まさに腑に落ちない。これらのB29 が迷走の結果として東北地方に向かったのだとしたら仙台機(2機)が無事帰還していることの説明がつかないし、そもそも位置を見失ってから東北地方に至るまでいつまでも焼夷弾を抱えているというのも奇妙である。レーダー故障が発生したなら任務遂行は不可能となるから、搭載の焼夷弾は即座に投棄することで機重を軽くし、雲海の上まで上昇して天測により自機の位置を確認するというのが通常の手順である。

 一方、爆撃目標がもともと東北地方だったとすると、他の279機が東京に到達したとされるのに、所属を異にする数機だけが東北へ向かったことになって、これもまた変である。平と盛岡については住宅地に被害を与えているため東京空襲と似ているところがあるが、仙台と青森については人家の無いところに焼夷弾を投下している。燃料切れの危険まで冒して、なぜそのようなところを爆撃したのだろうか。また、故意だとすると不忘山の3機の事故をどのように説明するのであろうか。山形市が目的地だとしても、宮城県と山形県の県境には1700メートル級の蔵王連峰があることは周知のことで、3機が3機とも高度を間違えるなどというのはあり得ないことのように思われる。

 思えばテレメンタリーのレーダー故障説がそれなりの説得力をもつかに思われたのは、平・仙台・盛岡・青森にも空襲があったという事実が伏せられていたためだった。番組中では不忘山三番機について突っ込んで調査されていて、この機が全出撃機中ほぼ最後の離陸であり、大火災が発生していた東京上空には熱風が吹き荒れていたためレーダーの故障が起こったのではないか、という推測がなされていた。しかしそうなるとほぼ最初に離陸したと考えられる一番機はどうなるのであろうか。一番機は墜落時刻から逆算して、火災が大規模化する前に東京上空に到達していないとおかしいのである。その場合熱風によるレーダー故障は考えにくいということになって、真相究明はまた藪の中である。

 こうした場合、狭い視野からではことの本質を見損なうかもしれない。そう考えた私はB29による戦略爆撃の記録にあたってみることにした。

4.いくつかの参考文献によって

 不忘山に墜落した3機のB29の所属が全部異なっていたことはすでに書いた。すなわち一番機は第314爆撃団第29爆撃群所属の機体番号#42-63564、ニックネーム「チェリー・ザ・ホリゾンタル・キャット」、二番機は第314爆撃団第19爆撃群所属の機体番号#42-65310、三番機は第73爆撃団第498爆撃群所属の機体番号#44-69747である。ほかに所属が判明しているのは、仙台機2機が第73爆撃団第500爆撃群所属だったということである。

 これらの機体が所属していた基地等については、「B29超空の要塞」というネット上の記事が参考になる。これはB29の開発過程から、日本本土爆撃に至るまでを一貫して記述した Joseph F. Baugher "Boeing B-29 Superfortress"( http://home.att.net/~jbaugher2/b29_1.html)の翻訳である。ここにはそれらの爆撃団がマリアナ諸島に到着した経緯が書かれている。

 まず第73爆撃団については、

第73爆撃団はCBI戦域ではなく、マリアナに向うよう命令された。サイパンに最初のB-29が到着したのは1944年10月22日であった。この 飛行機はハンセル将軍自身が操縦し、100機のB-29を引率してサイパンに到着した。XXI爆撃軍団は日本の航空機工場を高空から昼間に精密爆撃で破壊 するよう命ぜられた。しかし、ハンセル将軍は乗員達がそんな任務を実行するに必要な経験に欠けていることを十分承知していた。10月の終りと11月の始めに、乗員の訓練実習を行うための一連の戦術空襲を行った。10月27日、18機の B-29がトラック島の日本施設を攻撃した。この時、4機のスーパーフオートレスが例のエンジン問題で任務を放棄し、戦闘編隊はぼろぼろであった。10月30日と11月2日、B-29は再びトラック島を攻撃した。

とあり、サイパン島に拠点を置いていて、東京大空襲以前から出撃していたことが分かる。

 第314爆撃団については、東京大空襲直前にグアムに到着したので、その作戦が初陣であった。

この新しい技法(夜間低空焼夷弾攻撃・平山註)を用いた最初の空襲は3月9~10日夜、東京に対し行われた。新しく第314爆撃団(第19、29、39及び330爆撃群)がトーマ ス S.パワー准将に指揮されてマリアナに到着し、グアムの北飛行場に駐留した。302機のB-29がこの空襲に参加し、うち279機が目標上空に到達した。 この空襲は中心になる照準点にマークをつける特別の先導乗員に引率された。空襲は2時間続いた。この空襲はルメイ将軍の期待を上回る成功であった。爆撃により発生した個々の火災は合体してフアイアーストームとして知られる大火災になった。鎮火したとき、都心の16平方マイルが焼失し、84,000人近くが死亡した。B-29は14機失ったが、やっと本来の威力を発揮し始めた。

 東京大空襲では2つの基地から1機ずつ離陸して目的地に向かったため、第73爆撃団所属の不忘山三番機と第314爆撃団所属の不忘山一・二番機の乗員が協働して作戦に従事していたとは考えられない。また東京上空で墜落した5機のB29 はいずれも第314爆撃団所属となっており、この事態は第73爆撃団に比較して練度の低さを表している可能性もある。

