大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定

2015-03-12

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静岡県立大学国際関係学部『国際関係・比較文化研究』第 3 巻第 1 号(2004 年 09 月)所収の平山洋「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」を転載します。

なお、本論文中の一覧表は、『福澤諭吉』の巻末(11 頁以降)に再掲されていますが、起筆者の推定も含めて両者に変更はありません。 ただ、『福澤諭吉』所収の再掲には、推定起筆者に関し、より詳しい情報が含まれています。具体的には、演説が福澤の署名入りで発表されているため、その旨が注記してあります。

Ⅰ 解説篇

1  福澤諭吉の『時事新報』論説を研究する者は少ない

現在の『福澤諭吉全集』全 21 巻のうち計 9 巻を占める「時事新報論集」が全体として研究の対象とされたことは、これまでまれであったといってよい。その理由ははっきりしている。明治 15(1882)年 3 月に創刊された『時事新報』の社説として掲載された「東洋の政略果たして如何せん」(1882-12-07/12(*1))や「東洋の波蘭」(1884-10-15,16)、また「脱亜論」(1885-03-16)などの諸編はそれまでの福澤の思想を無為にしかねない侵略賛美の論説として悪名が高いうえに、何より全部で 1500 編以上という膨大な数が研究する意欲を萎えさせてしまうのだ。

その上『時事新報』を初出とするものの掲載後に単行本として刊行された『日本婦人論後編』(1885-08)や『福翁百話』(1897-07)、また『福翁自伝』(1899-06)などの重要な著作は、『全集』では「時事新報論集」以外の巻に収められているのであるから、残された論説はもっぱら福澤批判者が、彼をおとしめるための材料を探すために読んできたといってよい。実際そこには、「脱亜論」ほどには有名ではないにせよ、中国人を「チャンチャン」呼ばわりした多くの「漫言」(*2)やら、日清戦争後に植民地となった台湾で蜂起した現地人を皆殺しにせよ、と主張する「台湾の騒動」(1896-01-08)などの論説が含まれている。

加えて「時事新報論集」には、『全集』の他の諸巻にはない深刻な問題がある。それは「論集」所収の諸論説が本当に福澤の手になるものであったのかは実のところ分からない、ということである。『全集』第 7 巻までの諸編は福澤自らが自作と認めた著作群である。しかし第 8 ~ 16 巻所収の「時事新報論集」は、演説の再録が署名入りである他は、ほぼ全ての論説が無署名で発表されているのである。それらは現行版の『全集』のもとになった『福澤全集』(1925 ~ 26 ・大正版)と『続福澤全集』(1933 ~ 34 ・昭和版)の編纂者である弟子の石河幹明が福澤のものとして選んだ論説群にすぎない。

そこで本論は福澤の『時事新報』論説を研究するための準備作業として、大正版『全集』の「時事論集」に収められている論説を取り上げたい。先ずⅠ解説篇では『時事新報』論説全般についての解説を行う。続いてⅡ資料篇では、大正版「時事論集」掲載論説をリストアップしたうえ、それらの実際の起筆者を推定する。

2  『時事新報』論説とは何か

新聞『時事新報』とは、福澤が自らの意見を表明する場として創刊した新聞である。編集部も当初は三田の慶應義塾内にあり、社員も皆弟子たちであったから、初期の同紙が福澤の強い影響を受けていたことは確かである。

創刊号の「時事新報」欄は「本紙発兌之趣旨」(1882-03-01)と題されていて、

「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福澤小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば、大方の君子も此新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜はることもあらん」

と「我輩」がその掲載論説の性格を説明している。つまり日々の論説は基本的に記者が執筆し、時には福澤立案の論説も掲載されるということである。『時事新報』の社説は常に「我輩」が問題を提起する形をとっているため、『福澤諭吉全集』の「論集」に現れるとそれが福澤自身のことと誤解されやすいのだが、この「我輩」とは、形式的にはその時々の主筆(創刊時は中上川彦次郎)の一人称である。

さて、社説として毎日掲載される論説がどのように成されていたかについては、『福翁自伝』が口述されていた 1898 年頃のこととして、

「紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々加筆するくらいにしています」(*3)

とある。このように晩年については自ら筆を執ることは少なくなっていたようであるが、それ以前はどうであったのであろうか。

1885 年 04 月から編集に加わり終生福澤の近くにいた石河幹明は、

「私は明治十八(1885)年時事新報社に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事してゐたが、同二十(1887)年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになつた。当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるゝこともあつたが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた」(*4)

と述べている。要するに福澤の作とされる論説も多くは弟子の起筆にかかるものであったのである。

福澤の書簡から確かめられた社説記者は、

  • 渡辺治(編集部在籍 1882-04/1889-01)
  • 高橋義雄(1882-04/1887-07)
  • 石河幹明(1885-04/1922-05)
  • 菊池武徳(1887-04/1894-12)
  • 北川礼弼(1894-04 頃/1899-?)
  • 堀江帰一(1897-03/1899-07)

らであった。これらの人々は社説を代作した当時の若手記者たちであって、その他に正式な主筆である中上川彦次郎(1882-03/1887-04)や、社説記者の指導役であった波多野承五郎(1882-03/1884-07)、さらにアメリカから草稿を送ってきた日原昌造らの論説が「時事新報」欄に掲載されることもあった。

同紙は福澤存命中に約 6000 号発行されているため、「時事新報論集」に収められた約 1500 編の論説は、全体のおおよそ 4 分の 1 である。福澤起筆のものがかくも多量にあるとは考えにくいので、彼がどの程度まで関与したものまで採られているかが問題となってこよう。

3  『全集』編纂者石河幹明

福澤の存命中から現在まで『福澤全集』と称される企画は都合 4 回立てられている。 このうち通常明治版と呼ばれている時事新報社刊の 5 巻本は福澤自身の発案にもとづくもので、その時までに刊行されていた福澤名義の著作が集められている。現行版では第 6 巻所収の『実業論』(1893-05)までに相当している。それ以後の出版物や『時事新報』の無署名論説、さらに書簡は収録されていない。

この明治版は約 4 半世紀の間命脈を保ったが、重要と思われる著作のいくつかが抜けている不便さがあったため、1925 年になって新たに国民図書刊行の大正版 10 巻の企画が持ち上がった。その編纂には 3 年前まで同紙の主筆を務めていた石河幹明が携わったのだが、そこには未載単行本ばかりでなく、第 8 巻から第 10 巻までの 3 巻を「時事論集」として社説等と漫言が収められることになった。

