東谷暁インタビュー: 平山洋 福沢諭吉「脱亜論」の真実

2015-03-12

この文章について

『表現者』第 3 号(2005 年 11 月 1 日発行)、  64-79 頁(発行所:イプシロン出版企画/編集部西部邁事務所) に掲載された「東谷暁インタビュー: 平山洋 福沢諭吉「脱亜論」の真実」を転載します。 転載にあたって、当ウェブサイト管理人が文章の一部に手を加えました。 手を加えていないバージョンは、「06/3 月号:今井公雄のホームページ」にて公開されています。 変更点は、以下の通りです。

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東谷暁インタビュー: 平山洋 福沢諭吉「脱亜論」の真実

東谷

平山さんの御著作である『福沢諭吉の真実』(文春新書・ 2004 年)を拝読して、ミステリーのような面白さに惹きつけられてどんどん読んでしまったわけなんですが、内容は深刻でしかも大きな問題です。これまで私たちが福沢諭吉を考える際に、読めば読むほど分からなくなっていくという側面があったわけですね。 いっぽうで非常に開明的なものの考え方をするかと思えば、後半の時事新報に書いたものを読むと、周辺のアジアの人たちに対する侮蔑の念があったとすら思えてしまう。

ところが実は『福沢諭吉全集』(岩波書店・ 1958 - 64 年)の元になった全集が、編纂の過程でとんでもないことをされてしまったのだ、と平山さんはお書きになっている。時事新報の主筆である石河幹明という人が、自分の考えで書いたものを、あたかも福沢諭吉が書いたかのように編纂してしまったというわけですね。

今日は福沢諭吉とアジアということで、福沢とアジアの関わり、あるいは逆にアジアから見た福沢という観点でお話いただければと思います。まず、福沢諭吉の「脱亜論」はずっと昔から知られているかと思ったら、違うんですね。

平山

まったく無名だったのです。1885 年 3 月 16 日に「脱亜論」というタイトルの論説が時事新報紙上に出ます。しかし福沢諭吉とは署名していないわけですね。では、最初に収録されたのは何時かというと、1933 年 7 月刊の『続福沢全集』(岩波書店)なんです。ということは、48 年間、それはどこにもなかった。新聞の社説というものは普通、10 日前のものでも見ることができませんから、3 月 16 日の新聞を見た人以外は、1933 年の 7 月まで誰も読んだことがないというものなんです。びっくりでしょう(笑)。

東谷

また、「脱亜論」というから、厚い本を一冊を書いたのかというイメージだった。ところが全集を見るとわずか 3 ページ。

平山

しかも、最初に収録された 33 年 7 月の段階で、「福沢先生は凄いのを書いた」という評価があったかというと、それもない。最初に言及されたのはずっと後の 1951 年で、これより遡るものは、私はまだ発見できていません。どこかにあるかもしれないのですが、いまのところ遠山茂樹さんが「発見」したのが最初というしかない。しかも遠山さんが、慶応の学生サークル誌である『福沢研究』に発表したこの「日清戦争と福沢諭吉」という論文は、1992 年刊の『遠山茂樹著作集』第 5 巻(岩波書店)が出るまで、単行本には入っていないわけです。遠山さんは 1914 年生まれですから当時 30 代、横浜市立大学に就職された頃だったんでしょう。若手の先生が頼まれて書いたものなので、その論説自体も、人々が長らく目にすることはなかった。ではなぜ我々が知っているかというと、その論文をたまたま見た服部之総さんが、これは面白いというので、何度も「脱亜論」「脱亜論」と言っているうちに、話が大きくなった、というのが真相なんですね。

東谷

服部之総の論文「東洋における日本の位置」における記述ですね。

平山

それが 1952 年。服部さんは有名な方でしたから、こちらは河出書房から出た本に収められていて、この論文には、「「脱亜論」などの存在を遠山君から教えてもらった」とあるんです。

東谷

しかも、それでも、そんなに知られているわけではなかった……。

平山

知られていません。なぜかというと、服部之総は明晰というか単純というか、過激派のバリバリなんです(笑)。後で触れますが、安川寿之輔さんと似た系列の、シュプレヒコールを上げて相手をなじるというタイプなわけですね。そういう方が書いた論文というのは、特定のシンパ以外には読まれることはない。丸山眞男さんなんて、服部さんには触れないようにしている。丸山さんは、私の論敵はこんなふうに言うけれども私はそうは思わない、というような書き方をしていた。それで長らく誰が論敵なのかわからなかった。調べてみたら、服部さんのことだった。

東谷

そこまでお調べになった。

平山

明らかに服部さんに対する反論という意識を持っていた。ただ、直接名前を挙げての反論ではなかったので、服部さんが、自分は無視されたと腹を立てているうちに、55 年に亡くなっちゃったんです。

それから後しばらくすると、服部さんの亡霊みたいなのが出てきたわけですね。いま我々が抱いている「脱亜論」のイメージを形作った研究者たちがいて、その人たちが自分の弟子たちにそれをばらまいていくんです。その嚆矢が早稲田の鹿野政直さんです。鹿野さんの『日本近代思想の形成』(新評論社・ 1956 年)のなかの一節は、服部さんと同じことが書いてある。言葉もちょっとだけしか違わないほぼ同じもので、要するに日本における近代化論者=福沢は帝国主義者に過ぎなかったという説です。