 第73爆撃団第499爆撃群に所属し、日本への空襲に30回従事して無事帰還した副操縦士が書いた『B29日本爆撃30回の実録』(チェスター・マーシャル著・2001年5月ネコパブリッシング刊)は当時の日記を元にしているので信憑性が高い。そこには東京大空襲に向けての訓練や、出撃の様子が詳細に語られている。この本で分かったことは、マリアナから日本本土に向かう場合、洋上では高度は約600メートルに維持され、目標到達2時間前に指定高度にまで上昇するということだった。つまり燃料で機体重量が重い状態の時は海面をなめるように飛んでいたのである。昼間の爆撃の場合はそれから8千ないし9千メートルまで上昇して精密爆撃を実施したが、夜間爆撃だった3月10日は1500メートルから2千メートル程度までしか上昇せず、そこから焼夷弾を投下したのである。東京上空で地上からの熱風で機体が揺さぶられた描写もある。

 また、テレメンタリーでも加藤氏の本でも触れられていなかったが、夜間爆撃では日本軍戦闘機との交戦は想定されていなかったので、重量軽減のため機体中央が定位置である3名の銃手は乗り組まないこととされたとある。不忘山の3機も含めて墜落した8機にはどれも定員の11名が乗っていたことから、全機にその重量軽減策がとられたのではなかったようである。

 夜間飛行では天測とレーダーの併用によって航路を維持していた。天測とは六分儀による昔ながらの位置を知る方法で、『B29操縦マニュアル』(米陸軍航空隊編・野田昌宏訳・1999年7月光人社刊)によれば、機の位置を測定する航法士が搭乗後最初にしなければならない作業は、その六分儀のチェックであった(同書236頁)。レーダーによる位置確認は実用化されたばかりの新方式で、下士官であるレーダー士は将校である航法士の部下の扱いであった。

 当時のレーダーは機体から電波を発信して地面と海面の反射波の違いにより地形を浮かび上がらせるというものだった。マリアナを離陸してからの海上では小笠原諸島や伊豆諸島の島の並びを確認しながら日本本土に近づいていったのである。レーダーを使えば夜間であっても海岸線や河川はくっきりと見えるが、山間部で眼下全部が大地となるとどこを飛んでいるのか分からなくなる。東北地方まで飛んだB29のレーダーが故障していなかったとするなら、彼らは海岸線と河川をたよりとして目的地に近づいたはずである。B29操縦のための教育映画がユーチューブにアップロードされているので、私の言わんとするところはその映画を見れば理解できると思う(HOW IT WORKS: B-29 WWII Bomber (720p) https://www.youtube.com/watch?v=uRDMYCI8MaI)。

 仙台機2機が第73爆撃団第500爆撃群所属だったということは、『作戦任務報告』に仙台爆撃が同爆撃群の挙げた戦果として記載されていることから確認できる。所属不明の青森機・盛岡機・平機については不忘山の二番機と三番機の重複が疑われるわけである。この点について以下で考察したい。

5.謎の日光空襲と青森機・盛岡機の行方

 アメリカ陸軍航空隊が作戦終了後まとめた『作戦任務報告』は、国立国会図書館のデジタルコレクションで全文を読むことができる。その最後には爆撃群ごとに攻撃地点一覧表がついていて、大部分は「東京」だが、一部「銚子」などと記載されている。作戦参加機の第一攻撃目標は「東京」だったと推測できるが、一部の機は「東京」上空まで到達できずに手前の「銚子」などに投下したということであろう。この場合「銚子」は最終攻撃目標といって、「東京」に落とせずとも「銚子」に投下すれば任務遂行とカウントされた。任務を30回遂行すれば本国に帰還できたので、クルーはせめて最終攻撃目標には到達できるように努力した。

 この一覧表には意外な爆撃地点が記載されている。すなわち、498爆撃群の内の一機が「日光」に焼夷弾を投下したことになっているのである。ところが調べてみると日光近辺への爆撃は確認されていない。帰還したクルーが虚偽の申告をしたか、そもそも「日光」(Nikko)が誤植であったかのいずれかと考えられる。そこで以下は私の推測であるが、これは「勿来」(Nakoso) の間違いではなかろうか。当時使われていた軍用地図を確認したわけではないのだが、平を含む福島県南東部が勿来と表示されていて、それが誤って日光と同じ綴りになってしまったと考えるならば、つじつまがあうように思われるのである。

 加藤氏は不忘山二番機と平機の同一性を示唆していたが、平と福島県内陸部ですでに焼夷弾を投下した同機が、不忘山に墜落する直前に今一度投下したというのは、不自然と感じられる。墜落の危機に瀕して事後の火災を避けるためという加藤氏の説明はおかしな話で、まだ半分の燃料が積載されているのだから、落ちればどのみち炎上は避けられないのである。また、平ですでに任務を果たしているのに、そこからさらに数10分飛行して山形を攻撃するというのはあり得ないことではないにせよ、どうもしっくりとこない。この機だけあらかじめ2カ所の攻撃を命令されていたことになるからである。

 不忘山に墜落した3機はいったいどこを攻撃目標にしていたのか、『作戦任務報告』で調べてみると、報告書が作成された1945年4月15日現在では3機とも行方不明であったため、攻撃地点もまた不明になっている。いっぽう青森機・盛岡機が無事帰還したとすると、基地に戻ってから焼夷弾投下地点を申告したはずで、一覧表にそれらしい地点が記載されていなければならない。そこで攻撃地点一覧表を見ると、第313爆撃団第9爆撃群所属機がMaug、同爆撃団第505爆撃群所属機がGugunという謎の場所に焼夷弾を投下している。しかもこの第313爆撃団所属機は3機が不時着水を余儀なくされてもいる(その後救出)。「喪失機の内訳」と題された一覧表には、この3機について、「本州上で航路を見失い、燃料を使いすぎた」という註が付けられている。盛岡機や青森機がとった航路に符合するとも思われるが、当該機が投下したというMaugとGugunについて、岩手県盛岡市や、青森県十和田市近傍に似たような名称の場所を見つけることはできなかった。