この大正版の「時事論集例言」で石河は、

「福澤先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約五千篇ある可し。編者曾て社説起草の参考に供する為め其主要なるものを抄写して之を坐右に置けり。今回時事新報社が一万五千号の記念として福澤全集を発刊するに際し之を「時事論集」と名けて其中に収録することゝせり」(*5)

と述べている。

その一方石河は大正版の企画と前後して慶應義塾から福澤諭吉の伝記執筆を依頼されている。林毅陸塾長による『福澤諭吉伝』の「序」には、

「大正十二(1923)年六月、慶應義塾評議員会は、義塾の事業として福澤先生の伝記を編纂するに決し、之を石河幹明氏に嘱託することとし、其の快諾を得た。次で同年九月下旬より、義塾図書館内に編纂事務所が設けられ、それより七年有余を経たる昭和六(1931)年三月、伝記の完成を告げ、今や漸く其の出版を見るに到つたのである」(*6)

とある。

すなわち石河は伝記の執筆依頼を大正版編纂に先だって受けており、在学中であった富田正文を助手として伝記の資料を収集するかたわら、この全集を出版したのであった。そのためこの大正版は杜撰なものとならざるをえず、その「端書」には、

「先生の遺文は此他にも甚だ多く、時事新報所載の分のみにても尚ほ数巻を成すに足るものがある。是等は更に編纂して出版することになつて居る」(*7)

とある。また「時事論集」についても石河自ら「全集発刊の事急に決したるを以て差向き編者の曾て抄写し置けるものを其儘収録したる次第なり」(*8)と弁解をしている。大正版発刊の時点で、『続全集』として未収録の論説や書簡集を編むことは既定のことであったのである。

1931 年の『福澤諭吉伝』全 4 巻の完結後、石河は引き続き懸案となっていた岩波書店刊行の『続全集』全 7 巻(昭和版)を編纂することとなった。その「序」で林塾長は、

「明治十五(1882)年三月以後の時事新報社説数千編の中より、先生執筆のものを撰り抜くことは、多年先生に親灸し且つ先生と文筆を共にしたる石河氏にして、始めて其の的確を期し得たのである。本全集の完成は実際に石河氏あるに依りて能く実現し得られたものである。予は之を特筆せざるを得ないのである」(*9)

と記している。

先にも触れたように、現在端的に『全集』と呼ばれているのは大正版『全集』と昭和版『続全集』を併せたうえ、さらにその後に発見された論説や書簡を収蔵した富田正文・土橋俊一編の現行版『福澤諭吉全集』全 21 巻である。この『全集』は石河編纂の 2 つの版をそのまま引き継いでいて、「時事新報論集」についても所収の論説を新たに判定しなおすことはせずに新発見のものを 83 編増補したにとどめている。

とはいえ 1860 年から 1899 年までの 39 年間に書かれた署名入り著作が 6 巻半(第 7 巻の後半は草稿)であるのに対し、1882 年から 1901 年までの福澤の生涯最後の 19 年間に発表された無署名論説がその約 1 ・ 4 倍の 9 巻あるというのは、奇妙なことではある。それは無署名論説が署名著作の約 2 ・ 8 倍のペースで量産されていたことを意味しているからである。合理的な解釈としては、福澤の出したアイディアを社説記者が完璧に文字化したゆえに、それらも『全集』に収められる資格がある、ということになろう。

4  石河による選別の確実性について

現行版『全集』の「時事新報論集」はおおむね 2 つの層で構成されている。大正版に収録されている 224 編(*10)と昭和版に収められた 1246 編である。

すでに引用したように、石河は大正版「時事論集」を編集するにあたって「編者曾て社説起草の参考に供する為め其主要なるものを抄写して之を坐右に置けり」と書いている。つまり福澤筆と見なされていた社説を「抄写」したということであるが、すでに印刷されている社説を肉筆で写すというのは奇妙なことであるので、福澤のものとみなしうる社説のスクラップブックがあった、という意味であろう。

その大正版「時事論集」の信憑性は、福澤存命中にまでさかのぼる資料に基づいているため昭和版よりも純度が高いであろうという推測を述べる以外はない。とはいえそのスクラップブック(?)は石河自身が作成したのであるから、福澤真筆の論説だけが収録されているという保証もない。あくまで石河が福澤のものと判断した論説が入れられているにすぎないのである。

いっぽう昭和版「時事論集」となると、福澤が実際に書いたもののほうがまれになっている。昭和版第 5 巻の「附記」で、論説の載録を終えるにあたり、石河自ら

「(明治)二十四五(1891 、 2)年頃からは自ら草せらるゝ重要なる説の他は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といつてもよいほどであつた」(*11)

と白状している。つまり現行版『全集』における「時事新報論集」の当該部分、第 13 巻から第 16 巻までの 4 巻に収められた論説の起筆者は主に石河であったということである。

これまで『時事新報』論説に触れることのあった読者たちは、その中に『学問のすゝめ』(1872-02/1876-11)や『文明論之概略』(1875-08)とはなはだしく異なった調子のものがあることに違和感を覚えながら、これは福澤のものではないのではないか、とはなかなか言い出しにくかった。

それというのも富田正文が執筆した現行版『全集』第 8 巻の「後記」には、

「「時事新報」の社説は一切無署名で、他の社説記者の起草に係るものでもすべて福澤の綿密な加筆刪正を経て発表されたもの」(*12)

である、とあって、たとえ文体に福澤らしさが希薄なものが含まれているとしても添削洩れとするならば納得がいくし、なにしろ権威ある石河幹明が選び、その後継者である富田が詳細な解説をつけているのである。少なくとも立案には福澤が関わっているのであろうから、文章に少々妙なところがあっても全体としては彼の思想の枠のうちにあるのだろう、と解釈してきたわけである。

しかしそうした希望的観測の根拠はといえば、『福澤諭吉全集』編纂の労を以て 1965 年の学士院賞を受賞した富田正文が、石河幹明の証言することだから正しい、と述べている事実に極まるように思われる。

