時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その2

2015-03-19

第二章 無署名論説からいかに福沢を見つけだすか

1  井田進也の判定法

井田メソッドの概略

これまで不可能と考えられてきた『時事新報』論説のじっさいの起筆者を推定する試みを提唱したのは、井田進也である。井田はそれまで従事してきた中江兆民の無署名論説の判定での方法を福沢のものにも応用し、井田メソッドとでも言うべきものを確立した。関係論文は光芒社刊『歴史とテクスト―西鶴から諭吉まで』(2001-12)で読むことができる。

井田メソッドとはおおよそ以下のような方法である。まず

  • (1)『時事新報』に無署名論説を書いた可能性のある社説記者の署名入りの文章を集め、その人ならではの語彙や表現、さらに文体の特徴をよりだす。

ついで

  • (2)無署名の社説と特徴を比較することでもともとの起筆者を推定する。

さらに

  • (3)福沢の書きぐせと一致する部分を探して福沢の添削の程度をみる。

最後に

  • (4)福沢の関与の度合いに応じて A から E までの五段階評価をおこなう、

というものである。そのランキングの基準はおおむね以下の通りである。

A
全面的に福沢の語彙データと一致し、表記および文体の特徴や言い回しに福沢とかけ離れた部分がないもの。福沢自身が起筆しそのまま掲載された文章と考えられる。
B
全面的に福沢の語彙データと一致するものの、表記および言い回しに福沢とは異なる点が見られるもの。演説筆記は速記者の表記の特徴がでてしまうし、口述筆記で成された論説も同様のことがいえよう。
C
大部分は福沢と一致するものの一部異なる語彙も用いられ、福沢が使わない表記や言い回しが現れるもの。
D
一部分は福沢と一致するものの語彙に不自然なところがあり、福沢が用いない表記や言い回しが現れるもの。
E
福沢の語彙データと全面的に一致せず、表記及び言い回しが不自然なもの。記者の単独起筆で添削も加えられていない文章である。

判定にあたり井田は福沢の語彙データや特徴的な文体や言い回しについての指摘をおこなっている。たとえば、福沢と石河に関する指摘としては、福沢が「分て」「挙て」「為て」「最早」「否」など送りがな短縮形を用いることが多いのに対して、石河は「分れて」「挙げて」「為りて」「最早や」「否な」などと送りがなを付して表記し、また福沢は否定を「非ず」とするのに対して石河は「ある可らず」と書くことが多い。理由を示す「よりて」の漢字表記は、福沢が「由て」なのに、石河が「拠りて」を用いる。手段を示す「ほうほう」は、福沢が「方法」という通常の書き方だが、石河は「法方」である、などである。

井田メソッドとはこのように表記などの特徴を手がかりにして判定するものであるが、それはどの程度有効なのであろうか。

井田メソッドの優位点

井田メソッドの優位点とその問題点を指摘したい。

まず評価すべき点として、井田によって初めて『全集』所収の論説のどこに福沢がいるのか、という問題を解く手がかりが与えられたということである。漠然と何だか妙だと感じられた文章に、その理由をはっきり示すことができるようになったのは研究上の大きな進歩であろう。井田が判定した社説は 30 編ほどであるが、A 判定のものは納得がいくし、E 判定のものの一部は論者も従来から疑問を抱いていた論説であった。その判定結果についてはおいおい紹介したい。

ここで重要なことは、選別は内容からではなく語彙と文体に基づいているため、あらかじめ研究者の側から形づくられた福沢像に由来する予断は排除されている、ということである。内容からではなく文体から「脱亜論」には A 判定がくだされているし、また「多く軍艦を造りて、仮令ひ急要の事なきにも世界中の各海面には常に日章旗を翻がへすこと緊要なり」と軍備増強を唱えた「国の名声に関しては些末の事をも捨つべからず」(1984-10-11)も同様である。

つまり研究者の都合によって福沢の思想に枠をはめることができなくなるのである。これまでは福沢を肯定的に評価する研究者も、否定する人々も、ともに数多ある社説のうちから自分の立場を補強するものを選んで立論していたのであるが、語彙と文体を根拠とするカテゴリーⅠの論説の認定については相当に重なり合うのではないか。福沢の評価に関する議論も、共通のフィールドで行われることによってより咬み合うものになりそうである。

