「朝鮮よ、滅亡せよ」と福沢諭吉は言ったのか?
はじめに
『諸君!』(2005 年 5 月号、文藝春秋)に掲載された「「朝鮮よ、滅亡せよ」と福沢諭吉は言ったのか」を、平山氏と文藝春秋の許可を得て転載します。転載にあたり、西暦等の漢数字を、アラビア数字に変換しました。
他のウェブサイトの関連エントリーは、以下の通りです。
- 2014-10-16
- 「脱亜論」 | momojirou
1 朝鮮は滅亡するべきだ
意外に知られていないのだが、福沢諭吉が書いたとされる無署名論説に、「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」というものがある。今ではすっかり有名となっている「脱亜論」の発表から 5 ヶ月後の 1885(明治 18)年 8 月 13 日に、福沢が主宰していた新聞『時事新報』に掲載されたものの、隣国朝鮮の体面に配慮した政府により治安妨害のかどで発禁とされた、といういわくつきの社説である。
そこでその社説は、腐敗堕落した朝鮮国の滅亡がかえって人民の幸福となると主張している。すなわち、人間にとって最も大切なのは栄誉と生命と私有の 3 つであって、国家を立てて政府を設けるのはこれらを保護するためである。それらを守ってこそ国民もその国を愛することができるのだが、実際に朝鮮国の人民が置かれている状況は、
「上下の間、殆ど人種を殊にするが如くにして、苟も士族以上、直接に政府に縁ある者は無限の権威を恣にして、下民は上流の奴隷たるに過ぎず」(現行版『全集』第 10 巻 380 頁、以下断らない限り引用出典は巻と頁のみ)
という悲惨なものである。
そのため朝鮮人民としては、
「内に居て私有を護るを得ず、生命を安くするを得ず、又栄誉を全うするを得ず、即ち国民に対する政府の功徳は一も被らずして、却て政府に害せられ、尚その上にも外国に向て独立の一国民たる栄誉をも政府に於て保護するを得ず。実に以て朝鮮国民として生々する甲斐もなきことなれば、露なり英なり、其来て国土を押領するがまゝに任せて、露英の人民たるこそ其幸福は大なる可し」(381 頁)
ということになるのである。
以上が今からちょうど 120 年前の同じ乙酉年に発表された社説「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」の要約であるが、小論は、この論説を中心に、同じ年に発表された社説「朝鮮独立党の処刑」(2 月)や「脱亜論」(3 月)などが、福沢のアジア蔑視や侵略性を示すものであるのか、それとももっと別の評価があり得るのかどうかについて検討する。
そこで、これらの論説を扱う場合に注意しなければならないのは、現に『福沢諭吉全集』に収められているこうした無署名論説が、本当に福沢が書いたものなのか、ということである。この点は避けては通れない問題なので、すでに拙著『福沢諭吉の真実』(文春新書)に書いたことではあるが、必要に応じて無署名論説の真偽判定についても触れることにする。その過程で、出版後半年の間に提示された拙著への批判や疑問にも答えるつもりである。
なお、あくまで 120 年前の国際情勢を踏まえての議論であるが、読む人には遠い過去とは思えないところがあるかもしれない。しかしそれは偶然に過ぎない。
2 福沢の全集も伝記も、弟子の石河幹明が一人で作った
これらの社説が石河幹明編の『続福沢全集』に初めて採録されたのは、1933(昭和 8)年のことであった。「脱亜論」も含めて、1885(明治 18)年に紙面に掲載されてから 48 年もの間、誰にも読まれることもなく古新聞の山の中に埋もれていたのである。いずれにも福沢直筆の草稿は残存しておらず、書簡類でも一切触れられてはいない。福沢没後 30 年の頃まで、彼が書いたなどとは一度たりとも考えられたことのない諸論説なのである。「脱亜論」が有名になっていく過程は、無名の少女が成り上がって大女優となるまでを描いた昔のハリウッド映画『イヴの総て』(1950 年)を彷彿とさせる(拙著第 5 章参照)。
石河は、1885(明治 18)年 4 月から 1922(大正 11)年まで 37 年もの間、『時事新報』編集部に所属していた新報社の生き字引のような人物であった。彼はまた膨大な分量の『福沢諭吉伝』全 4 巻(1932 年)を書いたことで名を残している。現行版『福沢諭吉全集』全 21 巻(1964 年完結・岩波書店刊)は、石河の弟子の富田正文と、富田の助手である土橋俊一の両名による編となっているため忘れられがちであるが、石河が編纂した大正版『福沢全集』全 10 巻(1926 年完結・国民図書刊)と昭和版『続福沢全集』全 7 巻(1934 年完結・岩波書店刊)を合わせてさらに遺漏を増補したものである。
現行版の「時事新報論集」は、第 8 巻から第 16 巻までの 9 巻を占めている。『全集』において、40 年にわたって成された署名著作が 7 巻、そのほぼ半分の期間に発表された無署名論説(演説再録のみ署名入り)が 9 巻もあるのはいかにも不自然である。