実際のところ石河は数多くの無署名論説から福澤が書いたものを選び出す選択眼を持っていたかも知れないし、持っていなかったかも知れない。富田が石河の助手になった時点で福澤存命中に『時事新報』に在職していた人々はほとんど鬼籍に入ってしまっていたのだから、そのことを客観的に立証する手だてはない。また、選択眼があったとしても、その能力を誠実に行使して論説を選び出したかどうかは分からないのである。

5  井田進也の判別法

ここで先に進む前に、起筆者を基準として『時事新報』論説の分類を試みたい。

石河の証言を信じるならば、大正版『福澤全集』と昭和版『続福沢全集』、さらに現行版『福澤諭吉全集』に含まれる『時事新報』論説は、①福沢が全面的に執筆したものと、②福沢の立案を社説記者が起稿してさらに福沢が添削したもの、の 2 通りがあることになる。さらに『全集』に収められることのなかった『時事新報』社説全般についていえば、加えて、③記者が立案執筆したものを福沢が添削した論説と、④全面的に記者が執筆して福沢は関与していない論説、の 2 通りがあるはずである。

すなわち、福沢が関与した度合いを基準にして無署名の社説を分類してみるならば、福沢存命時の『時事新報』論説は、

福沢が全てを執筆した「福沢真筆」
福沢の立案を社説記者が下書きし、さらに福沢の検閲を経た「福沢立案記者起稿」
記者の持ち込み原稿を福沢が添削を施した「記者立案福沢添削」
全面的に記者が執筆して福沢は全く関与していない「記者執筆」

のいずれかのカテゴリーに属することになる。

前にも触れたように、カテゴリーⅠの福沢真筆だけで約 1500 編というのではいかにも多すぎるが、Ⅰ以外にⅡのものが多数含まれているということでようやく説明がつくわけである。

とはいえ問題はカテゴリーⅠに加えてⅡに属するものが確実に採録されているかどうか、である。福沢がアイディアを出して社説記者が下書きを担当しているカテゴリーⅡと、記者の持ち込み原稿に福沢が加筆しただけのカテゴリーⅢの論説には外見上の区別はない。そこでもしカテゴリーⅢやⅣのものをⅠやⅡの論説と見誤ってしまうと、『全集』に福沢とは異なる社説記者の思想が混入することになるのである。

これまで不可能と考えられてきた『時事新報』論説の実際の起筆者を推定する試みを提唱したのは、比較文学者の井田進也である。井田はそれまで従事してきた中江兆民の無署名論説の判定での方法を福沢のものにも応用し、井田メソッドとでも言うべきものを確立した。関係論文は光芒社刊『歴史とテクストー西鶴から諭吉まで』(2001-12)で読むことができる。

井田メソッドとはおおよそ以下のような方法である。まず(1)『時事新報』に無署名論説を書いた可能性のある社説記者の署名入りの文章を集め、その人ならではの語彙や表現、さらに文体の特徴をよりだす。ついで(2)無署名の社説と特徴を比較することでもともとの起筆者を推定する。さらに(3)福沢の書きぐせと一致する部分を探して福沢の添削の程度をみる。最後に(4)福沢の関与の度合いに応じて A から E までの五段階評価をおこなう、というものである。

判定にあたり井田は福沢の語彙データや特徴的な文体や言い回しについての指摘をおこなっている。例えば、福沢と石河に関する指摘としては、福沢が

  • 「分て」
  • 「挙て」
  • 「為て」
  • 「最早」
  • 「否」

など送りがな短縮形を用いることが多いのに対して、石河は

  • 「分れて」
  • 「挙げて」
  • 「為りて」
  • 「最早や」
  • 「否な」

などと送りがなを付して表記し、また福沢は否定を「非ず」とするのに対して石河は「ある可らず」と書くことが多い。理由を示す「よりて」の漢字表記は、福沢が「由て」なのに、石河が「拠りて」を用いる、などである。

こうした井田の判定基準をもとにして、試みに福沢真筆とはっきり分かっている論説と、純粋に石河が書いた論説とを比較したところ、起筆者を判定するのに井田メソッドは極めて有効であることが判明した。

とはいえ、論者の見るところ、語彙と文体による井田の方法で高い確度をもつのは、カテゴリーⅠとそれ以外の区別だけである。福沢と社説記者との合作は多数あると想像できるが、それらを福沢の思想と見なすか見なさないかについて判断に迷うところではある。いったい C ・ D 判定のものは福沢の思想なのであろうか。彼が筆を入れて掲載を認めたのだからそうである、という立場もあり得ようが、少々自分の意にそわぬものでも若い社説記者を励ますために掲載を許可することもあったであろう。

さらに福沢執筆の分量だけを基準にして C ・ D の判定をくだしたとしても、その論説が内容からいってどの程度福沢を反映しているのかは分からないということもある。研究者の竹田行之も指摘(*13)するように、たとえ D 判定でも、福沢によるそもそもの立案に近いからこそ加筆が少ないのかもしれないし、本当に優秀な社説記者ならば簡単なアイディアを伝授されただけでも、福沢がまさに言いたかったことを完璧に文章化できたかもしれない。

そうだとすると A 判定が福沢の思想であることは確実でも、E 判定は福沢ではないと断言することはできないのである。すなわち福沢が全く関与していない E 判定の社説ばかりではなく、記者が優秀なるがゆえの名誉の E ともいうべき文章があるということになる。

このように、『時事新報』論説の分類というのは考えれば考えるほど截然とはできなくなってくる。この点を考慮しつつ、次に、比較的純度が高いと推定できる大正版「時事論集」収録論説のリストと、個々の論説の起筆者を推定したい。

大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説・演説一覧

凡例

大正版表題・掲載年月日・大正版所在・現行版表題(これは発表時の表題で大正版と同一の場合は省略)・現行版所在・推定起筆者の順で表示する。

大正版に未収録となっている論説・演説集『修業立志編』(*14)(1898-04)に掲載されているものは、現行版所在の後に表題(大正版や現行版と同一の場合は省略)を示し、所在を(修三 15 頁)などと表示する。これは『修業立志編』の 3 番目の論説で 15 頁から掲載されているという意味である。 所在を(修三->015 頁)のように表示します。この表記で、「『修業立志編』の 3 番目の論説であり、15 頁から掲載されている」ことを示すことにします。