東谷

それが先ほど名前が出た安川寿之輔氏の『福沢諭吉のアジア認識』(高文研・ 2000 年)にも流れ込んでいく……。

平山

おそらく 60 年代初めくらいに名古屋大学の大学院にいらしたであろう安川さんに更に繋がっていく。ただ、「脱亜論」が有名になっていく過程で大きな転回点になったのは、やはり中国文学者の竹内好さんが取り上げたことでした。竹内さんは服部さんが言ってるからというよりは、むしろ東大法学部の一部の人たちが反論しているのを耳にしたらしいですね。それで、「日本とアジア」という論文に、「福沢に『脱亜論』の主張があるのは有名である」とぽろっと書いちゃうんです。「日本とアジア」は、竹内・唐木順三編『近代日本思想史講座』第 8 巻(筑摩書房・ 1961 年)『世界の中の日本』のために書かれたもので、同じ巻に岡義武さんによる論文「国民的独立と国家理性」が収められています。その岡論文に「「脱亜」の時代」という節があって、「脱亜論」が紹介されています。竹内さんは岡論文を見、その巻のまとめとして「日本とアジア」を書いたんですね。そこで「脱亜論」に着目した竹内さんは、直後の『現代日本思想体系』第 9 巻(筑摩書房・ 1963 年)『アジア主義』の解説で、「脱亜論」の全文を引用しています。66 年に『竹内好評論集』(筑摩書房)が刊行されたときには、「日本とアジア」がなんの脈絡もなく他の評論のなかに混じって出てくる。アジア学の泰斗でもある竹内さんが言うんだからそうだろうというので、60 年代の後半にかけて、いろんな人が「有名な「脱亜論」」と、確認しないで言うようになった(笑)。

東谷

しかも「脱亜論」が取り上げられる場合は、福沢を貶めるために引用されるわけですね。

平山

そうです。簡単に言ってしまえば、肯定的な解釈というのは、私より前には、歴史学者の坂野潤治さんが、『福沢諭吉選集』第 7 巻(岩波書店・ 1981 年)が出たとき、その「解説」に書いています。「脱亜論」というのは、脱亜を言わなければいけないくらい、残念ながら日本を除いた東アジアの国々は意識が遅れている、本当に残念だという意味で書いたもので、それを蔑視と捉えるのは間違いだ、というわけです。私はそのころ慶応義塾大学にいて、福沢は嫌な奴だと思っていたのですよ。でも、そういう気持ちを取り去って、虚心坦懐に読んでみたら、なるほどそうなのか、と納得した。要するに精神的に近代化せよと言っているのであって、地理的概念のアジアから離れるとか蔑視するとか、そんなことは全然書いてないわけですよ。

東谷

しかも、最近では安川さんが『福沢諭吉のアジア認識』で、蔑視の集大成のようなことをやって下さったわけですね(笑)。この本に、福沢諭吉のアジア蔑視例と思しきものがズラーッと並んでいて、学生が安川さんの本で福沢を学び始めたとすれば、とんでもない奴だと思うに違いない。

平山

安川さんは過激派ですけれど、それに似たような考え方をする人たちはずいぶんいて、大阪大学の子安宣邦さんなんかにも流れ込んでいます。それからひろたまさきさんとか、旧帝大系に多いんですね。つまり、エリート層の文学部学生たちは皆それに感化されてしまう。

東谷

子安さんの『「アジア」はどう語られてきたか』(藤原書店・ 2003 年)なんかも、読んでいくと、福沢はアジアを蔑視したことにしないと気が済まないのだと思えてきますね。

平山

意外ですよね。あれほど柔軟な頭の方が、なぜああまで言い続ける必要があるのか。どこかで気が付くんじゃないかなと思うんですが。遠山・服部の解釈とほとんど同じなんです。全然変化していない。50 年前に東大生だった頃に読んだものを、心のどこかに持ちつづけていて、そのまま書いたのじゃないかと思うほどです。子安さんの『事件としての徂徠学』(青土社・ 1990 年)における徂徠にたいする評価は正しいと思うので、あれくらい徂徠を当時の時代に位置づけることができるのならば、19 世紀末の福沢だって、もっと正確に理解できたはずです。福沢のアジア観は、当時であったら当然のリアリズムで、そこに蔑視観はなかったと論じ、むしろ肯定的に時代をリードした人物だと評価することができると思うんですよ。

東谷

「アジア」と「亜細亜」はまったく違うんだと言ってみたり、タイトルに「亜細亜」と漢字を使った本を非難したりしていますね。

平山

それは、終戦末期に国民学校の生徒だったりして、何か小さいときのトラウマがあるんじゃないでしょうか。子安さんより上の世代、江戸時代の思想研究で有名な源了圓先生なんかの世代には、全然そういうのを感じませんでした。カタカナで書こうが漢字で書こうが同じようなものです。そもそも中国ではアジアを漢字表記しないのでしょうか(笑)。もちろん、こちらが蔑視するということも問題だとは思います。しかし福沢が問題視していたのは、儒教的な文化圏のなかで日本を周辺部として位置づける清国や朝鮮の日本蔑視のほうです。日本というのは文化的に遅れているんだ、武力しかなくて野蛮な奴らなんだという侮日の意識がある。福沢は「近代化」を西洋的近代化に限定するわけだから、当然それを阻害する要因になると考えたわけですね。