井田メソッドの問題点

とはいえ、論者の見るところ、語彙と文体による井田の方法で高い確度をもつのは、カテゴリーⅠとカテゴリーⅣとの区別だけである。福沢と社説記者との合作は多数あると想像できるが、それらを福沢の思想と見なすか見なさないかについて判断に迷うところではある。

いったい C ・ D 判定のものは福沢の思想なのであろうか。彼が筆を入れて掲載を認めたのだからそうである、という立場もありえようが、少々自分の意にそわぬものでも若い社説記者を励ますために掲載を許可することもあったであろう。

それに福沢が校閲したということだけを根拠とするなら、『全集』に収められなかった多くの社説もまた彼の筆が入っているのである。後に触れるが、大正版の「時事論集例言」で石河は、福沢の『時事新報』論説は約五千編ある、と述べている。ここで石河は実際に勘定してそう書いたわけではなく、存命中に六千号発行されたうちの大多数に目を通していたという意味で言っているにすぎない。そうだとしたら、『全集』の「時事新報論集」の規模は 9 巻どころではなくなってしまう。

創刊後しばらくの間については福沢が可能なかぎり社説に責任をもとうとしたことは書簡からも確認できるが、19 年間つねに同じ影響力をもっていたなどとても考えられないことである。また、ジャーナリストとしての訓練を始めたときの石河は 26 歳でも、10 年たてば 30 代半ばになっている。当時の感覚では大ヴェテランであろう。いっぽう創刊まもなくの 40 代後半から書簡での自称を「老生」としていた福沢は、その頃には還暦前の正真正銘の老人である。『時事新報』紙面に及ぼせる両者の影響力もおのずと変質してこよう。

さらに福沢執筆の分量だけを基準にして C ・ D の判定をくだしたとしても、その論説が内容からいってどの程度福沢を反映しているのかは分からないということもある。竹田行之も指摘するように、たとえ D 判定でも、福沢によるそもそもの立案に近いからこそ加筆が少ないのかもしれないし、本当に優秀な社説記者ならば簡単なアイディアを伝授されただけでも、福沢がまさに言いたかったことを完璧に文章化できたかもしれない。

そうだとすると A 判定が福沢の思想であることは確実でも、E 判定は福沢ではないと断言することはできないのである。すなわち福沢がまったく関与していない E 判定の社説ばかりではなく、記者が優秀なるがゆえの名誉の E ともいうべき文章があるということになる。じっさい福沢は自らが立案して北川礼弼に下書きを依頼した社説「波乱後の覚悟」(1897-11-06、全集未収録)を賞賛して、「行文平易にして意を達す。一字も替へず其まゝ御返し申候」と書いている。つまり E 判定の論説でも、思想は完全に福沢ということがあり得るのである。

このような問題をはらむ『全集』のうちにいる福沢をいかにすれば見つけだすことができるのであろうか。

井田メソッドの判定と四つのカテゴリーの関係

そこで無署名論説の認定に関する論者自身の考えを述べる前に、まず井田メソッドの判定と先に論者が提唱した四つのカテゴリーの関係についてまとめておきたい。

論者が提示したカテゴリーは、無署名論説を分ける概念的区分である。現実に区別がつくかどうかはさておいて、無署名論説は四つに分類できると示しているに過ぎない。いっぽう井田メソッドの五通りの判定は、主に福沢が関与したと思われる分量に着目して下された結果としてある。それゆえ、カテゴリーと判定とは重なるところとくい違うところがある。

井田メソッドで A 判定の論説は、多くカテゴリーⅠに属すると考えられる。文体と語彙のデータから、社説記者の書きぐせがまったく検出できないのなら、やはり真筆と見なさざるをえない。また、E 判定のもので、裏付けがないため福沢が立案したと証拠づけられない論説は、カテゴリーⅣと推定される。つまり社説記者が福沢の検閲を経ずに掲載した論説と考えられる。ところが、同じ E 判定でも、仮に名誉の E と呼んだものは、書簡などで福沢がアイディアを出したと証明できるかぎり、カテゴリーとしてはⅡの福沢立案記者起稿に属するのである。先の北川起筆の論説などがそれにあたる。