その無理を承知していた石河は、自らが「時事新報論集」の主要な起筆者であることをあらかじめ明かしたうえ、それらも福沢の意を受けてのことだから『全集』に収められる資格がある、としている。石河の証言以外に、そのことを証明する客観的証拠は見あたらないにもかかわらず、現行版編纂にあたって落とされた無署名論説は一編もない。そこで石河の信憑性を判断するために、井田進也氏の方法(井田メソッド)が重要となってくるのである。
井田メソッドとは福沢の書き癖や特徴的語彙を整理した一覧表を用いてまず当該論説が真筆か否かを判定し、福沢ではない場合はさらに石河ら社説記者(論説委員)各々の特徴と比較することで、真の執筆者を割り出すという方法である(同氏著『歴史とテクスト』 2001 年・光芒社刊)。私見では、井田メソッドではっきり区別できるのは、福沢真筆かそれ以外かということだけである。その方法により、石河の言明の信憑性を判定するために重要な役割を果たしたのが、安川寿之輔氏の『福沢諭吉のアジア認識』(2000 年・高文研刊)であった。
この本は、現行版『全集』 21 巻すべてを福沢の思想の反映とみなし、その中から福沢のアジア蔑視と侵略性をあぶり出すことを目的としている。その巻末には「福沢諭吉のアジア認識の軌跡」として、安川氏が問題ありと判定した現行版『全集』の記述 397 例がリストアップされている。そのうち安川氏が「アジアへの侮蔑・偏見・マイナス評価」と判定した民族偏見への実例は 79 例で、内 66 例が「時事新報論集」からであった。さらにこれらを井田メソッドによって判定してみると、福沢の真筆であると確認できたのは、「朝鮮の交際を論ず」(1882 年 3 月)と小論の扱う 3 編の合計 4 編だけとなった。つまり残余の 62 編は福沢の執筆ではないと推測できるのである。
とりわけ 1893(明治 26)年 6 月の「朝鮮の近情」以降の社説 41 編を起筆したのは石河と推定でき、その中には、日清戦争後に日本領となった台湾で武装蜂起した現地人など皆殺しにしてしまえ、という内容の「台湾の騒動」(1896 年 1 月)ほか、台湾割譲の目的は土地だけであるから現地人は眼中に置くべきではない、と主張した「先づ大方針を定む可し」(同年 7 月)などが含まれている。
もちろん、従来までの定説のように、たとえ石河の起筆ではあるにせよ、「台湾の騒動」といった恥ずべき論説が『全集』に収められているということ自体が、1882(明治 15)年の『時事新報』創刊前後から福沢の思想に大きな転回が生じ、95 年の日清戦争後にはアジア蔑視の侵略主義者になり果てた証拠である、と主張し続けることもできる。しかし、日清戦後に出版された署名著作『福翁百話』(97 年)、『福沢先生浮世談』(98 年)、『福翁自伝』(99 年)などにはアジア蔑視や侵略主義を感じさせるものがないのに、無署名論説にだけそのような主張あるのは奇妙なことではないか。しかも石河起筆の論説だけに。
3 安川寿之輔氏作成のリストに内在する矛盾
福沢はあのヒトラーのように、汚い仕事は親衛隊長官石河ヒムラーに任せたのだ、という反論もあり得るだろう。しかし、ユダヤ人問題の最終的解決についてのヒトラー自身の演説は数多く残されているのに、「時事新報論集」全体から見れば比較的少数とはいえ、福沢の署名入りで発表された演説再録には、安川氏のリストによる限り、アジア蔑視と見なされるものは存在しないのである。いや、逆に、日清戦争頃から国内に高まった中国人蔑視の風潮を厳しく戒める演説ならば見つけだせる。
今日の日本の世間に流行する所の趣意は、自大自尊と同時に他を卑めるやうに見える風のあるのは如何だ。是れは行はれない話ではないか。隣の国が卑しいから自分が尊いものだと斯う云へば、之を商売にして見れば、隣りの者は馬鹿だから自分の家のみを繁昌させやうと斯う云ふ理屈になる。隣りの親爺が果して馬鹿で利を知らないものならばソリヤ甚はだ都合が宜からうけれども、隣りの親爺も馬鹿ではない、ちやんと利益を知て居る。利益を知て居るのに、自分の家ばかり利しやうと云ふことは出来られないではないか。そうすれば自尊も宜しい、自大も宜しい。宜しいけれども、隣りの人が卑しいからと云て乃公が尊いと云ふことは何としても是れは云はれない話である。(第 19 巻 737 頁)
これは98(明治 31)年 3 月 12 日に開催された三田演説会での演説の一部である。しかも、同じ見解を正に真筆と判定可能な、同年 3 月 22 日の社説「支那人親しむ可し」で述べているのである。その末尾近くにはこうある。中国人を
「決して因循姑息を以て目す可らず。況んやチャンチャン、豚尾漢など他を罵詈するが如きに於てをや。仮令ひ下等社会の輩としても大に謹しまざる可らず」(第 16 巻 286 頁)
と。日清戦争後の無署名論説には酷いのが多いのであるが、ごくまれにではあるが、このようにまともな論説があるのである。
石河起筆のアジア蔑視論説を本物だと信じ切っていた安川氏は、この「支那人親しむ可し」に「嘘」の判定を下している。しかし、アジア蔑視をしてはいけない、という演説や社説が虚偽であるとしたら、なぜわざわざそんな嘘をつかなければならないのであろうか。石河が伝記や続『全集』の「後記」で言うように、脳卒中の発作に倒れる 98 年 9 月まで福沢と『時事新報』は一心同体であったなら、社説相互にこのような矛盾が生じるはずがないではないか。この難点の合理的解釈としてあり得るのは、『時事新報』はいつの頃からか石河に乗っ取られてしまい、福沢も容易には口出しできないようになっていた、ということであろう。