東谷

「近代化」と言った場合に、福沢が意識したもの以外の近代化が可能かどうかというと、これも大問題ですね。たとえば福沢の文明論的が西欧中心であると言って批判しても、じゃあそれ以外のものが当時あったのかということになる。

平山

福沢のいう文明・半開・野蛮は、デベロップト、デベロッピング、アンデベロップトなんですけどね(笑)。民主主義があるとか、生活水準はどれくらいだとか、福沢が挙げている文明政治の 6 条件と同じ判断基準で言ってるわけですよ。

東谷

文化人類学で言う価値相対主義にしても、認識論上の価値相対論だと思うんです。フィールドワークに出かけた民族の文化を高く評価したとしても、自分が、たとえばアフリカの少数部族と同じ生活するのかと言ったら、もちろんしないわけです。

平山

アフリカの人だって、その多くは、できればやっぱり俺たちは旧宗主国みたいになりたいと思っているに違いない。

東谷

自分たちに固有なものをなるだけ失わないようにして、そのうえで追っかけていかなくちゃいけないと考えている点では、福沢と何も変わらない。

平山

本当ですよね。何が問題なのという感じです。この点では文句のつけようがないから、結局、安川さんなんかは人間的にひどかったという批判をするしかなくて、人から奪うことによって自分が豊かになろうというさもしい根性であるという形で結論づけるわけです。ところが福沢のものを読んでみると、決して人から奪うということではなくて、交易を行おうという話です。向こうにあるものを貿易で買ってくる。我々にあるものを彼らに売る。貿易ですから両方にプラスになることが当然あるわけであって、それはなるだけ自由主義経済的なものであるほうがよいと言っているだけです。相手から奪うなんてどこにも書いてない。

東谷

今のお話の関連で言いますと、領土を獲らなくちゃいけないと言ったのは、福沢じゃなくて石河幹明だったようですね。

平山

福沢のものは全部見たけれど、領土がほしいと書いてある部分は一カ所もないし、それはなぜ証明できるかというと、安川さんの本を見れば分かるんですよ(笑)。『福沢諭吉全集』の第 7 巻までが署名、第 8 巻以降が無署名なんですが、領土問題について書いてあるのは 8 巻以降だけなんです。それより前には書いてない。安川さんは目を皿のようにして見てるわけですから信用できる(笑)。

東谷

しかし、石河幹明という人は、一体どういう気持ちで師である福沢の全集を、意図的に曲げるような編纂をしたのでしょうか。

平山

おそらく、そうすることで、福沢がよりいっそう尊重されるようになる、と考えたのでしょう。それを石河が意図的にやったというのは、いくつも証拠があるわけです。たとえば『修業立志編』(1898 年)というあまり知られていない本がありまして、これは 1936 年まで慶応内のテキストとして使われていたものなんです。論説・演説集ですが、それらは時事新報論集のなかに全部収められているという注意書きが全集にはある。でもその注意書きを見たときにちょっとおかしいなと思った。調べていくうちに、元の本には 42 編あるんだけれど、全集では 9 タイトル足りないんですよ。しかも、そのうち 2 タイトルは確実に福沢が書いたものだと私には自信があった。なぜかというと、「私の書いた『文明論之概略』にあるように」とありましたからね。それが抜けているということは、恐らく発表した当時は福沢諭吉と署名がしてあったものなのに、石河は誰にも読ませたくないと思ったのではないのか。その論説は非常にいい論説なんですよ。しかし、今の我々の価値観でいいと思っても、1930 年代初頭の状況では都合が悪いというものもある。そういうことなんですね、簡単に言えば。

東谷

「1932 年の福沢諭吉」という章が御本の中にありましたね。

平山

満州事変以降の連戦連勝のなかで、石河幹明の『福沢諭吉伝』全 4 巻(岩波書店・ 1932 年)は出版されているわけです。だから今この本を出版時期の脈絡なしに読むと、福沢というのは戦争が起こって嬉しくてしょうがないような人物だったように見える。しかし、1932 年の読者が読んだときには、自分たちの感覚とまったく同じだと感じたはずなんです。当時の読者にとって戦意高揚的なものは、いま我々が読むと、福沢はひどい奴だというふうに読めるわけですね。

東谷

なるほどね。しかも、石河というのは、非常に嫉妬深い方だったような気がしてしょうがないんですが。

平山

私がそう思われるように書いてしまったので、ちょっと申し訳ない(笑)。これは余談ですが、私は神奈川県藤沢市の出身で、同窓会は藤沢三田会に所属しています。じつはこの同窓会を組織した有力メンバーが、石河幹明のご子息で、三井銀行専務や日本航空副社長などを歴任された幹武さんでした。彼は 3 代目の藤沢三田会長で、ご子息は今でも私の家から数百メートルのところにお住まいです。ご先祖さまをあんな風に書いてしまって、本当に申し訳なく思っているのです。

