『福沢諭吉書簡集』より

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

平山氏からの教示をもとに、『福沢諭吉書簡集』の第6巻から、いくつかの書簡を抜き出してみました。

上記の書には、書簡に番号が割り当てられていますので、それを明記しました。ということで、YYYY-MM-DD 「宛先名」 (書簡番号)と表記します。

テキストに起こすにあたり、原則として第1巻の凡例「翻刻の仕方の原則」に従おうと思いましたが、変体仮名、合字については、ルビをふるという独自の表記を採用しました。また、くの字点の代用記号/\を使用しました。実際に、以下の実例を見れば分かると思います。

書簡集より

1888-05-31 「中上川 彦次郎」宛 (1301)

(前略)

新報社も人繰之義ニ付、両三日前より相談致し居候。 坂田も帰京に付、何か少しハ変はり候方宜しかるへく存候。

武徳ハ有望之少年、頼リニ勉強到居候。 是れハ必ス高橋義雄の身代わりニ可相成存候。

(後略)

1888-07-25 「高橋 義雄」宛 (1311)

(前略)

米国雑記八章、慥ニ落手。 昨日より唯今までニ拝見致し了り候。 誠ニ妙なり。 一句も正刪を要せず、其儘ニ紙上ニ用ひ候積り。 近来ハ渡辺氏も勉強致候得共、何分ニも少人数ニ、社説ニ困り居候折柄、別難有難奉存候。 尚此後も御閑之節ハ、御書送奉願候。 日本ハ商人ニ限らず、役人も学者も、坊主も政治家も、自尊之一義を知らず、是れニ迚も立国之事難きを知るべし。 何とか工風致度、夫而己関心ニ御座候。

(後略)

1888-08-27 「中上川 彦次郎」宛 (1319)

(前略)

新聞社相替義無之、伊藤ハ頻ニ勉強致居候。 当夏本塾之卒業生中より

  • 中田
  • 野田
  • 木下
  • 松村

之外ニ、先年之卒業生伊沢を入れて、人数ハ俄ニ相増し候。 但し是ハ唯生活するまでニ、多く金を要するにもあらず。 いよ/\新聞事業ニ役ニ立ち、又本人のテーストもあらハ、定めて永く入社すべく、或ハ他ニ好地位あれハ、去ルも可なりと申、ボンヤリしたる約束ニ這人たる者なり。

其会社ニ若し壮年之人用もあらバ、随分用いひて宜し。 御含まで申進置候。 又森下ハ暫く新聞紙之方を止むるニもあらず、自由自在にして、社ハ之を頼まずとして、半分斗り去りたる都合に致し、夫れ是れする中ニ、当人ハ他に地位を求る積りなり。

渡辺ハ先ツ執筆ニ宜しけれども、文章ニ妙なくせありて、正刪を要する事多し。 石ハあまりつまらず。 先ツ翻訳位のものなり。 老生之所見ニ、高橋が一番役ニ立候様ニ覚候得共、是れハ商売がすきと申せバ、致し方なし。 新聞社ニ居て文の拙なるハ、両国の角力ニ力のなきが如し。 何ハ扨置き困り申候。

(後略)

1888-10-22 「中上川 彦次郎」宛 (1324)

(前略)

時事新報に伊藤が独り編輯を司り居候処、渡辺、石等が少々不平ニ、新聞の権力ハ編輯ニ集り、自分等ハ労して功なきが如し。 就其権を分つ可し云々之事を申出候ニ付、何とか不致不相成義ト存候。 其際、或ハ穏ならざる言葉を吐きたるよし、薄々承り候ニ付、左様な事を申せバ、新聞局中壱人も入用なし。 諭吉が唯独りニ請合うべし。 役ニも立たゝぬ少年ハ一切不用と云はぬばかりニ話しを仕掛けて、先ツ事ハ治まり候有様なり。 全体を申せハ伊藤ハ年も長し智恵もあり、颯々と事を為す処ニ、渡辺、石川等ハ年若くして少々筆ニ頼む所のものあるより、グヅ/\申出したるならん。 何分度量の狭き少年共ニ、共に語るニ足らず。 斯る様子ニ渡辺も石川も後年大ニ為すあるの人物ならずと、先ツ鑑定ハ出来申候。 尚い才之事情ハ追/\御知らせ可申候得共、あらまし之処のみ右之通りニ候。

ツイ忘れたり。 前条之事を申出る前に、石川が菊なとゝ申合せ、雑誌を発兌致度申ニ付、勝手次第、全く新報と関係を絶て後ニ着手す可しと答へたれハ、是れニ見合ニ相成、又近日ハ絵入時事新報ハ如何なと申居候様子なれども、本社ニ不用のものなれバ、之を助けざるハ無論、表裏共ニ無関係ニあらざれバ許さゝる積りなり。

右雑誌之内相談ハ、渡辺、石川等ニ津田も仲間之よし。 津田ハ大坂より帰りたるを不平ニ思ひ居るよし。

渡辺も石川も文章の拙なる者にて、此者等が不平などゝ云はずして文の脩業致し、ほんとふニ社説が出来る様ニなれバ、老生ハ快く之に譲渡す積なれども、自分を顧みずしてグヅ/\とハ、自省之明なきものなり。

全文之次第ニ付、老生唯今之考ニ、渡石輩をして騎虎の勢ニ至らしめず、程好く、まのわるくないやうニ致ス積りなれども、若しも彼等がうぬぼれより六ヶ敷事を申つのり、是非共伊藤を擯けよなと申して、リキむときハ如何すべきや。 伊藤を擯るハ社の不利なるゆゑ、渡辺、石川等を其りきむまゝニして、退社せしむ可きや。 さりとハ血気無辜之少年、甚だ気の毒なり。 是れニ老生も当惑致し候。 唯今渡辺、石川が去りたりとて、老生が全力を尽せバ、社説ニ困りハ不致。 又雑報ハ他の少年ニ出来可申なれども、生も老してますます多事なるハ好む所にあらず、御考可被下候。

1888-10-25 「中上川 彦次郎」宛 (1325)

拝啓。 一昨日書を呈して、新報局云々之義内申進候得共、爾来多少之論談を以て、事ハ治まり申候間、さまで御心配被下間敷。 畢竟人事不慣之少年輩が一事之八章たるニ過ぎず。 失敬ト申せハ失敬なれども、又大に恕すべし。 老生ハ例ニ従ひ少しも含み不申、御安心可被下候。 右要用而己、早々頓首。

1888-10-29 「石河 幹明」宛 (1326)

改て申には無御座候得共、小生も年漸く老し、聊か気楽にして残年を消し度に付ては、新聞の社説、常々御苦労御気の毒に候得共、尚一層御勉め被下度、就ては菊池氏も筆端尚至らざる所多けれども行々は必ずものになり可申被存候間、同氏へも勉強するやう被仰含、何卒老生をして閑を偸しむるやう呉々も奉願候。 余は附口頭候。 頓首。