とはいえ、福沢と石河に立場の相違があったとするなら、福沢はどうして石河を罷免しなかったのか、というもっともな疑問が生じる。たとえ福沢が「台湾の騒動」などを書いていないとしても、掲載を許した責任は免れないのではないか、ということで、栗原俊雄氏(毎日新聞「ウイークリー文化・批評と表現」昨年 8 月 29 日掲載)から寄せられた問いである。その点については、今日の目からは読むにたえない論説であったとしても、当時の状況下では、論説担当を外すというほどの卑劣作とは考えられていなかった、と推測するしかないであろう。
石河は旧版正続『全集』のために自ら選んだ(しかもその多くは自身起筆の)無署名論説を援用して『福沢諭吉伝』を書いている。その伝記と全集が一見すると整合的に組み立てられていたため、この 80 年間に福沢に触れた人々は皆、石河の唱える、国家平等観からアジア蔑視の侵略主義へ、という転回を信じ込まされていただけだったのである。福沢を糾弾する人々もまた、彼らが尊重する遠山茂樹氏の『福沢諭吉』(1970 年・東大出版会刊)への批判的な見方ができないことにおいて、知らず識らずのうちに「石河への盲目的愛」の虜となっているのである。なぜなら遠山氏の『福沢諭吉』は、石河の『福沢諭吉』(1935 年・ 4 巻本の短縮版)から、全体の構成と多くの史料(石河起筆の論説)をそっくり引き継いでいるからである。
とはいえ、安川氏の見解ではアジア蔑視とされた「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」など 3 編は、私の判定でも福沢真筆である。これはどのように解釈すべきなのであろうか。
4 批判と蔑視の区別について
福沢が「朝鮮独立党の処刑」や「脱亜論」、さらに「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」で清国や朝鮮を批判しているのは事実である。しかしそれは福沢にアジア蔑視観があったということを必ずしも意味しない。なぜなら批判と蔑視(差別意識)はまったく違う事柄だからである。
この 2 つははっきり区別しなければならない。すなわち批判とは、誰もが同意可能な基準をあらかじめ定め、その基準からの逸脱を具体的に指摘することで相手の不当性を明らかにするあり方のことである。一方蔑視とは、もともと何らの基準をもたぬまま、相手をより劣った存在とみなすことである。
糾弾者たちが福沢のアジア蔑視の証拠として挙げるのは、例えば「脱亜論」にある、
「支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず」(第 10 巻 240 頁)
といった表現である。
確かにこれだけを読めば、福沢にはひどい民族偏見があった、と即断されてしまうのも無理からぬところである。しかし「脱亜論」は前年の 1884(明治 17)年 12 月に独立党が起こしたクーデタ、甲申政変後の朝鮮情勢を踏まえて書かれたものだった。
ここで明治維新からこの時期までの日朝関係を振り返るならば、緊張の前兆は、1873(明治 6)年の征韓論であった。この時政争に敗れた征韓派は下野したが、政府に残った主流派もいずれは朝鮮との条約締結は不可避と考えていた。75 年 9 月、日本は朝鮮半島西岸の江華島で武力挑発を行い、開国を迫った。この結果結ばれたのが翌 76 年 2 月の日朝修好条規である。
外圧による開国は朝鮮政府内の守旧派(事大党)を震え上がらせたが、反面明治維新をモデルとした近代化の必要を感じていた開化派(独立党)にとっては好機となった。福沢が金玉均ら朝鮮独立党と関係をもったのは 81(明治 14)年のことである。日本は彼らとともに内政改革と新式軍隊の育成を図ったが、それは同時に旧軍の衰退を意味した。そのため翌 82 年 7 月に旧軍が反乱を起こし、日本の外交官や軍事顧問たちは本国に放逐された。この壬午軍乱後の閔氏政権の後ろ盾となったのが清国であった。
再び事大党の天下となって、独立党員は大いに不満であったが、政権奪還の機会は容易に訪れなかった。彼らは密かに日本と交流をもって、力を蓄えていたのである。84(明治 17)年 12 月 4 日、独立党はついにクーデタを敢行した。そこに日本人同調者も加勢したが、閔氏政権を支援する清国軍に敗れてしまい、朝鮮にとっての明治維新は失敗に終わったのであった。この甲申政変から 2 ヶ月半後、「脱亜論」掲載の 3 週間ほど前の 85 年 2 月 26 日に「朝鮮独立党の処刑」の後編が掲載されている。
その社説で福沢は、縁座制によって処刑された独立党員の家族の姓名を記したのち、
「壮大の男子を殺すは尚忍ぶ可しとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや」(第 10 巻 225 頁)
と続け、