東谷

それは驚きですね。

平山

そこで、嫉妬について考えてみますと、「私は嫉妬深い」とは、ふつう誰も言わないし、誰がどういう状態を指して嫉妬深いと感じるかというのを証拠立てるのは難しい。お金の授与なら簡単に分かるんですが、「彼にはジェラシーがあったのではないか」という憶測では、ものは言えませんからね。

東谷

ただ、嫉妬に由来するとしか考えられない現象が繰り返しあるわけですよね。

平山

たとえば、時事新報を始めたころ記者として活躍した高橋義雄の論説を、石河幹明は何とかしても排除したいと思っていた、という証拠はある。高橋を、福沢諭吉は非常に可愛がって自分の息子のように思っていた。これは文献的に実証できるわけです。福沢が高橋を嬉しそうに褒める書簡はたくさんあっても、石河を褒めた書簡は、少ないし素っ気ないんですよ。もちろん、これは私の読みとり方かもしれなくて、実際には石河も好かれていたのかもしれない。ただ、私の見るところでも、文章のクオリティは高橋と石河では相当差がある。石河はつまらないんですよ。福沢全集の中でも時事新報論集の後半はつまらないと言う人は多いんだけど、そのなかに本物はほとんどないわけですから、石河の文章はつまらないと言っているのと同じことなんです。

東谷

それは安川さんの『福沢諭吉のアジア認識』が逆証明してくれている。

平山

そうなんです。安川さんのあの巻末リストがなければ、私の『福沢諭吉の真実』も書くことはできなかったでしょうね。安川さんが目を皿のようにしてリストアップしてくれたものを、誰が書いたかという判定をやってみたときに、ほとんど福沢ではないということになるわけだから(笑)。

東谷

無署名論説は 4 つに分類されていますね。

  1. 福沢真筆
  2. 福沢立案記者起稿
  3. 記者立案福沢添削
  4. 記者執筆

この 4 番目が非常に多いということですね。

平山

いや、そう言ってしまうのは難しい。無署名の論説のなかで、誰が下書きを担当したかは推測できても、誰がアイディアを出したかを確定することは、本当は不可能なんです。だから推定のカテゴリーに過ぎないんですね。その点では、私の言ってることに同意してくださる人でも、石河が恣意的であることは証明できたが、君が恣意的でないという証明はどこにもないと言いますね。

東谷

しかし、それは認識論の泥沼に入っていくようなものですね。「ある」ことは証明できても、「ない」ことは証明できない。

平山

たとえば、芥川龍之介の小説「藪の中」(1922 年)を映画化した『羅生門』(1950 年)という黒沢明の映画でも、アラン・レネ監督の『去年、マリエンバードで』(1960 年)というフランス映画でも、過去のある事件についていろんな人が語るんだけど、みんな食い違うんですよ。その点では「福沢諭吉の真実」という名前は付けているけれども、これだって高慢といえば高慢なわけで、「私の福沢諭吉の真実」に過ぎないと断っているわけです。

東谷

でも高橋義雄の論説を排除する石河のやり口というのは、やはり優秀だった記者・北川礼弼にたいしても、まったく同じことが繰り返されているということが分かるわけですね。

平山

ええ、しかもこの場合、動機として嫉妬以外に、いったい何が考えられるでしょう(笑)。石河が排除した高橋や北川の論説を、福沢が褒めている手紙が残っているというのに。けれども石河はこう言うんです。私は先生が立案したものだけを採録したんです、と。それが彼の主観的真実なわけだから、それを否定することはできなかった。今までの研究は、石河の言葉の上だけに成り立っている。でも、誰が実際に書いたかという判定ができるようになったので、これはおかしいと分かった。いずれにしろ、私の本のなかで新しい部分は、時事新報社という一つの新聞社のなかの権力抗争が書かれているところで、福沢研究の今までのなかにまったく出てこなかったのです。

東谷

そこが凄く面白くて読まされてしまったんです。そういう研究というのは、平山さん以前にはまったくないのですか?

平山

ないんですね。時事新報社についての記述は石河の『福沢諭吉伝』第 3 巻に載っているものをみんな引用するだけで、石河が最初からエリートとして育てられたかのような物語です。それは『スターリン全集』(1954 年)を見ればスターリンがレーニンの後継者であることが必然的になっているようなものです。石河が退職する 1922 年までの時事新報社というのは、亡くなった福沢は神である、代弁者は後継者の石河である、と決まっちゃってるわけだから、これ違うんじゃないですかとは言えない。存命中の福沢を知ってる人間は、84 歳まで長生きした石河しかいなくなるわけですから。

東谷

私が編集者をやった経験で敢えて言いますと、編集者とか新聞記者というのは、福沢のいう「怨望」が強いんじゃないかと思う(笑)。

平山

社会組織は全部そうでしょう。学界なんかも。外から見るのと内なる権力のパワーは違う。特に知識人はなまじ頭がいいだけに、「なんだよ、知識人のくせに」というので、権力闘争も激しくなるのかもしれません。福沢の評論というのは、時事新報社のこういうガサガサしたなかで書かれたということを分かってほしいですね。