問題は、B ・ C ・ D 判定の論説とカテゴリーⅡ・Ⅲの関係であるが、両者の対応は相当に微妙である。それというのも、井田メソッドは福沢が執筆した全文に対する割合に着目して判定しているのに対して、論者が提案するカテゴリーは、福沢のアイディアがどこまで文面に反映されているかを基準としているからである。

先に引用した高橋義雄の文章に、「或る時は初めより墨黒々と訂正せられ(たり)又或る時は僅かばかりの加筆で通過する」という部分があったが、それが井田メソッドの判定と論者のカテゴリーの差をもっとも如実にあらわすことになる。論者の立場では、アイディアが福沢に由来するものであるかぎり、添削の程度いかんにかかわらず、それはカテゴリーⅡに属するのであるが、井田メソッドでは、訂正が多ければ多いほど、言い換えれば下書きの出来が悪ければ悪いほど、上位の判定が付けられてしまうのである。

井田が示す基準によれば、B 判定の多くはカテゴリーⅡに入ることになりそうであるが、福沢立案と証明できるならば、C ・ D ことによっては E 判定のものでも、同様にカテゴリーⅡと見なされる。また、C ・ D 判定なら、多くはカテゴリーⅢとなりそうであるが、名誉の E に準じるほとんど添削を要さなかった良質論説については、福沢立案であるかぎりこれまたカテゴリーⅡということになる。このように井田メソッドと論者のカテゴリーにはずれがある。

2  井田メソッド以外の抽出方法と今後の研究展望

福沢をいかに見つけだすか

論者としては、福沢の思想と呼びうるのは、厳密にはカテゴリーⅠ論説のみであろうと考える。そうであるとすると現行『全集』で 9 巻分ある「時事新報論集」の規模は、かなり小さなものとなることが予想される。とはいえ、カテゴリーⅡの、福沢が立案して記者に書かせた論説も、彼の思想を知るための大きな手がかりとはなる。それらは福沢の執筆ではないと断ったうえで、『全集』には収めるものの、はっきりと分かるような形で別置すべきであろうと考える。そのように書くのは簡単ではあるが、問題は膨大な数の現行「時事新報論集」からカテゴリーⅠを効率よく探し、さらに進んでカテゴリーⅡのものを選び出すことができるかどうかということである。

まず、カテゴリーⅠの論説をあぶり出すについては、消極方向からではあるが、井田が指摘していない二つの方法が考えられる。それは、状況証拠の積み重ねから、

  • (1)福沢が無署名論説を執筆できなかった時期を除外する、
  • (2)福沢がけっして書くことができなかったであろう内容を含む論説を除外する、

ということである。

さらに、福沢執筆ではないと判定された諸論説からカテゴリーⅡのものを選び出すのには、やはり書簡での言及状況やカテゴリーⅠと認定された論説を手がかりにするより仕方ないようである。自らが立案した論説について真筆論説や書簡でまったく触れなかったことは十分に考えられるので、ほんとうはカテゴリーⅡの論説なのにⅢと推定されてしまうものがでてしまうのはしかたのないことである。

以下ではカテゴリーⅠの論説を探求するための二つの方法をより詳しく説明したい。

福沢が無署名論説を執筆できなかったであろう時期を除外する

福沢はテーマを異にする論説の執筆を同時並行的には行わなかったようである。論者の知るかぎりでは『学問のすゝめ』の第 9 編から第 14 編と『文明論之概略』の執筆時期が重なっているのが確認できるだけである。とはいえこの場合は非常に稀な例外ともいうべきもので、毎月刊行するリーフレット形式の『学問のすゝめ』が、書き下ろされつつあった『文明論之概略』の下書きの役割を果たしているため、相互に密接な関係がある。

また、『時事新報』に連載された長編論説は、後にも触れる『兵論』(1882-08/10)を除いて、一回分が書き上げられるごとに紙面を飾ったのではなく、完全に脱稿してから掲載されたということから、署名論説の執筆期間(掲載期間ではない)には、カテゴリーⅠの無署名論説の起筆は難しかったのではないか、という推定が成り立つ。たとえば『福翁自伝』は口述筆記の形式をとっているものの、できあがった原稿に納得のいくまで推敲が加えられたうえで完成されたものである。その期間は、富田によれば、1897 年 11 月から 1898 年の 05 月 11 日までである。そうであるなら、よほど重要なテーマでない限り、この半年の間に『時事新報』論説を手ずから書くことはなかったのではなかろうか。現行『全集』にはこの間のものとして 77 編の論説・漫言が収録されているのであるが、その多くはカテゴリーⅡ以下の論説であると想像しうる。