「我輩は此国(朝鮮)を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云はんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は則ち支那人なり」(225 頁)
と書いている。
すなわち、「脱亜論」中の、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」
とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば」
という清国・朝鮮批判は、一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に限定されていたのであった。こうした状況的な表現を除いてしまえば、その主題は、半開の国々は西洋文明を取り入れて近代化するべきだ、という『文明論之概略』(1875 年)の主張と少しも変わるところがないのである。
さらに注意しなければならないのは、福沢が今日の言葉でいう非民主的な国家を批判する場合に、その対象となっているのはその国の政府や支配層だけであって、一般民衆は含まれていない、ということである。圧制政府のもとで苦しんでいる一般民衆はむしろ被害者である。そこで福沢は、支配層を意味する「支那人」や「朝鮮人」と、それぞれの国の「人民」を明確に区別する。福沢の考えでは、政府を構成している「人(士)」が「人民」を統治しているのであるから、残虐な政治の責任はすべて支配層が負わなければならないのである。したがって、「脱亜論」や「朝鮮独立党の処刑」、さらに「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」での刺激的な表現を、アジア蔑視の観点から解釈するのはまったくの誤りなのである。
5 文明政治の 6 条件について
先に私は、批判とは同意可能な基準からの逸脱を具体的に指摘することで相手の不当性を明らかにすることである、と定義した。そこで福沢が批判をなすにあたって出発点とした、誰もが同意可能な基準とは何かといえば、それは、文明は遅速はあれ世界のどこでも同じ道筋をたどって発展する、ということであった。
ではそもそも文明とはどのようなものなのだろうか。『文明論之概略』では、文明とは智徳の進歩のことである、と簡潔に定義されているが、それだけでは十分な説明とはいえない。そこで福沢はより具体的な内容を含んだ文明政治の 6 条件とでもいうべきものを設定して、そこから自らの批判を展開するのである。
文明政治の 6 条件とは、『西洋事情』初編(1866 年)によればおおよそ次のようなものである。(第 1 巻 290 ~ 291 頁の要約)
- 第 1 条件
- 個人の自由を尊重して法律は国民を束縛しないようにすること。
- 第 2 条件
- 人々が帰依する宗教を尊重して、政府は布教・信仰の自由を保証すること。
- 第 3 条件
- 技術や学問の発展を促進すること。
- 第 4 条件
- 学校を建て人材の育成を図ること。
- 第 5 条件
- 適正な法律による安定した政治によって財産を保護し、さらに産業を発展させること。
- 第 6 条件
- 国民の福祉向上につねに心がけること。
見てのととおり、これらの 6 条件は、現代においても自由で民主的な政治体制の要件として十分に通用するものである。そういえばブッシュ大統領の 2 期目の就任演説(2005 年 1 月 20 日)に次のような一節があった。
米国における自由の理想は、市民が経済的な自立によって尊厳と安心を得ることだ。これが社会保障法などを形作った幅広い意味の自由の定義だ。今後はこれらの制度を時代の要請に合わせて改革する。学校教育を最高水準に引き上げ「オーナーシップ社会」を築く。誰もが自らの運命を切り開くことができるようにすることで米国民の自由を拡大する。 (1 月 21 日付ウェブ版『四国新聞』より転載)
ブッシュ大統領にこれらのことが本当に出来るかどうかは別にして、この就任演説が政治の理想を指し示していて、しかも文明政治の 6 条件とほぼ同じ内容であるとは認められるのではないか。
それはさておき、これらの 6 条件は『西洋事情』初編で初めて提示されたのち、『学問のすゝめ』(1872 ~ 76 年)と『文明論之概略』で詳しく論じられている。また、その後の単行本もこれらの条件と無関係のものはほとんどなく、多くの場合それぞれの条件をより掘り下げた内容を含んでいる。例えば、第 1 条件については『通俗民権論』(78 年)や『時事小言』(81 年)で扱われ、以下第 2 条件に関する著作として『徳育如何』(82 年)や『福翁百話』(97 年)、第 3 条件として『民情一新』(79 年)、第 4 条件として『学問之独立』(83 年)、第 5 条件として『通俗国権論』(78 年)と『実業論』(93 年)、第 6 条件として『分権論』(77 年)がある、といった具合である。
そればかりではない。無署名論説も福沢真筆と確認できるものは、具体的時事的問題を、文明政治の 6 条件の観点からいかに解決するか、という問題意識によって書かれているのである。例えば 6 条件と「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」の内容を照らし合わせると、テーマとなっていた生命の安全と国民としての栄誉の維持は第 1 条件に、私有の保護は第 5 条件に含まれていることが分かる。これらの条件に背馳しているから、朝鮮の人民にとってその政府は廃絶されたほうがよい、という判断が下されているのである。