自筆草稿が慶應義塾福澤研究センターに所蔵されている場合は、その旨注記している。

大正版には石河が起筆したと明記されている論説が 14 編あるが、それも注記してある。

起筆者の推定は暫定的なもので、今後変更される可能性もある。福澤以外とした場合には脚注に根拠を示している場合がある。

表題掲載年月日所在推定起草者
番外國会論(郵便報知新聞社説)1879-07-29/08-14大⑧->374 頁福澤
現⑤->063 頁
1時事新報發兌之趣旨1882-03-01大⑧->001 頁中上川(*15)
本紙發兌之趣旨現⑧->005 頁
2朝鮮の交際を論ず1882-03-11大⑧->411 頁福澤 
現⑧->028 頁
3僧侶論(演説)1882-03-13大⑨->467 頁福澤
現⑧->031 頁
4通貨論1882-03-13/16大⑨->001 頁福澤
現⑧->034 頁
5物理學の要用1882-03-22大⑩->001 頁福澤
物理學之要用現⑧->049 頁
6経世の學亦講究す可し1882-03-23大⑨->261 頁福澤
現⑧->052 頁
7遺傳之能力1882-03-25,27大⑩->005 頁福澤
現⑧->056 頁
8故社員の一言今尚ほ精神(寄書)1882-03-27大⑩->365 頁福澤
故社員の一言今尚精神現⑧->062 頁
9圧制も亦愉快なる哉1882-03-28大⑧->415 頁福澤
現⑧->064 頁
10藩閥寡人政府論1882-05-17/06-17大⑧->008 頁福澤
現⑧->111 頁
11藩閥寡人政府論に就て1882-06-13大⑧->069 頁福澤
時事新報發行解停現⑧->160 頁
12時勢問答1882-06-23/07-08大⑧->073 頁福澤
現⑧->180 頁
13局外窺見1882-07-19/29大⑧->098 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑧->216 頁
14東洋の政略果して如何1882-12-07/12大⑧->418 頁波多野(*16) (福澤の自筆草稿あり)
東洋の政略果して如何せん現⑧->427 頁
15急変論1882-12-18,19大⑨->266 頁福澤
現⑧->458 頁
16徳育余論1882-12-20,21大⑨->273 頁福澤
現⑧->465 頁
17牛場君朝鮮に行く1883-01-11/13大⑧->439 頁福澤
牛場卓造君朝鮮に行く現⑧->497 頁
18米國我馬関償金を返す1883-01-25大⑧->451 頁福澤
現⑧->519 頁
19売薬論1883-01-26/27大⑩->012 頁福澤
現⑧->523 頁
20通俗売薬論1883-01-31大⑩->020 頁福澤
売薬論現⑧->530 頁
21開國論1883-02-14/03-24大⑧->455 頁福澤
現⑧->541 頁
22正直は藝に非ず1883-02-27大⑩->061 頁福澤
正直は藝にあらず現⑧->558 頁
23時事新報の一周年1883-03-01大⑩->371 頁中上川
時事新報の一周年日現⑧->561 頁
24文明進退論1883-04-16/21大⑧->125 頁以上福澤(自筆草稿あり)
西洋諸国の文明は其実物に就て之を見よ1883-04-16現⑧->596 頁
文明開化の進歩は次第に其速力を増す1883-04-17現⑧->599 頁
人事は有形の文明に由て左右す可し1883-04-19現⑧->602 頁
文明の利器果して廃す可きや1883-04-20現⑧->605 頁
政治の熱心を誘導する其法なきに非ず1883-04-21現⑧->608 頁
25攻防論1883-04-30/05-19大⑧->141 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑧->622 頁
26道徳の議論は軽躁に判断す可らず1883-05-10大⑨->349 頁福澤
現⑧->652 頁
27儒教主義の成跡甚だ恐る可し1883-05-26大⑨->280 頁福澤
現⑧->662 頁
28社会の秩序は紊乱の中に却て燦然たるものを見る可し1883-05-31大⑩->159 頁福澤
現⑧->666 頁
29壮年輩の失敗(演説)1883-07-05大⑨->537 頁福澤(渡辺筆記)
青年輩の失敗現⑨->082 頁
30通俗医術論1883-09-10,11大⑩->026 頁福澤
現⑨->166 頁
31士族の授産は養蚕製糸を第一とす1883-09-13/17大⑨->014 頁福澤
現⑨->172 頁
32外交論1883-09-29/10-04大⑧->472 頁渡辺(*17)(福澤の自筆草稿あり)
現⑨->192 頁
33婦女孝行論1883-10-08大⑨->353 頁中上川
現⑨->207 頁
34思想精密、鄙事多能1883-10-13大⑩->065 頁渡辺
思想精密にして鄙事に多能なる可し現⑨->210 頁
35婦女孝行余論1883-10-18大⑨->357 頁中上川
現⑨->219 頁
36西洋人と日本國1883-10-30/31大⑧->487 頁高橋
日本の用終れり1883-10-30現⑨->237 頁
西洋人の日本を疎外するは内外両因あり1883-10-31現⑨->241 頁
37西洋人と日本國に就て1883-11-07大⑧->495 頁福澤
時事新報解停現⑨->244 頁
38儒教主義1883-11-19/21大⑨->361 頁中上川
現⑨->268 頁
39徳教之説1883-11-22/29大⑨->373 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑨->277 頁
40政事と教育1883-12-07,08大⑨->284 頁福澤 (自筆草稿あり)
政事と教育と分離す可し現⑨->308 頁
41学生処世の方向(演説)83-12-18,19大⑨->542 頁福澤
現⑨->328 頁
42衛生上の注意(演説)1884-01-28大⑩->371 頁福澤
衛生上の注意現⑨->370 頁
43内地雑居の喜憂1884-02-20,21大⑧->502 頁中上川
現⑨->401 頁
44血統論(演説)1884-03-26大⑩->033 頁福澤
現⑨->445 頁
45経世に高尚論は無用なり1884-04-24大⑧->164 頁福澤
現⑨->469 頁
46開鎖論1884-05-19/22大⑧->510 頁渡辺
現⑨->489 頁
47清朝の秦檜胡澹庵1884-09-08大⑧->528 頁渡辺
現⑩->033 頁
48宗旨宣布の方便1884-10-02,03大⑨->470 頁福澤
現⑩->052 頁
49貧富論1884-10-24/30大⑩->162 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑩->080 頁
50通俗道徳論1884-12-01/06大⑨->395 頁福澤
現⑩->113 頁
51前途春如海1885-01-02大⑧->532 頁中上川
現⑩->176 頁
52國交際の主義は修身論に異なり1885-03-09大⑧->536 頁福澤
現⑩->234 頁
53兵備拡張論の根拠1885-03-26,27大⑧->613 頁福澤
現⑩->242 頁
54杉田茂卿先生の祭典に付(演説)1885-04-07大⑩->377 頁福澤
明治十八年四月四日梅里 杉田茂卿先生の祭典に付演説現⑩->250 頁
55銭の國たる可し1885-04-29/05-02大⑨->029 頁福澤