さらに、病気の療養中や、長期間の旅行の最中にも、原稿用紙に向かうのは困難だったであろう。たとえば前者として創刊翌年の 1883 年 07 月 06 日から 08 月 10 日までリューマチで病臥したことが書簡から判明している。さらに後者として福沢は 1886 年 03 月 10 日から 04 月 04 日まで近畿地方への、1892 年 04 月 25 日から 05 月 16 日まで山陽・京都地方への旅行に向かっているのであるが、当時の郵便事情からいって、この期間に自ら執筆した論説が掲載されることはなかったであろう。このようにカテゴリーⅠの論説が掲載された可能性が少ない時期を除外することで絞り込みをおこなうことが可能なのである。

参考:時事新報掲載署名著作一覧

題名執筆期間初回掲載日終回掲載日掲載日数出版御届年月日刊行年月日備考
時事大勢論1882-03 頃1882-04-051882-04-1461882-04-191882-04-00草稿未残存
帝室論1882-04 頃1882-04-261882-05-11121882-05-131882-05-00草稿未残存
兵論1882-08 上旬~ 1882-10 上旬1882-09-091882-10-18181882-11-041882-11-00草稿未残存
徳育如何1882-10 頃1882-10-211882-10-2541882-11-061882-11-00草稿未残存
学問之独立1883-01 頃1883-01-201883-02-0581883-02-211883-02-00草稿未残存
全国徴兵論1883-03 頃と 1883-12 頃1883-04-051884-01-0761884-01-111884-01-00草稿残存・ 1883-04 と 1884-01 に 3 日づつ掲載
通俗外交論1884-05 頃1884-06-111884-06-1761884-06-111884-06-00草稿残存
日本婦人論1885-05 頃1885-06-041885-06-128未確認未確認草稿残存・明治版福沢全集に初収録と推定
日本婦人論後編1885-06 頃1885-07-071885-07-17101885-07-151885-07-00草稿残存
士人処世論1885-09 頃1885-09-281885-10-29111885-11-271885-12-00草稿未残存
品行論1885-11 頃1885-11-201885-12-01101885-12-071885-12-00草稿未残存・執筆メモ残存
男女交際論1886-05 頃1886-05-261886-06-0381886-05-281886-06-00草稿未残存
日本男子論1887-12 頃1888-01-131888-01-2410御届義務消滅1888-03-06草稿未残存
尊王論1888-09 頃1888-09-261888-10-069御届義務消滅1888-10-23草稿未残存
国会の前途1890-11 頃1890-12-101890-12-2312御届義務消滅1892-06-06草稿未残存・以下 3 編と合本
国会難局の由来1892-01 頃1892-01-281892-02-058御届義務消滅1892-06-06草稿残存
治安小言1892-02 頃1892-02-281892-03-045御届義務消滅1892-06-06草稿未残存
地租論1892-04 頃1892-04-291892-05-089御届義務消滅1892-06-06草稿未残存
実業論1893-03 頃1893-03-301893-04-1515御届義務消滅1893-05-03草稿残存
福翁百話1895/1896-02 頃1896-03-011897-07-04100御届義務消滅1897-07-20草稿残存
福沢先生浮世談1897-12 頃1898-01-051898-01-116御届義務消滅1898-03-01草稿未残存
修業立志編1886 頃/1897 頃1886-02-021897-07-31?御届義務消滅1898-04-16草稿未残存・全集未収録
福翁自伝1897-11-00 ~ 1898-05-111898-07-011899-02-1667御届義務消滅1899-06-15草稿残存
女大学評論・新女大学1899-08-16(評論 8)/08-26(評論 17)1899-04-011899-07-2334御届義務消滅1899-11-24草稿残存・一部執筆日付入
福翁百余話1897-03-09 ~ 1897-07-131897-09-011900-02-1119御届義務消滅1901-04-00草稿残存・執筆日付入
痩我慢の説1891-11-27 脱稿1901-01-011901-01-032御届義務消滅1901-05-00草稿残存
明治十年丁丑公論1877-10 頃1901-02-011901-02-108御届義務消滅1901-05-00草稿未残存・「痩我慢の説」と合本
旧藩情1877-05 頃1901-06-011901-06-099御届義務消滅未刊行草稿残存・大正版全集に初収録