福沢真筆と判定可能な無署名論説は大部分このような内容を含んでいることから、時事問題を扱う場合、福沢の手元には常にこの 6 つの条件が書かれたチェックリストがあった、といってよいであろう。その基準は批判の対象が日本政府であっても、西洋諸国やアジアの諸国であろうとも不変であった。糾弾する側の人は決して取り上げることをしないが、福沢の著作には、この文明政治の 6 条件にもとづいた西洋列強諸国への批判が多数あるのである。アジア蔑視にして西洋礼賛者福沢という間違ったイメージを読者に植え付けるために、彼らはそうした記述をリストアップすることなど決してしないのではあるが。
このようにしてみると、福沢の思想的中核をなす『文明論之概略』と福沢真筆の無署名論説は、ちょうど聖典と聖職者の説教のような関係にあることが分かる。聖典として信奉されているような書物は、具体的事例の解決を直接には与えないかもしれない。しかし、現実世界に生きている聖職者が信者を介して直面している問題は、世俗的であるのが常である。それゆえ聖職者は、自らが正しいと信じる聖典の解釈に基づいて、一般の社会でも通用する答えを信者に提示しなければならない。福沢真筆の『時事新報』社説には、これと同様の、普遍的な文明主義の立場から個別の問題に答える、という役割があったのである。
6 福沢の侵略性を「発見」した人々
現在日本にいると忘れられがちなのであるが、19 世紀までの東アジアにおける他民族蔑視は、日本人が清国人・朝鮮人を、という方向ではなく、逆に、彼らが日本人を、という方向性をもっていたことは記憶しておいたほうがよい。これを華夷思想と呼ぶが、そもそもは個別の人間の上下関係を「礼」によって統制しようとした儒教の考えを民族の範囲にまで広げたものである。
自民族の政治や文化を誇るのはよいのだが、自民族こそが世界の中心で優れていて、周囲の民族は未開で野蛮であると軽視するのは困ったものだ。しかも中華とは儒教文明の中心を意味していたから、その受容度によって中華は発祥の地中国を離れる可能性さえあった。
17 世紀半ば、北京に漢民族ではない満州民族の王朝清国が建国されたことにより、朝鮮国では、自分たちこそが儒教の正統的後継者である、とする小中華思想が芽生えた。その場合日本は東夷にあたるから、当然格下である。現に武官である征夷大将軍が統治しているではないか、というわけで、朝鮮にはそもそも「侮日」の伝統があったのである。
こうした儒教文明に反対したのが福沢であった。ただ、そうだとすると、今までアジア諸民族への偏見として糾弾されてきた記述は西洋文明からの逸脱への批判にすぎないとしても、そのことによって直ちに、福沢に侵略性までなかった、とまでは言い切れなくなってくる。なぜなら、福沢の考えによれば、儒教思想に基づくアジア的華夷秩序は打破されるべきではあったが、翻って日本がアジアの諸国に比して、西洋文明の観点からより高い発展段階にあるとしたら、その文明の朝鮮や清国への移入を大義名分として内政に介入することは、むしろ賛美されるべきことになるからである。社説「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」の末尾で、朝鮮の民衆はイギリスやロシアの支配を受けたほうが幸福だ、と言いうるなら、日本の支配下に置かれたほうがもっと幸福だ、とも主張できる、ということである。
実際、第 2 次世界大戦後の福沢糾弾の急先鋒となった服部之総はそう解釈したし、遠山茂樹氏が「脱亜論」を発見した 1951 年の論文「日清戦争と福沢諭吉」にも、
「強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福ーーこれは修辞の上の誇張の言ではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の前提となっている」(『遠山茂樹著作集』第 5 巻 33 頁・ 1992 年・岩波書店刊)
と書かれている。ところが、詳細に調べてみると、服部之総や遠山茂樹氏、さらに安川寿之輔氏らが抽出した『全集』からの引用に、福沢が日本による朝鮮領有や中国分割を希求していたことをうかがわせるものは存在しない。本当である。例えば先の引用で遠山氏のいう「日本の朝鮮侵略を主張する論」とは「脱亜論」のことなのだが、そこには「其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑あることなし」
(第 10 巻 239 頁)とあるばかりなのである。
テキストそのものには日本による領有など書かれていないのに、服部や遠山氏は出典には明示されていない福沢の帝国主義的野心を書き加えるのを決して忘れない。彼らの論文がそのようになっているのは、おそらく、石河の『福沢諭吉伝』に、朝鮮を手段として中国を目的とした東洋政略こそが福沢の宿願だった旨のことが記されているからであろう。