西洋の文明開化は銭に在り1885-04-29現⑩->269 頁
日本は尚未だ銭の國に非ず1885-05-01現⑩->272 頁
日本をして銭の國たらしむるに法あり1885-05-02現⑩->275 頁
56改革と滅亡と択む所を知れ1885-06-01,02大⑨->478 頁高橋
現⑩->289 頁
57老壮論1885-06-19,20大⑩->189 頁渡辺
現⑩->299 頁
58経世上に宗教の功徳を論じて併せて布教法の意見を述ぶ(演説)1885-07-21大⑨->487 頁福澤
現⑩->326 頁
59慶應義塾暑中休業に付き(演説)1885-07-31大⑨->548 頁福澤
現⑩->353 頁
60立身論1885-08-01/06大⑩->381 頁福澤
現⑩->357 頁
61コレラの用心1885-09-05大⑩->037 頁福澤
現⑩->415 頁
62教法の盛衰は世の不景気に係はる筈なし1885-09-17,18大⑨->494 頁福澤
現⑩->427 頁
63英吉利法律学校開校式(演説)1885-09-22大⑩->401 頁福澤
現⑩->434 頁
64拝借論1885-09-25,26大⑨->040 頁福澤
現⑩->439 頁
65封建の時代に取る可きものあり1885-11-17大⑨->435 頁福澤
現⑩->461 頁
66錦衣何ぞ必ずしも故郷に限らん85-11-18,19大⑩->068 頁福澤
現⑩->464 頁
67外債論1885-12-03/08大⑨->047 頁福澤
現⑩->470 頁
68日本工商の前途如何1886-01-08/12大⑨->063 頁福澤
現⑩->523 頁
69節倹論1886-01-22/26大⑨->078 頁福澤
現⑩->538 頁
70学生諸氏に告ぐ(演説)1886-02-02大⑨->554 頁福澤
慶應義塾学生諸氏に告ぐ現⑩->549 頁
学問の要は実学にあり修十一->071 頁
71余が洋学に志したる由縁(演説)1886-02-18大⑩->076 頁福澤
成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ現⑩->554 頁
成学即ち実業家の説修十三->086 頁
72國役は國民平等に負担す可し1886-02-20/23大⑧->620 頁福澤
現⑩->557 頁
73文明を買ふには銭を要す1886-03-02大⑨->092 頁福澤
現⑩->571 頁
74徳行論(演説)1886-03-04大⑨->560 頁福澤
現⑩->577 頁
修二十四->155 頁
75男女交際余論1886-06-23/26大⑩->196 頁福澤
現⑪->045 頁
76金玉均氏1886-08-11大⑧->540 頁福澤
現⑪->079 頁
77小笠原島の金玉均氏1886-08-25大⑧->544 頁福澤
現⑪->088 頁
78世界は甚だ広し1886-09-15大⑩->080 頁福澤
世界甚だ広し独立の士人不平を鳴らす勿れ現⑪->102 頁
79学者と町人1886-09-29/10-01大⑩->089 頁福澤
学問の所得を活用するは何れの地位に於てす可きや1886-09-29現⑪->112 頁
今の学者は商売に適するものなり1886-09-30現⑪->115 頁
素町人の地位取て代はる可し1886-10-01現⑪->118 頁
80婚姻早晩論1886-12-01,02大⑩->196 頁福澤
現⑪->153 頁
81歳末論1886-12-31大⑩->408 頁福澤
歳末の一言学者後進生に呈す現⑪->166 頁
82社会の形勢学者の方向(演説)1887-01-15/24大⑩->218 頁福澤
社会の形勢学者の方向、慶應義塾学生に告ぐ現⑪->183 頁
83交詢社の特色(演説)1887-04-18大⑩->250 頁福澤
交詢社の特色現⑪->240 頁
84日本人と西洋人と内外表裏の別1887-04-20/23大⑩->255 頁福澤
現⑪->243 頁
85富貴浮雲の如し(演説)1887-05-04大⑨->563 頁福澤
明治二十年四月二十三日慶應義塾演説館にて学生諸氏に告ぐ現⑪->254 頁
恃むべきは唯自家の才力あるのみ修十->065 頁
86流言亦以て道徳城を堅くするに足る可し1887-05-27大⑨->438 頁渡辺
現⑪->264 頁
87節倹と奢侈1887-06-18/21大⑨->095 頁高橋
現⑪->275 頁
88教育の経済1887-07-14/16大⑨->299 頁福澤
現⑪->305 頁
89政略1887-08-15/17大⑧->168 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑪->332 頁
90私権論1887-10-06/12大⑧->178 頁福澤
現⑪->375 頁
91御用商人1887-10-28大⑨->107 頁福澤
現⑪->392 頁
92芝居論1887-11-03大⑩->404 頁高橋
現⑪->395 頁
93経済小言1887-12-05/12-09大⑨->110 頁福澤
現⑪->402 頁
94施政邇言1888-01-05/09大⑧->197 頁石河
現⑪->423 頁
95徳教の本は私徳に在り1888-02-09/23大⑨->442 頁福澤
徳教の主義は各その独立に任す可し1888-02-09現⑪->436 頁
徳風の衰えたるは 1 時の変相たるに過ぎず1888-02-10現⑪->439 頁
徳教の要は其実施に在り1888-02-11現⑪->441 頁
徳風を正に帰せしむるの法は其実例を示すに在り1888-02-13現⑪->444 頁
修二十七->172 頁
私徳固くして楽事多し1888-02-23現⑪->447 頁
修二十五->162 頁
96西洋学と古学流(演説)1888-03-17大⑨->567 頁福澤
慶應義塾学生に告ぐ現⑪->461 頁
物理学の必要修十五->101 頁
97智慧の貸借(演説)1888-04-22大⑩->100 頁福澤
明治二十一年四月十五日交詢社会堂に於ける交詢社第九回大会演説現⑲->695 頁
98博士会議1888-05-17大⑨->312 頁福澤
現⑪->485 頁
99公共の教育1888-05-24/26大⑨->316 頁福澤
現⑪->488 頁
100一身の広告(演説)1888-06-05大⑨->570 頁福澤
六月二日府下三田慶應義塾演説、慶應義塾学生に告ぐ現⑪->496 頁
先づ鄙事に多能なるべし修十二->081 頁
101医説1888-06-12大⑩->042 頁福澤
現⑪->502 頁
102金利の説1888-07-19,20大⑨->125 頁福澤
現⑪->523 頁
103徳教は目より入りて耳より入らず1889-01-30大⑨->459 頁福澤
現⑫->009 頁
修二十六->167 頁
104一國の徳風は一身より起る1889-01-30大⑨->462 頁福澤
現⑫->011 頁
105日本國会縁起1889-02-12/22大⑧->212 頁福澤
現⑫->021 頁
106ドクトル・セメンズを弔す(演説)1889-03-01大⑩->410 頁福澤
現⑫->054 頁
107貧富痴愚の説1889-03-06,07大⑨->327 頁福澤
現⑫->062 頁
108市川団十郎1889-03-30大⑨->464 頁福澤
現⑫->084 頁
109慶應義塾学生に告ぐ(演説)1889-04-22,23大⑨->574 頁福澤
現⑫->097 頁
110知識交換(演説)1889-04-24大⑨->102 頁福澤