 以上不忘山の3機と東北地方を空襲した平機・仙台機(2機)・盛岡機・青森機の関係をまとめるならば、不忘山一番機は墜落地点まで直接やってきたので東北空襲機とは無関係、不忘山二番機は平機との同一性が完全に否定されたわけではないにせよ、その可能性は低く、不忘山三番機と盛岡機または青森機との同一性もまた否定されたわけではないが、その可能性はかなり低い、ということになる。

 加藤氏の調査結果と大差ないということになるが、私が調べたことを加味して自分の考えを打ち出すならば、私は不忘山の3機と他の東北空襲機はすべて別々だったと思う。あくまで『B29日本爆撃30回の実録』を読んでの感想にすぎないが、爆撃に参加していた当時のクルーの心情は、「さっさと投下して基地に戻りたい」というにきわまっていた。上層部も1カ所を攻撃した後に離れた別の場所を攻撃するような命令を下してはいなかったようである。最終攻撃目標は第一攻撃目標を捕捉できなかった場合の代替のために定められているのであって、両方を爆撃せよという命令ではなかった。となると、東北地方に出現しまた墜落したB29 はすべて別々で、3月10日に東北上空に飛来したB29の数は8機以上にのぼる、と考えるのが妥当となろう。

6.命令によるのか、あるいは迷走によるのか?

 第1節に引用したテレメンタリーの内容紹介にもあるように、早乙女勝元氏は、出撃したB29 のうち40機程度は何をしていたか分からない、と述べている。この40機の数字の根拠は、第3節に引用した加藤氏の著作への「推薦のことば」にある、「三月一〇日の出撃本体は三二五機で、直接攻撃に参加したのは二七九機」の差し引き46機のことを意味しているように思われる。そこで『作戦任務報告』の出撃一覧表で確認してみると、基地を飛び立ったのは確かに325機であるのはその通りだが、279機というのは第一攻撃目標(東京)に焼夷弾を投下した機数であると分かる。また、飛び立った325機のうち23機がエンジントラブル等により途中で引き返したので、第4節の「超空の要塞」からの引用にあるように、空襲参加機の実数は302機となっている。さらに最終攻撃目標(銚子等)を爆撃した機数も15機とはっきりしているので、結局何をしていたか不明とされたのは日本本土に墜落した不忘山の3機を含む8機だけというのが、米軍の公式見解ということが分かった。

 何をしていたか分からない機の数は意外に少数である。当日東北地方に飛来した8機以上のB29 は、第一攻撃目標だった東京には焼夷弾を落とさなかったにせよ、銚子や仙台といった最終攻撃目標には投下したとされたため、「戦略的効果あり」という判定がくだされている。これは自機の位置が分からなくなって、迷走の上苦し紛れに焼夷弾を投下したにすぎなかったとしても、ともかく日本本土まで行った努力だけは認めてやろうというのが軍上層部の意向だったと理解すべきなのであろうか。それとも最終攻撃目標に投下するように、あらかじめ命令されていたことを意味するのか。

 ここまで私なりに調査してきたことを考慮するならば、レーダー故障によって位置を見失ったとするテレメンタリーの結論は受け入れがたい。というのは、レーダーが故障したとしても天測によって正確な位置は割り出せたからであり、また、レーダー故障ではなく、何らかの事情(たとえば対空砲火)によって航法士が能力を失った場合には帰還は困難だったと考えられるからである。東北を空襲したB29のうち、仙台機は2機とも無事帰還し、残りも不時着水したとはいえ、東京湾から八丈島までの間に設定された救出海域までは戻っている。これを偶然とするにはあまりにもできすぎで、どの機も自分の位置は把握していたと考えられるのである。

 位置を正しく認識していたのに東北地方進入後即座に引き返さなかったのは、何らかの命令があったと解釈するしかない。それがどのような命令であったかを推測するには、まずはどこが爆撃されたかを今一度検討する必要がある。

 3月10日午前0時過ぎ、不忘山一番機、爆撃の事実未確認。

 同日午前1時頃、平機、現いわき駅周辺に焼夷弾を投下。

 同日午前1時頃、仙台機2機、仙台市霞目・四郎丸に焼夷弾11トンを投下。

 同日午前1時半頃、不忘山二番機、墜落直前に焼夷弾を投下。

 同日午前2時頃、不忘山三番機、焼夷弾搭載せず。投下地不明。

 同日午前2時半頃、盛岡機、盛岡駅周辺と約10キロ北東の山林(玉山藪川)に焼夷弾を投下。

 同日午前2時半頃、青森機、十和田湖の東数キロの山林(惣辺牧野)に焼夷弾を投下。

 仙台機が爆撃した霞目と四郎丸の距離は約4.5キロ、盛岡機が爆撃した盛岡駅周辺から藪川までは約10キロ、B29の速度からいって30秒から1分の距離なので、爆撃手の投下タイミングの誤差の範囲内といってよく、区別された2カ所の爆撃目標が設定されていたのではなかったであろう。平機と盛岡機の動向からは、東北地方の小都市を攻撃することで日本人の戦意をそぐ、という目的が垣間見えるのであるが、仙台機の焼夷弾投下地点はいずれも住宅のない田園地帯、不忘山二番機や青森機に至っては何もないようなただの山林なので、故意に落としたとなるとその目的を量ることはできない。これら3カ所については誤爆だったと判断するべきなのだろうか。