石河が『福沢諭吉伝』を刊行し、続『全集』を編纂したのは 1930 年代初頭であった。伝記は、韓国併合から約 20 年後に、福沢がその併合の 4 半世紀も前から日本による朝鮮領有を企んでいた、という虚構の真相を暴露しているわけだが、その証拠は署名著作の引用文からは示されず、地の文に石河の思い出として書かれているだけである。服部や遠山氏が疑うこともなくその言葉を信じたのは、それらの書物が新刊本として店頭に並んでいた 30 年代には、「現に」朝鮮は日本領となっており、また「現に」日本による中国分割が進行中であった、という事実によるのではないか。
7 反福沢プロパガンダは現在なおも継続中
石河幹明が 1930 年代の時局に媚びるために作った伝記と続『全集』は、45(昭和 20)年の敗戦以降、皮肉なことに、彼が忌み嫌った左翼陣営による福沢糾弾の素材として利用されることになった。戦後の福沢研究史は、慶応義塾出身者と丸山真男率いる東京大学法学部出身者を中心とする擁護派と、服部・遠山氏ら東京大学文学部及び安川寿之輔氏らその他の大学の文学部・教育学部出身者を主な構成メンバーとする糾弾派の果てしない論争の形をとっているのであるが、石河による伝記と続『全集』は、主に後者への燃料供給源なのである。
社説「脱亜論」が有名となったのはほぼ 1967(昭和 42)年である。この年がいわゆる明治百年の前年であったことは偶然ではない。すなわち、ある種の人々が、明治以降の日本の歩み全体を否定するために、戦後もなお生き延び、持ち上げられていた思想家福沢諭吉をあえて俎上に載せた、と推測できるのである。
公平にいって、30 年代以降の無茶な国家膨張主義の責任を負うべき思想家をただ 1 人挙げるとすれば、それは徳富蘇峰であったろう。彼は福沢を批判することで 1880 年代にデビューし、戦後の 1957 年まで生きたが、死去の時点ではすでに遠い過去の人間だった。福沢はいわば蘇峰の身代わりとして生け贄に選ばれたのではなかろうか。
現在多くの人々が、福沢にアジア蔑視の侵略主義者のイメージを抱いているのは、私の考えでは、70 年代以降に学校教育の場でその方向での刷り込みが行われたためである。糾弾派は、おそらく、次世代の思想に一定の傾向性を植え付けるためには教科書に取り上げられることが重要である、と認識してもいたのだろう。
そのことを証するのが高嶋教科書訴訟である。それは、前筑波大学付属高校教員にして現在は琉球大学教授である高嶋伸欣氏が、執筆を担当した高校現代社会の教科書への「脱亜論」掲載などを当時の文部省から差し止められたことを不服として、1993(平成 5)年 6 月に、国を相手取って起こした民事訴訟である。高嶋氏は「アジアの中の日本」というテーマの中で、日本人のアジアに対する差別感と「脱亜論」の関係を説こうとしたところ、検定の際に、「脱亜論」の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである」
、との意見をつけられたのであった。2002 年 5 月の第二審で、差し止めは適法との判断が下されたことにより現在上告中であるが、このことからも彼らの「脱亜論」への並々ならぬ執着がうかがわれる。
しかもそればかりではない。ウェブ上には、「高嶋教科書訴訟を支援する会」なるものがあって、第二審の「不当判決に抗議します!」
と威勢のいい文句が掲げられている。この会の代表者は神奈川県の県立高校教員で、さらに代表世話人として 3 名の学者が名を連ねているのであるが、問題はその所在地である。事務所の電話番号を頼りに検索してみると、この会は、それらを「かながわ市民オンブズマン」及び「よこはま市民オンブズマン」と共用しているのが分かった。
この 2 つのオンブズマンは男女 2 人の弁護士を中心として活動しているらしく、男性弁護士は「高嶋教科書訴訟を支援する会」等の上の階に事務所を構えている。彼は家永三郎元東京教育大学教授(故人)の教科書訴訟弁護団の一員で、横浜市にある米海軍上瀬谷通信基地の市有地に関し、国に返還請求するよう住民が市に求めた裁判(2002 年 7 月提訴、上瀬谷基地返還住民訴訟)の弁護団の一人である。さらに彼は本誌 4 月号59 頁掲載の図「本田記者の取材先と「反日」ネットワーク」(中宮崇氏作成)中の、「歴史認識と東アジアの平和フォーラム」と「9 条の会」の主要なメンバーである。それだけならまだしも、彼はなんと高嶋裁判の弁護副団長でもあるのだ。要するに「高嶋教科書訴訟を支援する会」は、訴訟をしている当人が支援しているのである。
一方女性弁護士のほうは、昨年 11 月 29 日に最高裁第 2 小法廷で棄却判決を受けた「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」において、社民党の福島瑞穂氏らとともに訴訟代理人を務めた人物である。
高嶋氏はまた、昨年 10 月発行の『週刊金曜日』別冊ブックレット 7「教科書から消される「戦争」」にも係わっているが、そこで「福沢諭吉」の項を執筆しているのは安川氏である。彼は拙著の刊行後もまだ『福沢諭吉のアジア認識』と同じことを書いている。そこでの明らかな間違いについては、『アエラ』誌上で指摘しておいた(同誌本年 2 月 7 日号「偽札だけではない福沢諭吉の受難」参照)。なお、このブックレットの執筆者には他に、「VAWW-NET ジャパン共同代表」西野瑠美子氏、「子どもと教科書全国ネット 21 事務局長」俵義文氏の名も見える。