明治二十二年四月二十一日交詢社大会に於て演説現⑫->102 頁
111國会準備の実手段1889-04-26/05-06大⑧->246 頁福澤
現⑫->104 頁
112洋学の命脈(演説)1889-05-07大⑩->415 頁福澤
一昨五日植半楼に開きし慶應義塾旧友会の席上に於ける福澤先生演説の筆記現⑫->130 頁
慶應義塾の懐旧談修六->031 頁
113宗教雑話(演説)1889-05-11大⑨->502 頁福澤
宗旨雑話現⑫->134 頁
114疑心と惑溺1889-05-14大⑩->268 頁福澤
疑心と惑溺と現⑫->137 頁
115華族の教育(演説)1889-05-19大⑨->333 頁福澤
現⑫->139 頁
116日本國の功労1889-05-23大⑩->420 頁福澤
現⑫->145 頁
117智と情と1889-06-15大⑩->272 頁福澤
現⑫->161 頁
118市参事会員辞職始末1889-06-24大⑩->423 頁菊池
福澤先生名誉職市参事会員辞職の始末現⑫->165 頁
119官尊民卑売言葉に買言葉1889-06-26大⑧->276 頁福澤
現⑫->171 頁
120寺門をして其本色に還らしむ可し1889-07-05,06大⑨->505 頁福澤
現⑫->176 頁
121漫に大望を抱く勿れ1889-07-09大⑩->105 頁福澤
現⑫->185 頁
122富豪維持の説1889-07-10/15大⑩->109 頁福澤
現⑫->188 頁
123文明教育論1889-08-05大⑨->338 頁福澤
現⑫->218 頁
修十九->120 頁
124東京三百年祭1889-08-23大⑩->430 頁福澤
現⑫->230 頁
125条約改正始末1889-12-02/07大⑧->547 頁福澤
現⑫->297 頁
126運の説1890-01-02大⑩->125 頁福澤
現⑫->329 頁
127少壮生の始末を如何せん1890-02-26/03-03大⑩->276 頁石河
現⑫->372 頁
128実業家の学術思想1890-03-05大⑩->434 頁福澤
現⑫->388 頁
修三十二->202 頁
129読倫理教科書1890-03-18大⑨->420 頁福澤
現⑫->397 頁
130洋学の先人へ贈位1890-04-04大⑩->293 頁福澤
現⑫->409 頁
131米商論1890-04-23/25大⑨->134 頁福澤
現⑫->415 頁
132世務諮詢(演説)1890-04-30大⑩->125 頁福澤
明治二十三年四月二十七日交詢社大会現⑫->424 頁
133財政始末1890-05-29/06-04大⑨->145 頁福澤
現⑫->426 頁
134安寧策1890-07-01/08大⑧->279 頁石河
現⑫->450 頁
135学林中の松梅(演説)1890-07-21大⑨->580 頁福澤
学林中の松梅現⑫->474 頁
136尚商立國論1890-08-27/09-01大⑨->165 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑫->484 頁
137塾政の自治(演説)1890-10-16大⑨->585 頁福澤
塾政の自治現⑫->522 頁
138精神の健康(演説)1890-10-30大⑨->587 頁福澤
十月二十五日慶應義塾演説筆記現⑫->528 頁
139学生の心得(演説)1890-11-17大⑨->590 頁福澤
十一月八日慶應義塾演説筆記現⑫->532 頁
140同窓の旧情(演説)1890-11-19大⑩->437 頁福澤
同窓の旧情現⑫->535 頁
141孝行の易行道(演説)1890-12-01大⑨->594 頁福澤
十一月二十二日慶應義塾演説現⑫->542 頁
142同情相憐1891-03-25大⑩->440 頁福澤
現⑬->042 頁
143文明の偽筆1891-04-14大⑩->045 頁福澤
文明の偽筆は無筆者の能くする所に非ず現⑬->055 頁
144貧富論1891-04-27/05-21大⑩->296 頁福澤
現⑬->069 頁
145後進生の心掛1891-07-10大⑩->130 頁福澤
後進生の家を成すは正に今日に在り現⑬->155 頁
146老生の故事を学べ(演説)1891-07-15大⑨->597 頁福澤
明治二十四年七月十一日慶應義塾演説大意現⑬->158 頁
金銭は独立の基本なり修五->024 頁
147独立の大義(演説)1891-08-02大⑨->602 頁福澤
明治二十四年七月二十三日慶應義塾の卒業生に告ぐ現⑬->166 頁
独立の大義を忘るゝ勿れ修二->009 頁
148徳に在て財に在らず1891-08-11大⑨->512 頁福澤
寺門の患は徳に在て財に在らず現⑬->171 頁
149文明男子の生計1891-08-12大⑩->134 頁福澤
文明男子の生計を如何せん現⑬->174 頁
150紳士流の漫遊旅行1891-08-13大⑩->447 頁福澤
紳士流の漫遊旅行狂するが如し現⑬->177 頁
151旅館の主人1891-08-14大⑩->450 頁福澤
旅館の主人も亦狂して窮する者歟現⑬->180 頁
152子弟教育費1891-09-11大⑨->342 頁福澤
現⑬->186 頁
153独立自由(演説)1891-10-20大⑨->605 頁福澤
明治二十四年十月十日慶應義塾演説筆記現⑬->205 頁
須く他人を助けて独立せしむべし修三->015 頁
154地震は建築法の大試験1891-11-01大⑩->047 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑬->218 頁
155震災善後の法1891-11-07大⑨->517 頁福澤
現⑬->222 頁
156医薬分業行はれ難し1891-12-09大⑩->050 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑬->236 頁
157唯其病是れ憂ふ(演説)1892-02-20大⑨->609 頁福澤
明治二十五年二月十三日慶應義塾演説筆記現⑬->306 頁
父母は唯其病是れ憂ふ修三十五->219 頁
158貴顕紳士の夫人内室1892-03-09大⑩->340 頁石河
貴顕紳士の婦人内室現⑬->308 頁
159借家の説1892-03-10大⑩->343 頁福澤
現⑬->310 頁
160政論に酔ふ勿れ(演説)1892-03-18大⑨->612 頁福澤
明治二十五年三月十二日慶應義塾演説筆記現⑬->323 頁
須く政論の上戸となるべし修十六->108 頁
161下女の炊くを見たり(演説)1892-04-02大⑨->614 頁福澤
明治二十五年三月二十六日慶應義塾演説筆記現⑬->332 頁
衛生の要は消化の如何にあり修三十六->224 頁
162社会の教育(演説)1892-04-26大⑩->138 頁福澤(自筆草稿あり)
明治二十五年四月二十四日交詢社第十三回大会に於て演説現⑬->354 頁
163小康策1892-05-31/06-05大⑧->305 頁福澤
現⑬->373 頁
164先づ僧心の非を正す可し1892-07-07大⑨->520 頁福澤
仏法の盛衰は僧侶の心如何に在り現⑬->403 頁
165一大英断を要す1892-07-19,20大⑧->319 頁(石河*18)
現⑬->412 頁
166資本の要用1892-09-28/30大⑨->182 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑬->512 頁