 そこで、当時爆撃を受けた側はどのように考えていたかを知るため、不忘山墜落事故と東北空襲各機についての第一報を検討してみる。

 まず不忘山墜落事故については3月11日付朝日新聞には、

 宮城県下にも一機

 十日払暁宮城県下に進入したB29 の一機は、同県刈田郡七ヶ宿村横川部落西南方[北東方の誤り]六キロの、不忘山中腹に墜落、搭乗員九名[実際は十一名]のうちの三名は焼死、六名は凍死していた。機体はほとんど燃えつくし、機関砲と拳銃が散乱していた。

とある(朝日新聞データベースより)。二番機・三番機の墜落の事実はこの時点では明らかとなっていなかったらしいが、一番機の墜落状況についてとくに隠し立ては感じられない。3月14日付毎日新聞は「B29二機蔵王へ墜落」のタイトルのもと、一番機の捜索と二番機墜落の事実が報じられている。三番機が墜落していたことは6月になって分かったそうで、その事実は6月17日付山形新聞で報じられている(加藤氏著書51頁)。

 平機についての第一報は3月11日付福島民報で、

 平に焼夷弾

 昨三月十日午前二時頃より、敵B29の少数機は鹿島洋方面より数回に亘つて本県上空に侵入、平市の一部に焼夷弾を投下、このため火災を発生したが、軍官民一致の敢闘により被害を最小限度に食ひ止めた。なほ、このほか県内山間部等にも焼夷弾を投下、山火事を発生した個所もあつたが、被害は殆どなかつた。

とあるという(同書83頁)。

 仙台を拠点とするブロック紙である河北新報は、1945年7月10日の仙台空襲により同年1月から6月までの原紙が失われている。そのため3月10日の仙台霞目・四郎丸空襲が報じられたのかどうかを確認することはできない。3月11日付朝日新聞によると、青森・仙台への焼夷弾投下について、

 青森、仙台へも来襲

 十日未明来襲のB29 は遠く青森県下に及び一機は上北郡下山林中に焼夷弾を盲投下した(青森)

なほ一機は仙台市外に焼夷弾を若干投下したがこれまた空家一戸、田圃中の木小屋を焼いたに止まつた(仙台)

とある。河北新報にはもっと詳しい記事が掲載されたのであろう。なおこの記事は四郎丸の被害のみを伝えているようで、霞目のほうは飛行場(現陸上自衛隊霞目駐屯地)が近かったせいか報じられなかったもようである。

 盛岡機についての第一報は3月11日付新岩手日報で、

 本十日未明、盛岡地方に敵機一機襲来、焼夷弾を投下。一部に火災発生したが軍官民の努力により間もなく鎮火した。

とあるという(同書96頁)。実際はこの空襲で盛岡駅周辺に大火災が発生し、死者も四名出ている。被害をより小さく見せようとする当時の報道のありかたが示されている。

 青森機については実際の被害がなかったにも関わらず、3月11日付の朝日新聞で報じられているのは先にも見た通りである。地元紙はどのように書いているかというと、東奥日報同日付には、「敵機遂に本県を襲う次回は投弾必至」という見出しのもと、戦意高揚調の記事が掲載されているという(同書109頁)。やや奇異に感じられるのは、在京の朝日が焼夷弾投下を伝えているのに、地元紙は「今回は投弾もなく偵察程度に止まつた」と報じていることである(同書110頁)。東奥の記者が知らなかった事実を、朝日の記者はどうして知ったのであろうか。

 実際には青森県内にも焼夷弾は投下されていた。13日付東奥日報は次のように伝えているという(同書110頁)。

 去る十日、青森県上空に侵入したB29は、其後の調査により上北郡○○警察署管内に焼夷弾百六個を投下して行つたことが判明した。すなわち、当日午前二時五分頃より同三十分迄の間に、高高度によつて侵入した敵一機は○○の国有林上空に至り油脂焼夷弾を投下したが、現場は製炭地で炭釜約五十基あり、当夜は快晴で炭釜全部密閉し、明りは漏れなかつたが、上昇する煙を工場地帯と誤認して投弾したものと推定される。現場は森林地帯で、積雪五尺を貫き、更に地下に大穴をあけ、樹間に○○用の○黄色の布紐が引つかかり、焼夷弾計百六個を十一日夕刻までに発見した。

 伏せ字があって、場所は特定できないようになっているわけだが、11日付朝日にあったように「盲投下」であったなら、場所を秘匿しなければならない理由が分からない。加藤氏は投下地点の手がかりを求めて1998年発行の『青森大空襲』(青森空襲を記録する会)中の「十和田湖町付近」という記述を探しだし、さらに「当時キップスと呼ばれていた場所で、現在の惣部牧野のあたりではないか」という回答を十和田市から得ている(同書112頁・惣部は正しくは惣辺と表記するらしい)。

 発見された焼夷弾の数は、結局六百個以上に上った。それらが落とされた場所は、当時は厳重に秘密とされたのであるが、その理由を次節で検討したい。

7.青森県上北郡十和田村惣辺

 加藤氏が苦労の末突き止めた青森機の焼夷弾投下地点は、当時の「上北郡十和田村惣辺」、現在の「十和田市奥瀬惣辺」というところである。惣辺牧野というのは十和田湖の東6キロほどの馬ノ神という山の西斜面に広がる放牧場で、かつては軍用馬が、現在は肉牛が放牧されている。記事には炭焼小屋について書かれているので、放牧場自体ではなく周辺の山林に投下されたものらしい。