というわけで、今さら驚きもしないが、何のことはない、女性国際戦犯法廷運動や、憲法改正反対運動や、北朝鮮支援運動や、自衛隊のイラク派遣反対運動や、「脱亜論」の教科書掲載運動を推進しているのは、相互に重複するまったく同じ考え方の人々であったわけだ。やれやれ。
8 国権と民権は矛盾なく両立する
さて、話を本筋にもどして、福沢には朝鮮を日本の支配下に置く意図などなかったとしても、そのことで彼が国権を軽視していたことにはならない。福沢は、署名著作において尊重の重視だけではなく国権の拡大も説いている。拙著での私の主張を、福沢は途中で国権論者に転向したわけではなく終生民権論者に留まり続けた、と要約した評者がいたので、この誤解はぜひ解いておきたい。私の見解では、福沢は民権も国権も重要視していて、それは出世作である『西洋事情』や『学問のすゝめ』から最晩年の『福翁百余話』まで一貫していた、のである。
福沢が国権をも重んじていたとすると、今度は、福沢は終始市民的自由主義者であった、とする私の規定との整合性が問われるかもしれない。それが鷲田小弥太氏の呈された疑問(同氏 HP「読書日日」昨年 10 月 22 日)であるが、これは市民的自由主義の意味する内容に、鷲田氏と私では差があることから生じたように思われる。簡単にいえば、前節で取り上げたような運動にかかわっている人々を「市民」と呼んでしまうと、本来的な意味での「市民(シチズン)」である福沢があたかも市民ではないように見えてしまう、ということである。私は市民や自由主義を古典的な意味で用いていて、現代では一般的となっている、市民を国民全般と、自由主義を政治的リベラリズムと同様に見なす使い方をしていない。
福沢が「士流」と名付けた市民階層は、庶民(人民)とははっきり分けられたミドルクラスのことである。また、自由主義とは 19 世紀英国の政治的・経済的自由を尊重する立場のことで、より低い階層の福祉向上を主目的とする現代のリベラリズムとは異質なものだ。それ故、糾弾者たちによる、福沢はアジア蔑視の侵略主義者だ、という評価はまったくの間違いだと考えるが、例えば、慶応義塾は庶民教育ではないから怪しからん、とか、福沢はミドルクラスの利益を特に代弁している、との批判は、批判として妥当であると思う。
では、福沢が国権をも重要視する民権論者だとして、この国権は、石河以後の解釈とどう違うのであろうか。私が思うに、福沢のいう国権は、固有の領土をしっかりと保持しつつ、対外的には経済的勢力を拡大することに限られているところに特色がある。社説「支那人親しむ可し」にも、
「支那に対して大に求むる所なきに非ざれども、其求むる所は土地に非ず、人民に非ず、只商売貿易の一事にして、其目的は自ら利し兼て他を利せんとするに外ならず」(第 16 巻 286 頁)
とある。福沢の理想は産業立国日本を建設するところにあった。そのために領土の拡大などまったく必要とはしないのである。
民権と国権がバーターの関係にあって両立しないかのように思われがちなのは、国権にいつしか「国家権力」の意味が内包されるようになったからである。しかし、当時国家権力の意味で使われていたのは「官権」という別な言葉で、国権では決してなかった。国権の拡大を目的とするのは、自由民権論者も官権論者も同じで、その目的を達成するのに民権を優位に置くか、それとも官権によって国民をリードするべきか、というのが自由民権運動期の論争の主要なテーマなのであった。
ついで国権に何かしら侵略的なニュアンスが含まれるようになったのはさらに新しく、現行憲法第 9 条中の「国権の発動たる戦争」に由来しているように思われる。この部分は概ね「侵略戦争」と読み替えられているわけだが、もともと国権という概念自体に侵略を想起する内容は含まれていなかった。むしろその要素は「発動」のほうに込められているにもかかわらず、いつの間にか国権自体が侵略を連想させる言葉となっているのである。
福沢の署名著作『通俗国権論』(1878 年)には、
「国権興張の源は財に在ること以て知る可し。然り而して国を富ますの法とて特別に其手段あるに非ず、唯全国の人民が人々の私を営んで一身一家を富ますより外ならず」(第 4 巻 631 頁)
とあるが、ここでの国権は、国家権力でも侵略性でもなく、国力とでもいうべきものである。福沢は、個人が独立して経済力(すなわち民力)を蓄えれば、自ずと国力も増強される、と言っているのである。そうであるから、そもそも民権と国権は何ら相対立するものではなく、前者の強化は後者の拡大に繋がるという、正比例の関係にあるのである。
国権に侵略性を盛り込んだ解釈をしてしまうと、福沢が国権拡大を唱えたということが、あたかも朝鮮の独立党を支援したことと矛盾するような印象を与えてしまう。しかし福沢において国権は主に経済的な問題として語られていたのであるから、隣国朝鮮の政治的・経済的な独立は、日本にとっても有益なことだったのである。