167縁の下の力持(演説)1892-10-28,29大⑨->617 頁福澤(自筆草稿あり)
明治二十五年十月二十三日慶應義塾演説筆記現⑬->554 頁
小心翼々以て大功を帰すべし修九->054 頁
168女子教育1892-11-10大⑨->345 頁石河
現⑬->564 頁
169商業倶楽部演説(演説)92-11-15,16大⑨->624 頁福澤
明治二十五年十一月五日慶應義塾商業倶楽部の演説筆記現⑬->566 頁
170人間万事小児の戯(演説)1892-11-24大⑨->631 頁福澤
明治二十五年十一月十二日慶應義塾演説筆記現⑬->572 頁
人間万事児戯の如し修八->048 頁
171富豪の要用1892-12-16/18大⑨->192 頁福澤
現⑬->588 頁
172寿命の大小1893-01-04大⑩->454 頁福澤
現⑬->620 頁
修三十七->230 頁
173銀貨下落1893-01-19/22大⑨->203 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑬->632 頁
174社会の人心は其尚ぶ所に赴く1893-03-14大⑩->346 頁福澤
現⑭->009 頁
修三十四->213 頁
175体育の目的を忘るる勿れ1893-03-23大⑨->634 頁福澤
現⑭->018 頁
修四十->246 頁
176先進と後進1893-04-25大⑩->141 頁福澤
現⑭->034 頁
修二十九->186 頁
177老生得意の奇話(演説)1893-05-02大⑧->567 頁福澤
明治二十六年四月三十日東京帝国ホテル交詢社大会の演説現⑭->038 頁
178朝鮮防穀談判の落着1893-05-23大⑧->572 頁石河(大正版に明記)
朝鮮談判の落着、大石公使の挙動現⑭->061 頁
179新旧両主義1893-06-09大⑩->144 頁福澤
現⑭->071 頁
修三十->190 頁
180士流の本分を忘る可らず1893-06-27大⑨->642 頁福澤
現⑭->082 頁
修二十二->147 頁
181無学の弊恐る可し1893-10-06大⑩->457 頁石河
現⑭->147 頁
修三十一->195 頁
182銅像開被に就て(演説)1893-11-01大⑩->461 頁福澤
現⑭->179 頁
修七->039 頁
183人生の楽事(演説)1893-11-14大⑨->637 頁福澤
現⑭->195 頁
修十七->111 頁
184星議員の除名1893-12-15大⑧->327 頁福澤
星議員除名現⑭->229 頁
185日本外交の進歩1894-01-16/17大⑧->578 頁石河(大正版に明記)
現⑭->261 頁
186維新以来政界の大勢1894-03-01/15大⑧->330 頁石河
現⑭->289 頁
187新聞記者に告ぐ1894-03-29大⑩->466 頁石河
現⑭->327 頁
188国民の体格、配偶の選択1894-04-07大⑩->349 頁石河
現⑭->336 頁
国民の体格と配偶の選択修三十九->239 頁
189支那政府の長州征伐1894-07-22大⑧->632 頁石河(大正版に明記)
現⑭->472 頁
190大に軍費を醵出せん1894-07-29大⑧->638 頁石河
現⑭->492 頁
191軍資の義捐1894-08-14大⑧->641 頁石河
軍資の義捐を祈る現⑭->512 頁
192私金義捐に就て1894-08-14大⑩->469 頁福澤(署名入)
現⑭->514 頁
193日本臣民の覚悟1894-08-28,29大⑧->643 頁石河
現⑭->545 頁
194富豪大家何を苦んで商売せざる1894-09-08大⑨->217 頁石河
現⑭->557 頁
195日本男子の学問(演説)1895-01-24大⑩->473 頁福澤
福澤先生の演説現⑮->028 頁
196外戦始末論1895-02-01/07大⑧->650 頁石河
現⑮->040 頁
197日本銀行論1895-02-19/22大⑨->221 頁福澤
現⑮->065 頁
198兇漢小山六之助1895-03-26大⑧->676 頁石河
現⑮->106 頁
199私の小義侠に酔ふて公の大事を誤る勿れ1895-03-28大⑧->680 頁福澤
現⑮->110 頁
200知識の膨張(演説)1895-04-23大⑩->146 頁福澤
明治二十八年四月二十一日交詢社大会演説大意現⑮->141 頁
201唯堪忍す可し1895-06-01大⑧->684 頁福澤(書簡で言及)
現⑮->175 頁
202朝鮮問題1895-06-14大⑧->589 頁石河
現⑮->188 頁
203道徳の進歩1895-07-07大⑨->424 頁石河(大正版に明記)
現⑮->222 頁
204道徳の標準1895-07-09大⑨->428 頁石河(大正版に明記)
現⑮->226 頁
205忠義の意味1895-07-10大⑨->431 頁石河(大正版に明記)
現⑮->228 頁
206還暦寿莚の演説(演説)1895-12-14大⑩->478 頁福澤
還暦寿莚の演説現⑮->333 頁
207福澤氏古銭配分の記1896-03-11大⑩->485 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑮->394 頁
208種痘の発明(演説)1896-05-14大⑩->057 頁福澤
種痘発明現⑮->427 頁
209美味は飽き易し1896-08-19大⑩->149 頁福澤
集会と飲食現⑮->493 頁
210気品の源泉智徳の模範(演説)1896-11-03大⑩->489 頁福澤(自筆草稿あり)
気品の源泉智徳の模範現⑮->531 頁
211学生の帰省を送る(演説)1897-01-01大⑨->645 頁福澤(自筆草稿あり)
現⑮->571 頁
212幣制改革1897-02-21大⑨->235 頁福澤
現⑮->602 頁
213日米の交際1897-05-11大⑧->596 頁石河(大正版に明記)
現⑮->657 頁
214対外前途の困難1897-06-25大⑧->603 頁石河(大正版に明記)
現⑯->019 頁
215学事改革の趣旨(演説)1897-09-21大⑨->650 頁福澤
明治三十年九月十八日慶應義塾演説館にて学事改革の旨を本塾の学生に告ぐ現⑯->105 頁
216開國同化は日本の国体に差支なし1897-10-05大⑩->353 頁石河
現⑯->127 頁
217文明先輩の功労忘る可らず1897-10-27大⑩->359 頁石河(大正版に明記)
現⑯->143 頁
218本願寺の処分1897-12-05大⑨->524 頁石河(大正版に明記)
現⑯->167 頁
219血脈と法脈との分離1897-12-07大⑨->527 頁石河(大正版に明記)
現⑯->169 頁
220法運万歳の道なきに非ず1897-12-08大⑨->530 頁石河(大正版に明記)
現⑯->172 頁
221間違の進歩(演説)1898-04-26大⑩->151 頁福澤
交詢社大会席上に於ける演説現⑯->319 頁
222官有鉄道論1898-08-21大⑨->248 頁石河(大正版に明記)
現⑯->456 頁
223奉祝長与専斎先生還暦1898-09-29大⑩->494 頁福澤(署名入り)
現⑯->487 頁
224恩賜に就ての所感1900-05-16大⑩->498 頁石河(大正版に明記)
今回の恩賜に付き福澤先生の所感現⑯->600 頁