福沢が書けなかったはずのテーマの無署名論説を除外する

前項は、福沢が物理的に執筆することができなかった期間の論説をまとめて外すという方法を述べたのであるが、ここでは、福沢が知らなかったはずの話題を扱った論説をカテゴリーⅠに含めない、ということについて提案したい。

いかに福沢といえども世上のいっさいの問題に精通していたわけではない。たとえば主治医の松山棟庵が伝える次のような逸話がある。

福沢先生とは三十七年来のお馴染であるが、種々普通の我々とは違がつた所があつた。第一身体は見た所からあの通り御丈夫であったが、種々の場合に臨んで見れば見るほど隙のない健康なお方であつた。近くは三十一年の大患が癒つた計か、心身機関の不調子がアヽ迄迅速に解けて行くとは何うも不思議で堪らない。或時先生にお話すると「左様か。生来の健康の外に別段人と異つた所もないが、唯一つの心当りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない。随分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて来るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざむざ汚す様な機会をつくらぬのだ」と。先生は嘘をつく方ではない。先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう。(「故福沢翁」『福沢先生哀悼録』 193/194 頁)

この福沢の話自体は脳卒中の発作以前になされたものであろう。なお、いちおう念のために「金玉」は「きんぎょく」である。松山も言うように、当時としては(現在ではなおさら、か)珍しく、福沢が性風俗関係の店と無縁であったのは真実であろう。このことは『福翁自伝』でも繰り返し述べられている。そうであるとするなら、いわゆる三業地に題材をとった論説や漫言はすべて福沢の起筆ではないということになるのではなかろうか。その業界に詳しい記者が多くいるなかで、あえて福沢が直々に筆を執る必要はないからである。

また、『時事新報』の記事によれば、福沢は 1887 年 03 月 21 日に新富座で初めて芝居を見たのであるが、その事実から、それ以前に掲載された芝居に題材をとった論説・漫言も福沢の筆ではないということになる。演劇に非常な関心を寄せていた社説記者は高橋義雄だった。回想録『箒のあと』には、

「明治十八(一八八五)年頃と思ふが、如何なる動機であつたか私は頻に演劇改良論を唱へ、時事新報にも之を論述した事があつた」(上巻 70 頁)

とある。こうした逸話の発掘からも論説の本当の起筆者を推定する手がかりが得られるのである。

福沢が社説を書かざるをえなかった時期はいつか

ここまでの二つの項は、福沢が書けなかった時期や無縁であったテーマの論説を除くという、いわば消極的側面からあぶり出すという手法であったが、反対に年譜や書簡などから福沢が単発の論説を書かざるをえなかった時期を推定することが可能である。1882 年の『時事新報』創刊以降 1898 年の脳卒中の発作まで、福沢が一冊の単行本も出版しなかった年は、

  • 1887 年、
  • 1889/1891 年、
  • 1894/1896 年

の三つの時期である。

このうち 1887 年は中上川・高橋の相次ぐ退社があった年であり、統一されたテーマで長編論説を書くゆとりがなかったことが想像される。逆にいえば日々の社説に追われていたということである。じっさい山陽鉄道の経営のため神戸に去った中上川に宛てた書簡(1887-07-27)には、高橋まで退社したため急遽編集を担当していた石河に執筆に回したが容易に間に合わず、自分は相変わらず忙しい、との記述がある。この時期にはカテゴリーⅠ論説が多く含まれていることが伺われる。