東谷

それから、これはある意味で泣かせる話なんですが、福沢諭吉が自分の息子をどうにか社長にしたいという気持ちも、関係あったのではないかと示唆されていた。

平山

骨肉のほうが、出来が悪いってことがしばしばあるわけです。血縁相続をやる場合には、形式化したトップという形に甘んじることで納得する以外にない。弟子集団も、そうすること以外にないだろうと思った。そこで福沢は社内を牛耳っていた石河に妥協せざるを得ない面もあったかもしれない。

しかも、福沢兄弟というのは、次男の捨次郎よりも長男の一太郎がもっと出来が悪かったわけです。アメリカに留学して、捨次郎は MIT を卒業できたんですけれども、一太郎のほうはせっかく入学したコーネル大学に通うのをやめてしまったのです。だから社長になったのは次男で、長男は慶応義塾社頭という学長でも何でもないポジションに就くんです。福沢も息子たちを一生懸命に教育するのですが、弟子たちのほうがやっぱり優秀ですね。特に高橋は優秀です。でも彼は結局、三井財閥の立役者になって、言論界には戻ってきませんでした。

もともと石河と高橋は同郷でほぼ同年齢なんですよ。水戸の士族で百何十石かと家格もほとんど同じ。しかも、小さいときからの知り合いなんです。

東谷

それじゃあ、石河にしてみたら、ますます高橋の存在は嫌ですね(笑)。

平山

本当に嫌だったと思いますね。福沢は常に「高橋にやらせろ」という感じなんですから。二人は一緒に正則(普通部)へ入学していますが、石河は時事新報社に高橋より 3 年遅れで入社しているんです。本科といって後の大学部に相当するところで研鑽を積んでいたからなんですが、それにしても何となく想像がつくじゃないですか。だから高橋が三井に移ってくれて石河はほっとしたと思うんですね。でも、高橋も長生きして自伝『箒のあと』(1933 年)を書いていて、そのなかでは、初期の時事新報社は俺が牛耳っていたとちゃんと書いている(笑)。

東谷

でも、あの書き方はどこか微笑ましいですね。

平山

『福翁自伝』(1899 年)に似た非常に率直な書き方がされています。この文章を読んでも、石河と高橋は全然ちがうタイプの人だなと思いますよ。水戸出身の尊皇派であるというのは共通点ですけれど、高橋の性格は福沢が「ざっくばらん」と形容しています。謹厳実直、真面目一方なのが石河さんで、彼はもともと本当に水戸学の学者の家柄のようなんです。幕末水戸の藩内抗争として有名な天狗党の乱では親戚から犠牲者が出ています。高橋のほうは実務家の侍の出なんじゃないかな。

東谷

石河が福沢や高橋に抱いた感情をおもうと、なんだか、アメリカ映画の『アマデウス』(1984 年)みたいですね(笑)。

平山

私は知らず知らずのうちに、そういうドラマを、この本のなかに書き込んでしまったのかもしれない(笑)。石河はサリエリですね。俺は一生懸命努力してるんだ、認められたいと思ってるんだけども、周りの人は才能で比べてしまう。こんなに努力しても駄目なんだと。

東谷

この映画のなかでは「私と同じ凡人たちよ。凡人にこそ幸いあれ」というサリエリの台詞が出てくる。

平山

石河さんは凡人ではあるけれど、凡人のほうがいいこともあるんです。それは、読者が読みたいものが何かが分かるんです。対象と同じ価値観の凡人だから、先走ったことを言わない。何百万人の読者は俺の文章のほうを読みたがっているという自信もあったと思うし、実際そうだったんです。だって西洋的近代化のことばかり言う福沢・中上川彦次郎・高橋という路線で時事新報社を運営していたら、すぐに「あんな西洋かぶれの新聞は駄目だ」となったと思うんですよ。ところが、実際には時事新報社は日清戦争以降、発行部数が非常に伸びていくんです。これは売る才能があるということです。つまり石河は読者が読みたがるものは何かをわかってるわけですね。

東谷

ご本の中で、真筆とそうじゃないものを文献学的に分類していくうえで非常に効果的だったのが侮蔑発言。「チャンチャン」とか「豚尾児」とか。

平山

あれも安川さんが分類してくれたおかげなんですけど(笑)。安川さんへの反論という形で書いたことで非常に分かりやすいものになった。本人の真筆だと分かっているものではそんな言葉は使っていないし、そういう言葉が出てくるのは偽物だと言ってしまって構わないんですよ。

東谷

福沢が差別主義者なら、じゃあ、なんで時事新報の社説に、侮蔑的表現を戒める「支那人親しむ可し」(1898 年)が出てくるんだ、ということになってしまうわけですね。

平山

安川さんの本には、それは福沢の「嘘」なんだと書いてあるんです。しかし、考えてみれば嘘をつく理由が見当たらないんです。それが本当だと思うのならばずっと言い続ければいいだけのことでしょう。突然シラフに返ってまともになって、蔑視してはいけないんだと言い、その何日か後に自ら戒めたはずの蔑視発言を書くとしたら、これは気が狂った人ですよ(笑)。