註 1
本資料では福澤の著作については初出を西暦で表記し、その上 2 桁はしばしば省略する。(管理人による註も参照のこと)岩波書店刊『福澤諭吉全集』に収録されている著作・論説については、初出の年月日だけで位置を確定できるため巻数と頁は表示しない。(1882-12-07/12)は 1882 年 12 月 7 日から 12 日まで掲載を示す。論説は発表日まで示すが、単行本は刊行月までの表示とする。引用文はカタカナ漢字混用文はひらがな漢字混用文に変換し、適宜句読点や括弧付きで語句を補い、元号表記の暦数には西暦を加える。さらに著作の表題は 2 度目からは適宜省略して表現する。
註 2
本資料では論説と演説を考察の対象とし、風刺時評である漫言は扱わない。
註 3
現行版第 7 巻 250 頁。
註 4
昭和版第 5 巻(1934-04)「附記」737 頁。
註 5
大正版第 8 巻(1926-06)「時事論集例言」1 頁。
註 6
岩波書店刊『福澤諭吉伝』(以下『福澤伝』)第 1 巻(1932-02)「序」1 頁。
註 7
大正版第 1 巻(1926-09)「端書」1 頁。奥付から判断して大正版は「時事論集」を先に刊行したようである。
註 8
大正版第 8 巻「時事論集例言」1 頁。
註 9
昭和版第 1 巻「序」2 頁。
註 10
大正版「時事論集例言」には社説等 223 編を収めるとあるが、目次で題名を数えると 225 編ある。そのうち現行版の『全集』では第 5 巻に収められている「國会論」『郵便報知新聞』(1879-07-29/08-14)を除く 224 編を調査の対象とした。
註 11
昭和版『続全集』第 5 巻「附記」737 頁。
註 12
現行版『全集』第 8 巻 671 頁。
註 13
「「時事新報論集」について」福澤諭吉協会編『福澤諭吉年鑑』第 22 号(1995-12)28 頁。
註 14
『修業立志編』には 17 編の演説と 25 編の論説が収められているのであるが、論説のうちの 9 編は現在までのいかなる全集にも載録されていない。そのことのもつ意味については拙論「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」ぺりかん社刊・石毛忠編『伝統と革新ー日本思想史の探求』(2004-03)所収、を参照のこと。
註 15
現行版⑧ 9頁に「我輩」とは別に「福沢先生」が登場。中上川が主筆として執筆したと考えられる。
註 16
この論説には福沢の自筆草稿が残されている。ただし浄書であるので、別人の下書きがあったと推定。表現と語彙からは波多野にもっとも近い。
註 17
この論説にも福澤の自筆草稿が残されているが、前頁の註と同じ理由で渡辺の下書きを書き換えたものと推定。
註 18
この時期以降石河起筆の論説が目立って増加してくる。この論説は『福澤諭吉伝』で重要視されているが、「恐る可き」「の沙汰」「赤心」「申す迄もなく」という石河が多用する表現や語彙があるため、起筆者が石河自身であることははっきりしている。
年月日の表記に関する註
西暦は、なるべく4桁で表示するようにしました。