9 今こそ福沢は読まれるべきだ
文明政治の 6 条件を満たすような国家の建設にあたっていたのは、1880 年代の東アジアにあっては日本がただ一箇国あるのみであった。ここに同じタイプの国として朝鮮国が加われば、安全保障上の利点ばかりではなく、対等な貿易を行うことによる双方の利益ははかり知れない、ということになろう。福沢にとって、世界諸国の文明化は、いかなる国も避けては通れない必然的な道筋である、と認識されていたから、84(明治 17)年暮れの甲申政変における独立党の敗北は、朝鮮国の指導部に対する深い幻滅感を生じさせてしまったのである。
余計なお世話だ、と現在の朝鮮・韓国人は反発感を抱くかもしれない。とはいえこれはあくまで 120 年前の話である。そして、福沢は清国の圧迫下にある朝鮮国の真の独立をあくまで望んでいた、ということを信じてほしく思う。当時の状況下にあって、朝鮮が独立の文明国となるということは、その国の支配層ばかりでなく、人民にとっても幸福となるはずのことであった。また、仮に、朝鮮が日本の支配下に置かれれば、そのことに反発を覚える人々を多数抱え込むことになるため、日本にとって不利益となることくらいの想像力を、福沢はもっていたのである。
このようにして見ると「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」という題名は大いなる皮肉といわなければならない。国はそもそも人民のためにあるべきはずなのに、まったく逆に、「人民」の立場から、支配層たる「朝鮮人」の政府は文明の名に値しない、と言い切ってしまったものだからである。
福沢は、国民国家として独立しかつ自国民の生活水準の向上に努める国を尊重し、そうはしない国を軽くみる。そればかりでなく文明政治の 6 条件の実現を阻害する政権は打倒されるべきでさえあった。そして福沢は、国民が自らの理想に基づいてその時代にもっとも適した政府を組織するなら、いかなる政権交替も国体の変更ではなく、むしろ好ましい改革であるとしていた。そして逆に外国人による支配は国体の失われた亡国の悲劇であると常に唱えていた。
彼の外国評価はその政府が自国民の文明化にどれほど心をくだき、また同時に心身を国に捧げる報国の士がどれほどいるかということによって決定されていたのである。金玉均ら朝鮮の独立党を積極的に支援したのも、彼らが真の報国心をもつ有為の人材であり、一方当時の朝鮮国は変革されるべき君主専制国家であると見なしたからに他ならない。
ただそれまで想定されていなかった事態が朝鮮において現実となりつつあったことが、1885(明治 18)年夏の時点での根本的な問題なのであった。甲申政変の成功による朝鮮維新の夢が潰え去り、事大党主導の政府は文明政治の実現を拒んでいる。そうした時期にあって、福沢は、「朝鮮人」による政府の支配を受けるよりもむしろイギリスやロシアといった文明国の植民地にされるほうが当の「人民」にとって幸福な場合がある、と評さざるをえなくなったのである。
これはある場合には侵略が正当化できる、ということを意味するものではない。文明政治を自らの手で行おうとしない不当な政権を他国が打倒したとしても、それがただちに非難されるべき侵略行為となるわけではない、ということなのである。「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」での主張は、福沢のアジア蔑視や侵略主義を示すのではなく、文明の政治は国家主権に優先する、ということを本意としていたのである。その確信があってこそ、その末尾で福沢は、
「我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり」(第 10 巻 382 頁)
と述べたのであった。
そうであるとするとこの論説は、より広い視野から見ると、120 年の時を越えて、今なお有効と言えるのではないか。現在の朝鮮「政府」を支援することに汲々としている人々、この論説や「朝鮮独立党の処刑」、また「脱亜論」をアジア蔑視の侵略論としか受け取ることのできない人々は、逆にそうすることで朝鮮の「人民」を裏切っている可能性がある、ということについてもっとよく考えてみるべきなのだ。
これらの論説の真意は、甲申政変の事後処理で朝鮮独立党員を多数虐殺した事大党政府は不当だ、と言うところにあった。そう知った上でなおも、「脱亜論」は不当だ、などと言い続けるならば、それは結果として、虐殺者である事大党政府は正当だ、と主張することと同じになってしまうのである。まさかそのようなことを認める人はいるまい……。
だがしかし、私にはある疑いが生じつつある。
それは、現在の朝鮮「政府」を助けようとしている人々は、すでにすべてお見通しなのではないか、ということだ。このまま支援が継続されて「政府」が保たれるなら、今この時にも収容所に囚われている何万人もの「人民」は、その経過のうちに、いずれは全員息絶えることになる。そうなった時には、あの気の毒な元慰安婦たちのような、幸いにも生き延びることのできた犠牲者からの告発を、自らが受ける心配もいらなくなるわけだ。ひょっとすると彼らはそうなるのをじっと待っているのではないか……、と。(了)