 青森県には青森市・弘前市・八戸市の三つの都市があるが、そのいずれからも50キロほども離れた正真正銘の森林地帯である。インターネットが発達した現在は、グーグルマップとグーグルストリートビューによって疑似旅行を気軽に体験できる。試みに十和田道(国道102号線旧道)を十和田湖畔から太平洋岸の八戸方面に映像をたどってみると、2014年5月の美しい新緑風景が広がっていた。焼夷弾はこの十和田道の東側に投下されたはずだが、「工場地帯と誤認」(13日付東奥日報)されるような施設は、有史以来現在まで作られたことはなかったようである。

 ストリートビューによっては十和田道周辺の限られた場所しか見ることはできないので、画像をグーグルアースのフル3Dモードに切り替えると、今度はB29搭乗員の気分を味わうことができる。十和田道をさらに北東方面に向かうと、湖畔から10キロほどの十和田湖温泉スキー場の近くで国道103号線と合流するが、その手前に巨大な構造物が見えてくる。十和田発電所と表示があるが、これは戦前からの施設なのであろうか。焼夷弾が投下された地点からは5キロほど北に位置している。

 そこで十和田発電所で検索してみると、

 十和田発電所(昭和18年運開)は,11個所の渓流取水と十和田湖を水源とした、出力31,100 kW の貯水池式発電所です。十和田湖の水利用計画については、昭和12年に内務省・農林省・逓信省・青森県・秋田県および東北振興電力(株)(当社の前身)間で制定された「奥入瀬川河川統制計画」により、灌漑、発電、景観保護のために十和田湖水を有効利用することが定められ、新田開発を国が、水力発電を電気事業者が分担することとなりました。

(一般社団法人電力土木技術協会会誌『電力土木』2015年3月号所収「でんたん第四回十和田発電所と十和田湖」 http://www.jepoc.or.jp/magazine/magazine.php?_w=magazine&_x=kikan_detail&kikan_m_id=27&kikan_n_id=712

が、たちどころに呼び出された。運用開始は1943年とあるから、B29による爆撃のわずか1年ほど前にできたばかりの当時最新式の水力発電所だったわけだ。引用中に「当社(東北電力)の前身」とある東北振興電力株式会社とは何かとさらに検索してみると、「国立公文書館創立40周年記念貴重資料集展Ⅱ公文書の世界」の解説文中に、次の記事が見つかった。

28.地域からの陳情(1) ―昭和戦前期の東北振興

 昭和初期の東北地方は冷害による凶作が続き、特に昭和9年(1934)の大飢饉によって東北の生活は大きく疲弊しました。東北六県の知事は連名で、内閣総理大臣・各大臣宛ての申請書を提出しています。東北が独自に抱える問題点とこれに対する支援の必要性が述べられるとともに、その具体的解決のため「東北地方振興ノ根本計画ヲ樹立スルノ為メ速ニ東北振興調査会ヲ設置セラレタシ」と要望しました。

 同年末には「東北振興調査会官制」(昭和9勅令346)により、内閣総理大臣の諮問に応じて東北振興方策を答申する「東北振興調査会」が設けられました。本調査会は、昭和13年に解散するまでに数々の答申を出しましたが、そのひとつである「東北振興事務局」の設置は昭和10年に実現しました。内閣に置かれた事務局は、東北振興政策における各省との「綜合連絡事務」としての役割を担いました。

 展示資料は、宮城県牡鹿郡女川町長の須田金太郎から東北振興事務局に提出された陳情書です。日本有数の漁港であり、大型船の着港にも適していた女川港の修築が請願されており、そのための予算や調査報告などとともに、女川町が作成したパンフレット『自然乃良港女川港』が添えられています。これら道路・河川・鉄道の整備や雪害対策などを訴えた陳情は、昭和戦前期、東北各県の自治体や組合から多数寄せられました。

 その後、調査会からの答申に基づき、昭和11年に東北興業株式会社・東北振興電力株式会社が設置されたことを受け、内閣東北振興事務局は「内閣東北局」と改称するとともに、これら2社の監督にあたりました。 (http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/koubunshonosekai/contents/28.html

 要するに十和田発電所は、東北振興のために設置された東北興業株式会社と東北振興電力株式会社のうち、後者が造った発電所ということになる。とはいえ両社とも「内閣東北局」の監督下に置かれていたことに鑑みれば、それは国策により建設された発電所といってよいわけである。

 現在までのところ、青森機の最終攻撃目標が十和田発電所だったということを裏付けるいかなる物的証拠も発見できていない。焼夷弾投下地点から約5キロの位置とは、B29の速度からいって約30秒の移動距離にすぎない。快晴とはいえ月齢26の夜間爆撃であったから、爆撃手は地上を目視することはできなかったはずである。レーダー画面のみにたよる投下だったとすれば、この5キロは誤差の範囲といえるのではなかろうか。

8.再検討、平機・仙台機・盛岡機そして不忘山墜落機の攻撃目標

 青森機の最終攻撃目標が十和田発電所だった直接の証拠はないものの、当時の検閲担当者はそう理解していたという間接的証拠はある。先にも引用した13日付東奥日報の記事中の「上昇する煙を工場地帯と誤認して」とある部分がそれで、工場と見間違えるような構造物は、実のところ近隣には十和田発電所以外にはなかったのである。東京大空襲は住宅地が目標だったのだから、青森でも「市街地と誤認して」とでもしておけばよかったのに、検閲官はわざわざ攻撃対象が工場のような建物であったことをにおわせている。

 また、13日までに軍と警察が協力して600個以上の焼夷弾を回収しているが、その場所は厳重に秘匿された。その理由は地点が特定されれば誰かがその近傍に最新式発電所があることに気付くに違いない、という判断があったからと私には思われる。

 青森機以外が爆撃したり墜落した地点はとくに秘匿されてはいない。そこでそれらの近くに発電所やそれに類する施設がなかったかどうかインターネットで調べてみると、なんと簡単にヒットしたのである。