それから「中国が野蛮国だ」という記述も、朝鮮の甲申政変(1884 年)であまりにひどい弾圧があったときに、そういうことをちょっと言うんだけれど、それ以降、中国を野蛮国とみなす福沢の言葉はないんです。今日よく引用される論説「日清の戦争は文野の戦争なり」(1894 年)の執筆者は石河で、福沢が関与した証拠はまったくありません。福沢は中国を「老大国」という。もちろん、古くて内側から腐りつつあるというネガティヴな意味ではあるけれど、中国も日本も韓国も、東アジアはぜんぶ半開から出発するんだ、そのうち日本はやや文明に近づいているが、他の二カ国は残念ながら背後にあって残念だ、と言っているんです。

なぜ残念かというと、文明国になってくれないとちゃんと貿易ができないからなんです。同じように発展していったほうが我々にとってもいいんですよ。現に日本と中国との関係がそうじゃないですか。中国のユーザーが豊かになっていくから我々の車が売れるのであって、貧しいままではいつまでも日本の車は売れない。中国の人民が豊かになっていくことで日本の製品が売れるし、もちろん中国の製品を日本が安く買うことができて日本にとってもいいというのが、福沢の言っていることです。

東谷

朝鮮のことを「残酷なことをやる国だ」という記述がありますが、それも惨殺な処刑があって、そのことに絶望したということでしたね。

平山

朝鮮独立党を処刑するとき、女子供まで一緒に処刑していることにたいして、なんて野蛮な国なんだと言っているんです。同じ年に「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(1885 年)という論説がありますが、朝鮮を今の北朝鮮と読み替えても意味はそのまま通じるんです。つまり、法律が全然なってないとか、一部の特権階層だけが人民を抑圧し、多くの人民は飢えたままで放置されているとか。それだったら、文明国が彼らを支配したほうがよっぽど人民にとって幸福なことなんだというようなことです。『諸君!』の 5 月号にそれを素材として書いたんですが、やはり福沢の視点というのは、普遍的な価値を持ってるということを強く感じますね。

東谷

処刑のやり方、涙の流れるような情景を福沢は見事に描写してみせる。

平山

それをなぜ書けたかというと、弟子の一人が実際にソウルでの処刑を見て、その様子を書いたものを、密かに時事新報社に送ってきたらしい。本当は日本で書いていた T ・ K 生とはえらい違いです(笑)。

東谷

「脱亜論」とか「その国の滅亡を賀す」という論文を書く以前の独立運動の闘士・金玉均への支援が、なぜ忘れられるのかも不思議です。

平山

金玉均への支援は、「脱亜論」以後も、それから 10 年間、彼が暗殺される 1894 年まで続きます。けれども、そうした活動も結局は彼らを日本のために利用していただけなんだというのが、左翼からの批判ですね。朝鮮を日本領にするために、最後は彼らを使い捨ての駒にした、という解釈なんです。謀略史観ですから。それを真に受けると福沢は非常に嫌な奴になってしまいます。実際に石河の『福沢諭吉伝』第 3 巻でそう描かれているのが問題なんですよ。遠山さんは石河による伝記を読んで、福沢はひどい奴だなと思ったわけです。それで、左翼的な考え方から、実はこういうふうにひどい奴だったんだ、と遠山さん自身の『福沢諭吉』(東大出版会・ 1970 年)に書いた。

東谷

遠山茂樹さんの本でも、途中から福沢の評価が変わるわけですね。

平山

そうなってますね。時事新報発刊より前の部分は『福翁自伝』なんかともつながりがあって、非常に開明的で近代化論で、まだ海外についてとやかく侵略的なことを言わなかった、結構良い時期だという。でもよく読んでみると、前のほうにも侵略的な部分がある。それが凄く肥大化してきたのが後半だというわけです。なぜかというと、1882 年に時事新報が発刊されますね。それ以降は基本的に時事新報論集が批判の対象になってくるということなんです。それより前は福沢名でしか書くことがないわけだから。そうすると『通俗国権論』(1878 年)くらいしか、いちゃもんを付けられるものがない。『通俗国権論』だって、現実の世界は弱肉強食だということが書いてあるだけです。

東谷

福沢自身が書いたり話したりしたものを読んでいますと、当たり前のことを堂々と言ってくれているという気がするんですね。たとえば「自分の国が尊いものだと云へば隣りの国も尊いものと斯う為なければならぬではないか」(1898 年)と述べている。それがなんで侵略主義者なのか。

平山

その講演は、実は石河の最初の全集の中には入ってなくて、1960 年代になって増補されたんです。石河は忘れてたんじゃありませんね。気が付いてたのだけれど、自分に都合が悪いんで入れなかった。現行の『福沢諭吉全集』を編纂した、石河の弟子の富田正文さんはそれでも誠実で、後から見つかったものも増補してるんです。その中に石河が言っていることと矛盾するものがたくさん入ってます。中上川宛書簡もそうだし、さっきの講演もそうです。そこには侵略主義をうかがわせる記述はありません。確かに国権は重要視されています。自国の国権を拡大するということを、左翼の人たちは領土拡大と結びつけるんだけど、国権とは国力、パワーというかウェルネスのようなものなんですよ。