また、次の 1889 年から 1891 年までの 3 年にわたる空白期間は、1888 年 10 月に起こった時事新報社内の内紛が尾を引いているようである。それは中上川と高橋の後を埋めるべく育成していた石河・渡辺および新参の菊池武徳が社内の体制に不満をもち、結果として翌年一月の渡辺の退社を招くことになった内紛である。福沢は書簡に引退したくてもできないもどかしさを綴っている。日原昌造宛の書簡(1889-02-02)には、「只今は老生一名之外に二少年あるのみ。随分忙しき次第に御座候」とある。この二少年とは、石河と菊池のことであろう。この時期にも背いた若手記者たちに腹を立てつつも、多くの社説に手を染めたのであろう。社説なしの新聞などあり得ないからである。

最後の空白期間である 1894 年から 1896 年までの 3 年は日清戦争を挟んだ時期であり、従来までは戦争を扇動する社説を大量に書いていたため単行本の出版がなかったと解釈されてきた。その当否は後に詳しく述べることにしたいが、書簡からうかがうかぎり、この時期には、石河のほか北川や堀江が育っていて、社説記者が充実してきたことが分かる。また、還暦を過ぎた福沢としても『時事新報』からの全面的な引退を考えていた節がある。

これら三つの時期はまるまる一年以上単行本の刊行がなかった期間であるが、書簡によって福沢の日常がさらにあぶり出されれば、書かざるを得なかった時期をよりいっそう厳密に確定できるだろう。

どのように調査を進めてゆくべきか

現在までのところ膨大な「時事新報論集」から福沢の真筆をより出すという作業は緒についたばかりである。その仕事を進めるためにまず何より確かめなければならないのは、石河がカテゴリーⅠの論説を確実に選び出す能力を有していたかどうかである。もしそのための鑑識眼がなかったとすると、現行の「時事新報論集」は福沢の思想を追求するにはまったく無価値なものとなり、『時事新報』のオリジナルに立ち返って一から選び直さねばならなくなる。

そこで論者は創刊から石河が入社する直前の 1885 年 03 月末までの 3 年 1 ヶ月の大正版「時事論集」論説を検討して、石河が井田メソッドを身につけていたかどうかの推測を試みることにした。前にも触れたように、大正版の「時事論集」の純度は昭和版のそれよりも高いと考えられるため、石河が入社以前の、したがって自らが関与した可能性のない諸論説からカテゴリーⅠとおぼしきものを的確に選択していたなら、その能力があったとみなすことができる。

その結果は 53 編中 31 編が推定カテゴリーⅠとなった(約 58.5 %)。福沢が署名論説で用いた気配のない言い回しや用語を含む論説を厳しく落とした結果として約 6 割が残っているのであるから、確度はかなり高いという印象である。残りの四割も福沢らしさがまったく感じられない論説はほとんどなく、語彙からいって非常に問題があると思われたのは、一般によく知られている「東洋の政略果たして如何にせん」(1884-12-07/12)の前半部だけであった。

このようにしてみると、「抄写」がいつ作られたのかは判然としないにせよ、石河自身の手で選んだとするならばやはり井田メソッドに近い方法を身につけていた、と推測できる。福沢の文体を熟知していたのは事実であるから、それは当然の事ではある。おそらく、「~あらんなれども」や「身躬から」また「視做す」といった福沢に特徴的な表現を手がかりにカテゴリーⅠの論説を選び出したのではないか。

大々的に増補されている昭和版「時事論集」まで範囲を広げるなら、そこにカテゴリーⅡ以下の不純なものも大量に含まれているとはいえ、少なくともカテゴリーⅠの純粋に福沢の論説はすべて収められていることになろう。研究にあたって六千編もある『時事新報』論説のオリジナルに立ち返る必要がないというのは喜ばしいことである。選び出す手間が約四分の一となるからである。

その場合は、井田が提唱するように、

「認定作業の手順としては、明治三十年頃の『時事新報』からはじめて、福沢と三人の弟子たちの文章について詳細なデータを集め、三人のうちでいちばん多いと思われる石河、ないし石河的な論説を福沢のものから判別した上で、残った比較的少数の論説について北川か堀江かに振り分けてゆく」(『歴史とテクスト』 32 頁)

という方法が、カテゴリーⅠをより分けてさらに次の段階へ進むのにもっとも効率的であるということになる。

そこで第三章と第四章では、「時事新報論集」研究を進めるための予備的な作業として、福沢と社説記者たちの語彙・文体の特徴をまとめることにしたい。