 不忘山に墜落したB29を捜索したのが横川集落の人々であったことは3月11日付朝日新聞にも明記してある。そこで、「横川」と「発電所」で検索してみると、そのものずばりの横川発電所が存在していると判明した(http://www.suiryoku.com/gallery/miyagi/yokokawa/yokokawa.html)。不忘山を真北に望む不老湖から取水しているこの発電所の運用開始は1928年だから、1945年にはすでに17年が経過していた。二番機は墜落直前に焼夷弾を投下したとあったが、これは緊急事態への措置ではなく、この爆撃目標への適正な攻撃ではなかったのだろうか。

 テレメンタリーの再現映像によれば、不忘山墜落機は一・二番機が南から不老湖上空を飛んで斜面に激突、三番機のみ東の白石上空から蔵王の尾根を飛び越えて前2機のやや北に墜落している。その三番機の墜落した地点から東に約3キロの場所には遠刈田発電所(1940年運用開始)がある。この近辺に焼夷弾が投下されたとの情報はないので偶然の可能性もあるが、ともかく三番機は墜落直前にこの発電所の上空を飛んでいたのである。

 平機・仙台機・盛岡機について調べてみると、各機が焼夷弾を投下した地点の近傍に発電所は発見できなかった。とりわけ盛岡機が投下した二番目の地点は市街地東方約10キロの山林で、青森機や不忘山墜落機の状況と似ているので詳しく調べたのだが、付近に発送電設備はなく、どうやら残った焼夷弾の投棄にすぎなかったようだ。ただ、盛岡機が最初に投下した盛岡駅近くの市街地には盛岡変電所という重要な電力供給施設があって、空襲による火災では焼け残ったことが分かった。さらに興味深いのは仙台機の場合で、ここに襲来した2機は仙台駅南東7キロの田園地帯に11トンもの焼夷弾を投下しながら、表向きは何の被害も与えられないでいたとされていたのだが、調べてみると近くに中核的な施設があったのである。

 仙台機は本州の東北部太平洋岸の海岸線をたどって北上し、宮城蔵王を源流とする名取川を目印にして内陸部に進入したものと思われる。多くの人は名取川の名前は2011年の東日本大震災での大津波の空撮映像で初めて知ったのではなかろうか。あの映像で津波を食い止めた仙台東部道路は海岸線と平行に内陸部3キロを走っている。東部道路より海側が被害の大きかった閖上地区、より内陸部に位置していたため津波被害がなかったのが四郎丸地区である。霞目地区は名取川を北に越して約4.5キロの地点である。仙台機は名取川河口をレーダーで確認して左旋回してまず霞目に、ついで四郎丸に焼夷弾を投下したものと思われる。

 70年後の現在では両地区とも住宅街になっているが、爆撃された当時は田園地帯だった。仙台市の中心街はそこから約7キロ北西にあって、もしそこが爆撃目標だったとしたら、仙台機は単に誤爆したということになろう。霞目には飛行場があるのでそこが目標だった可能性もあるが、四郎丸にはなにもないことは前に書いたとおりである。

 四郎丸から名取川を1.5キロほどさかのぼると、名取川本流と、北から仙台市街を流れ下ってきた広瀬川の合流点にいたる。その合流点から北西に1キロのところに南仙台変電所という大規模な配電施設がある。そこは霞目からは南西に1.5キロばかりの地点で、もしB29の航路が西におよそ1キロずれていれば、その周辺が火の海になっていたはずなのである。そこで南仙台変電所について調べてみると、その施設はもとは仙台開閉所と呼ばれていて、戦前から場所は変わっていないことが分かった。真の爆撃目標がここであり、その攻撃が成功していたなら、仙台平野は当分の間停電となっていたであろう。

 以上が1945年3月10日の東北空襲が東北地域の発送電施設を狙っていたとしたら、それはどこかという観点からの調査の結果である。8機程度のB29が広大な東北地方に焼夷弾をばらまいたところで、いかほどの効果が見込めるかと言えば、それははなはだ心許ないとしても、それでも今のところ最も可能性の高い理由であると思われる。

9.『東北地方電気事業史』と『東北振興電力株式会社社史』

 1945年3月10日の最初の東北空襲の目的は、その地方の電力供給に打撃を与えるためではないかという推測を立てて、参考になりそうな文献を探したところ、勤務校である静岡県立大学図書館岡村昭彦文庫に『東北地方電気事業史』(1960年5月・東北電力株式会社刊)という全千頁もの分厚い書籍があることが分かった。

 借り出して読み出すまでは、東北地方の電気事業などさぞや立ち後れていただろうと予測していたのだが、事実はそうではなく、明治19年(1886)には仙台の紡績会社が早くも自社の小規模水力発電装置によって工場に電灯をともしていたのだった。東北地方には水力発電に適した急流が多いうえ、そこから電気消費地たる小都市までの距離も近かったので、その後も多くの小規模電気事業者が地域の電化を進めていったのである。

 ただし、そうした電化事業は、大部分は家庭内を照らす電灯のためのもので、大電力を使って工場を操業するという利用方法ではなかった。工業化の立ち後れが地域の発展を阻んでいるという認識のもと、東北地方の振興のために政府の肝いりで創られたのが第7節でも触れた東北興業株式会社と東北振興電力株式会社(東北電力の前身)の2社なのである。