東谷

「皇張」という言葉の皇の字がまた気になる人が多いようですね。

平山

あれは福沢ではなくて石河の用語で、どうも水戸学的な用例らしい。福沢自身は「興張」と書いていたと思う。だから、石河には、私としては否定したくなるような、1930 年代のある方向性があったわけですね。福沢自身の説は要するに、各国それぞれで愛国心を持って自分たちにあった近代化をしてください、それは世界全体にとってもプラスになるんですよ、ということですから何の問題もない。

東谷

いわゆる保守派の人たちも、たとえば台湾の人たちが日本のことをよく言うと非常に嬉しがるわけです。ところが尖閣列島問題なんかで気に食わないことを言われると激してしまって、偽物の親日派だったんだと言い出す。

平山

愛国心自体はすべての国が尊重すべきであって、それは何ら否定されるものでない。しかし問題は、愛国心が他国蔑視と結びつくということが、残念なことにしばしば行われやすい。それはすべての人間が戒めなければならないことです。別に「隣の家が悪い」と言わなければ自分の家が幸福でないなんてふうにはならない。自分の家が幸福だというのは絶対的なものであって、誇りを持っていいわけですよ。

東谷

そういうとき、平山さんは国の文明の発展度を見る基準が、しっかりしてるか否かが大きいのだとお書きになっている。

平山

文明政治の 6 条ですね。明治維新より前、1865 年ころのメモの中に最初に出てくるんです。ただし、文明政治の 6 条件じたいの典拠がどこにあるかはまだ突き止めてなくて。

東谷

  • 個人の自由を尊重
  • 信教の自由
  • 科学の技術
  • 教育の推進
  • 産業育成のための政治
  • 国民福祉

の 6 つ。

平山

今でも通用するでしょう(笑)。これ以外のものはどこにあるのかと言いたいですね。彼の意識の中に点取り表みたいのがあって、その国の発展度を見るわけです。その中で見たら、ヨーロッパとかアメリカは文明だけれども、日本は政治的な参加が駄目だ、福祉が足りないというので「半開」になってしまうというわけから、民族的なものは何も関係ないんですよ。

東谷

「脱亜論」は福沢を貶めるために引用されたという話をして頂いたわけですが、アジアから見た福沢というのも、同じようなことになっている。

平山

ええ、日本と中国と韓国の左翼による共同作戦があるのだと私は思います。

金谷譲さんという中国思想の専門家の面白い指摘がありました。中国の大学入試に「脱亜論」が出題された際、その引用の仕方が遠山茂樹の論文とそっくりだったというのです。「我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」という部分だけが引用されて、その説明である「悪友に親しむ者は共に悪友を免れる可からず」、という部分を「……」で省略してあるところまで同じだと(笑)。おそらく答えも遠山さんの見解が正答とされたのではないでしょうか。

中国でも日本と同じことばかり言うのですから、つながっているのは間違いないですよ。日本の左翼が韓国や中国のそういう人たちに情報を流して、むこう側から批判をフィードバックさせるということをやっている。だから『正論』とか『諸君!』で指摘されていることは、的はずれな謀略論ではなくて、現実にあるのですよ。

東谷

いろんな人間的な関係とか組織を通じて……。

平山

留学とかね。それにピースボートなんかは、もともと人的交流のためのものなのかもしれない。そういう形で日本の左翼陣営の学生たちがむこうのエリート層と繋がると、日本側が持っている資料がむこうに渡って、中国側から批判が出るという仕組みですね。日本人が日本を貶めることにいかほどのメリットがあるのかは分からないけれども、少なくとも日本の現体制を弱めることになる。その点で言えば、共通の敵と戦っているわけなんでしょう。

東谷

そうはいっても、中国とか韓国に、福沢諭吉をきっちり評価しようという動きがないわけではないのですね。

平山

ネット上に林思雲さんという方の、「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」という論説が公開されているのですが、林さんは非常に思考の柔軟な方で、私が描き出したのと同じような福沢像を抱いているようです。中国人は福沢を評価する場合、もっと謙虚であるべきだということを言っているのです。この林さんは先の金谷さんと共著『中国人と日本人』(日中出版・ 2005 年)をお出しになっています。また、私の慶応時代の師匠・小泉仰先生の古希記念文集『西洋思想の日本的展開』(慶大出版会・ 2002 年)に、中国社会科学院の日本研究所教授・法政大学教授の高増杰さんが書いておられます。その論文「西欧的世界観の受容と改造」は、福沢諭吉に対しては激烈調ではなくて、前期の近代化論については評価すべきだとわりと肯定的なんですが、後期については語らないんですよ(笑)。私が言っているようなことが、ちゃんと認識されれば、別に後期について語ってもいいはずなんですが、今の状況だとあまりにも安川さん的なものが流布してるので、それには触れたくないわけですね。これは 19 世紀の中国に厳復という近代化論の思想家がいて、厳復と福沢の思想は対比するという形で書かれている論文なんです。

東谷

とはいえ、そうした福沢への肯定的評価は例外で、実際には、安川さんが喧伝する間違った像が、アジアに流されているというのは残念ですね。

平山

安川さんなんかは、追いつめられてるんじゃないかと思うんですね。彼の場合、60 年代にデビューして、進歩派でやってきたんだけれど、日本国内ではもう先がない。だから十何億人の味方のほうへ向けて書いているということかもしれません。去年の 11 月くらいに『福沢諭吉のアジア認識』の中国語版が出て、北京で歓待されて凄く喜んでいたそうです。

東谷

え、そんなものが出た!