 そのような内容をくみ取りつつ、250頁まで読み進んで、私の目は1枚の地図に釘付けになった。それは昭和16年(1941)末現在の「東北振興電力建設送電網図」というもので、それによると北は十和田湖近くの立石発電所から、途中盛岡変電所、仙台開閉所、遠刈田発電所を経て一番南は福島県の郡山市まで送電線が接続されていたことが一目瞭然だった。十和田発電所は1943年の運用開始のため記載されていないものの、それを加えれば第8節で調べた発送電施設は東北振興電力のもとで全部つながっていたのである。

 こうなると東北振興電力が、立ち後れていた東北地方の高度産業化を推進するために具体的に何をしていたのかが気になるところである。『東北地方電気事業史』は戦後の刊行であるため、東北電力の前身である東北振興電力が終戦までにしていたことについて、やや曖昧なところがあった。そこでこの書籍が多くを依拠している『東北振興電力株式会社社史』(1942年刊)なる本を探してみることにした。

 大学図書館の蔵書検索によると、この本は武蔵大学図書館が唯一所蔵していると分かったので、大学図書館間の相互貸借制度を利用して借りようと申し込みをしたところ、司書の樋泉氏より、その本なら国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されているのですぐに閲覧できる、とのありがたい助言があった。国内で1冊しか確認できないでいた稀覯本でも、何の手続きも費用もかけることをせずに、居ながらにして読むことができるのである。

 1936年に設立されたばかりの東北振興電力が設立後わずか5年で社史を刊行したのは、1942年に同社が日本発送電株式会社に吸収合併されることが決まったからだった。社長の川越丈雄は、わずか5年にもせよ同社が東北地方の工業化に果たした貢献は記録に残されるべきだと考えてその社史の刊行を図ったわけだが、今この本を読んでみると、情報管理にたいするあまりの無頓着さに唖然とするものがある。

 1884年に鹿児島県に生まれた社長の川越丈雄は典型的な官僚だった。第一高等学校から東京帝大法学部を卒業後大蔵省に入省、1936年に大蔵次官となった。東北興業総裁兼東北振興電力社長は彼の最初の天下り先ということで、そこでの実績を誇りたいという気持ちがあったのだろう。ごく普通に読む限り『東北振興電力株式会社社史』は内容の充実したよい本で、東北地方に分散していた電力会社を、基幹とする送電線でつなぐことで大電力の需要に応えることができるようになった結果、それまで未発展だった東北地方の高度産業化が可能となったことが、手に取るように分かる作りになっている。

 問題はこの本が、1941年10月付の序文をもち、1942年1月に刊行されているという事実である。各発電所の所在と発電容量が記載されているばかりか、1941年以降の発電所の建設計画、送電網の現状などが発送電側の事項として説明されている。さらに電力消費側の事項として、どこにどのような生産工場が建設され、現に操業しているかまでが詳細に記載されている。そこに載せられている電力の大口需要先の例をあげるなら、3千キロワット以上を常時使用している工場として、日本製鉄工場(生産物:亜鉛・合金・鉄)3千Kw、東北振興アルミニウム会社(生産物:アルミニウム)6千5百Kw、東北金属工業会社(生産物:高級特殊合金)3千Kw、朝日化学工業会社(生産物:硫安)4千Kw、日東化学工業会社(生産物:硫安・アルミナ)5千5百Kwなどがあげられる。

 すでに英米との戦争が開始されているというのに、よくもまあこんな情報を堂々と開示したものだ。旧東北振興電力管内の発送電網を破壊してしまえば、これらの軍事にも転用可能な諸工場は操業できなくなる、と公言しているようなものだからである。

 3月10日の東北空襲に際して、アメリカ軍は最終攻撃目標の選定のためにこの『東北振興電力株式会社社史』を利用したに違いないという見込みのもと、米国内の図書館に収蔵されていないかどうかを元大学司書の中西晴代氏に調べて頂いたのだが、残念ながら発見にはいたらなかった。

10.東北興業株式会社とテネシー川流域開発公社

 青森県上北郡の焼夷弾投下地点の近くに十和田発電所があったことを手がかりにして話をここまで進めてきたわけだが、日本本土に向けて出撃した325機のB29のうち、東北地方に振り向けられたわずか8機程度でどれほどのことができたかといえば、先にも書いたように被害は限りなくゼロに近かった。

 そもそも東京の下町地区を焼け野原にするのがミッションナンバー40(3月10日の東京空襲のコード)の目的で、最終攻撃目標はあくまで東京に到達できなかった場合の2次的なものにすぎなかった。今までの私の推論が正しいとするなら、東北地方に向かった8機程度のB29には、出撃前の土壇場になって、仙台や盛岡などを最終攻撃目標から第一攻撃目標に変更せよという秘密の命令が出されたことになる。なぜそんなことをする必要があったのか。8機程度では東北地方の電力供給に与えられる損害が限定的なのは最初から分かっていたであろうに。そうだとすると、1945年3月に東北地方の電力供給に打撃を与えなければならない切羽詰まった理由が米軍にはあったのではないか、そのようにも思われるのである。

 日本国内で生産されている軍需物資のうち、東北地方が担っている割合は、戦争末期といえどもさほど大きくはなかった。首都圏上空の制空権を握ってしまえば、あとは東京湾沿岸部の工場群をつぶしてしまえば、日本軍への物資補給を絶つことができる。そうなることは目に見えているのだから、東北地方など後回しでもよいというのが常識的な判断といえるのである。

 そこで、一般的な軍需物資の供給遮断とは異なる切羽詰まった理由というのが問題となる。そのことについて私なりの考えがあるが、これから書くことは、今のところ何の物的証拠もない、ただの私の想像にすぎないことをあらかじめお断りしておく。

 前節の最後に、アメリカ軍が最終攻撃目標の選定のためにこの『東北振興電力株式会社社史』を利用したに違いない、という推測を書いた。その理由として、第7節で引用した史料ではまったく触れられていないことだが、東北興業会社と東北振興電力の設立に米のニューディール政策が影響を与えていたという事実がある。

 農業経済学者の岡田知弘氏は、1930年代初頭の冷害の災厄からの復興を目的として東北振興事業が立ち上げられたと述べている。

 そこで国策として登場したのが、東北振興事業でした。米国の TVA(Tennessee Valley

Authority:テネシー川流域開発公社)を模倣して、東北興業株式会社、東北振興電力株式会社をつくりました。この東北振興電力が現在の東北電力の前身です。政府は、東北振興綜合5カ年計画をつくり、各省ごとの振興策をまとめていきます。この事業の事務局長を務めたのは、国家動員機関である資源局長も兼ねた松井春生でした。彼は、東北振興事業の目的は、他の地域との格差是正にあるのではなく、「広義国防」のために東北に賦存する物的資源、人的資源の総動員を図ることにあると、明言していました。(岡田知弘「報告・東北の地域開発の歴史と新たな地域づくり」『社会システム研究』第24号(2012年3 月)23頁www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/memoirs/kiyou24/24-03.pdf)  

 最初は東北振興が目的だったのが、戦争の拡大にともなって国家総動員体制の一翼を担うことになったのが、東北振興電力消滅後も存続した東北興業株式会社だったわけである。ここまでは確認できる事実の部分であるが、以下は私の想像となる。

 その想像とは、米国の首脳部は自分たちが実行している政策の追従者として日本の革新官僚たちを見ていたのではないか、ということである。つまり、「敵」の指導者たちが目指していることは自分たちと同じだと思っていたのではないか。

 アメリカ合衆国の限りなくトップに近い数人は、自分たちだけしか知らない新兵器の開発に関して、何としても日本に先を越されてはならないと考えていたはずである。1945年初頭、米国はTVAによって生み出される豊富な電力を用いて、その原子爆弾という新兵器を完成させるまであと少しのところまできていた。自分たちがしていることは、日本だってしているに違いない、彼らはそう考えたのではなかろうか。

 すでに日本国内には、マッチ箱一つの大きさなのに巨大な破壊力があるというマッチ箱爆弾が完成間近だという噂が流されていた。それが原子爆弾を意味していることを、米国首脳部は認識していたはずである。もとより原子爆弾の製造には、大電力ばかりでなく、ウラン鉱石も必要である。そして日本国内でそれが発見されていたのはただ一カ所、福島県石川郡石川町だけなのであった。

11.東北地方での電力供給を絶たねばならなかった本当の理由

 便利な時代になったもので、国立情報学研究所が開設している「CiNii Articls 日本の論文をさがす」というサイトから論文の全文検索ができる。そこで試みに「ウラン」と「日本」が本文中に出てくる論文を検索してみると、9250件あることが分かる。

 表示を出版年の古い順位して片っ端から本文を表示すると、15件目の理学士木村健二郎による「磐城石川産新鉱物(石川石)に就て」(1922年8月刊『地質学雑誌』29(347))に、

さて、此の総分析の結果は稍サマルスキー石に似たる如しと雖も、稀土類の含量甚だ少くウランの含量大なる点に於て異なれりとす。

という一文があった。この石川石の発見場所は外牧観音山と大橋川とあるので調べてみると、前者は今の石川町沢井観音山、後者は石川町大橋近辺であると判明した。平空襲のあった現いわき駅からは北西約40キロ、また最も近い工業都市である郡山からは南に30キロほどの地点である。

 学術雑誌に発表された「磐城石川産新鉱物(石川石)に就て」は、1920年代から世界中の誰でも読むことができた。1940年代にマンハッタン計画に携わっていた米国の科学者たちは、自分たちの行動から、日本で原子爆弾を開発しているであろう人々の行動を予測していたのは間違いない。それに、日本でその中心になっている科学者が誰かは、最初から分かっていたのである。理化学研究所の仁科芳雄博士がその人であるが、彼はヨーロッパ留学中に、後にアメリカに亡命してマンハッタン計画に参加することになるユダヤ人科学者たちとも交流していた。「ニシナならどうするだろう?」彼らはそう考えたはずである。

 実際の日本では原子爆弾の開発は遅々として進まず、石川町でのウラン採掘も失敗に終わって、米国側の懸念は杞憂にすぎなかったのだが、1945年の初頭に米国側はその事実を知ることはできなかった。もし十分な量のウラン鉱石が石川町で採掘されていて、仁科たちがそれを材料に原子爆弾を製造しているとしたらその場所はどこか、彼らは必死に考えたはずである。すでにB29による爆撃下にあった関東以西ではあるまい。また莫大な量のウラン鉱石を遠方まで運搬するのはリスクが高い。

 そうなると原爆が造られているとしたらそれは石川町より北のどこか、となるのであって、その場合原爆製造に欠かせない電力は旧東北振興電力の送電網に頼ることになる。このように考えたマンハッタン計画の中心人物、おそらくグローブス将軍はルーズベルト大統領に直接東北地方の送電網を破壊する空爆計画を進言したのではなかろうか。

 マンハッタン計画は極秘であり、日本への戦略爆撃を指揮していたルメイ将軍もその計画を知らなかったと思われる。そしてもちろん、不忘山に墜落した3機のB29 の搭乗員も、自分たちが発電所を攻撃目標としていることは理解してはいたが、その真の目的が、日本の原爆開発を妨害することであったなど、思いもよらないことであったに違いない。ーーというのが、私が想像する不忘山B29三機連続墜落事故の真相である。(終)