平山

そんなものと言っても、彼らの政治的利用にとっては非常に有効なんです。ネタ本にするわけだから。中文導報という日本で出されている在日中国人のための新聞がありまして、そのなかで私の本が批判されています(本年 5 月 12 日付)。私の本なんかわざわざ攻撃する必要もないのにと思うんだけれど、広く行き渡っている「福沢は悪い奴だ」というイメージを、彼らは変えたくないんですよ。簡単に言ってしまうと、日本の近代全体が気に食わないからなんです。

東谷

最後に、福沢諭吉研究はこれからどうなっていくのかを伺いたいのですが。御本の最後に、丸山眞男は、本当は石河の策謀を見抜いていたのじゃないかと、少し書いておられますね。

平山

それは、丸山さんが、本物であると確認が取れたもの以外に言及しようとはしないからです。おそらく彼は早くから気づいていたのでしょう。

丸山さんが最初に読んだのは大正版全集だった。それには署名著作と 220 編余の時事新報の論説が入っていて、無署名論説収録の根拠も示されている。学生時代に刊行された昭和版続全集のほうには、その編纂方針の中に、「論説の主な執筆者は石河自身で、時事新報の全体的な論調にそって収録した」という断り書きがある。だから現行版のように、最初から最後まで全部が福沢の書いたものという印象はない。それで、丸山さんが扱うのは大正版所収の論説だけなのです。一方服部さんは、満州事変後に出た、石河による伝記と続全集を一生懸命に読んで、そこから攻撃材料を探したんです。

東谷

なんという無駄というか……。

平山

服部さんだって気が付いていた可能性はあるんですよ。それを言わないのは、戦略的なものでしょう。しかも慶応はそれを否定しないわけですから。今だって正式には否定できないんです。なぜかというと、慶応が石河幹明に伝記編纂を依頼した、と書いてあるからです。欽定版みたいなものなんですね。箔が付いてるわけです(笑)。だからといって、石河が言うから正しいという根拠は何もない。それでもなおかつ全集を弁護しようとしたときに、岩波書店 OB の竹田行之さんという方が、私の本の批判をしています。私は相当ひどく、売名行為だと言われています(「ジャーナリスト福沢諭吉」『交詢雑誌』第 482 号、2005 年)。

東谷

売名行為? ひどいですね。

平山

竹田さんは福沢諭吉協会の有力者でもあるんです。福沢協会の前身は、現行版全集を出版するために作られた。岩波書店の一員として若き日にその編纂にも従事されたこの方は、丸山眞男のように素晴らしい研究者もいるけれど、私のように石ころのような研究者もいる、と言ってるんです。ですから、間違った福沢像を覆してくれて慶応は喜んでいるでしょう、と皆さんおっしゃるわけですが、全然そうじゃないんです。そんなに簡単なものじゃないんですね。カトリシズムのようなものなんです(笑)。新約聖書のなかでも、イエスの言葉はごく一部ですよと言いたいのだけれども、パウロの系譜というのがあって、それを守るしかない現実がある。

東谷

アカデミズムのシステムがそれまでの説と違うと黙殺しようとする。

平山

そこで、これからの福沢研究は、まずその姿勢自体を問い直すところから始めなければならないと思うのです。とはいえ、私にできることといえば、無署名論説の執筆者を一つ一つ確定する、という地道な作業だけです。私自身の恣意性について疑念が晴れないせいか、私の本は福沢協会の『福沢諭吉年鑑』で取り上げてもらえないし、『史学雑誌』でも紹介されてはおりません。ただ、黙殺については、恣意性だけが問題なのではないでしょう。まず慶応主流のほうとしては、私の説には触れたくない。これは現在の全集を編纂した富田正文さんを批判することになってしまうからなんです。富田さんは慶応の職員関係の重鎮だった方で、事務方トップの塾監局参事になられた。慶応大学出版会の前身である慶応通信の社長もされたことがあって、出版会編集の OB 会誌『三田評論』に紹介文を載せていただけなかったのは、そのせいなのかもしれません。さらに、慶応内での福沢研究の拠点である慶応義塾福沢研究センターは、石河が開設した福沢先生伝記編纂所の後身で、場所も同じ赤レンガの旧図書館にあります。

もう一方の福沢否定派も、当然私の言っていることは認めたくない。こちらは要するに福沢を侵略主義者にしておきたい人たちですね。

東谷

でも、そのために一般向けに書かれた福沢像というのは、完全に歪んでいたわけじゃないですか。

平山

どんな人間でも、思い込んでしまっては説得が不可能ですね。どちらかが洗脳されているという感じになっちゃいます。私は彼らこそ洗脳されていると思うんですけど(笑)。ひょっとして、本当のことを知っているとすると、もっと複雑ですよね。とにかく日本近代を……。

東谷

ともかくも貶めたい。

平山

それが大前提にあるのならば、すべて謎は解けます。彼らは全部わかっていて、でも現在の日本に至るまで、日本の近代全部が駄目だということを言いたいがために、どんなものも否定するんだったら、それはぜんぶ理解できます。でも、そんなありかたは間違っていると思いますね。