時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その3

last updated: 2015-03-12

第三章 『時事新報』の「我輩」たち(一)中上川彦次郎時代

1  中上川彦次郎時代前期(1882-03/1884-07)の概観

福沢存命中の『時事新報』の時期区分

本章および次章では福沢存命中の『時事新報』を三つの時期に区分する。すなわち中上川彦次郎時代、伊藤欽亮時代、福沢捨次郎時代である。この時期区分は『福翁自伝』に

「発行の当分、何年の間は中上川彦次郎が引受け、其後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎がこれに任じ」(⑦ 250 頁)

とあることに由来する。これらの人々は『時事新報』の発行名義人として新報社の社長または総編集(編集部長)として紙面全体を統括していたのであるが、ここで注意しなければならないのは、編集部長は必ずしも主筆(論説委員長)というわけではない、ということである。これら三名のうち実際に筆を執ったと確認できるのは中上川だけで、後の二名は実務上の裏方に徹していたようである。

したがってこの時期区分はまったく形式的なものであり、社長や編集部長の交代にともなって論調が一変するようなことはなかった。全体の方向を決めていたのは言うまでもなく福沢自身であり、彼が退くにつれて伊藤時代以降に石河の発言力が強まっていったように思われる。

中上川時代の「我輩」たち

中上川が『時事新報』の主筆と時事新報社の社長を兼務していたのは、創刊の 1882 年 03 月から 1887 年 04 月までのまる 5 年の間である。福沢の 48 歳から 53 歳にかけてであり、気力も体力も十分に残されていた時期であったから、自ら筆を執ることも多かったし、また社説記者に起稿を命じてそれに完膚無きまでの添削を行うこともまた多々あった。

福沢立案論説の実際の起筆者は、中上川の他には社説記者の波多野承五郎・高橋義雄・渡辺治の 3 名であった。さらに矢田績が袖浦外史の筆名で社説を書いているのが確認できる。1885 年 04 月には石河が入社することになるが、高橋が退社する 1887 年 07 月までは社説を担当することはできなかったようである。したがって中上川時代に石河の論説が掲載されている可能性は低い。また、波多野は 1884 年 07 月に外務省に入省して編集部を去っている。この波多野は『時事新報』の論説に影響力があったと考えられるので、彼の退社をもって中上川時代を前期と後期に分けることとしたい。

井田メソッドによって起筆者を確定するためにまず何より必要とされることは、想定される筆者が確実に書いた論説類をなるだけ多く集めて基本データとすることである。後年に執筆された文章が参考にならないわけではないが、やはり近い時代のものが好ましい。そうであるとすると、社説記者の無名時代の署名入り論説を探さねばならないことになり、データに制約が生じてしまうことがある。

たとえば中上川と波多野とでは『時事新報』の創刊前から『交詢雑誌』の事実上の編集長であった波多野のほうが使えるデータは多い。波多野は旺盛な意欲で同誌に論説を執筆しているし、『時事新報』でも、「論説」欄に署名入りの「大院君李夏応を論ず」(1882-09)というかなり長い文章を書いている。さらに数編筆名で同じ「論説」欄で筆を執っているのが確認できる。思うに彼は書くのが好きだったのではあるまいか。

中上川については主筆であったにもかかわらず、いやそれ故にというべきか、署名入りの論説は発見できない。『時事新報』に連載後単行本として出版された『日本婦人論後編』(1885-08)の「序」には中上川の署名があるが、この序は本文と同じく完全に福沢の文章である。論者の調査では、『民間雑誌』第 2、第 3 編に本名で書いている「人民教育の説」と「青砥左衛門の話」(いずれも 1874-06)の 2 編と、直筆原稿が残されているという『時事新報』の雑報「鹿鳴館の夜宴」(1885-05-06)だけが確実なものである。(管理人による註:「鹿鳴館の夜宴」についても御覧下さい。)さらに「論説」欄に筆名で数編執筆しているのが確認できる。

以下ではまず福沢の文章の特徴を明らかにし、次いで 1884 年 07 月の波多野退社までの中上川時代前期に重要な役割を果たしていた中上川と波多野の文章について福沢との比較を試みたい。

2  近代最大の文章家・福沢諭吉

福沢諭吉の文章への心構え

言葉とはメッセージを伝達するための手段である。文章を書くうえでこのことをとことんまで突き詰めたのが福沢であったといってよいであろう。空疎な美文のために頭脳を使うくらいなら、何も書かないほうがましである、というのが彼の考え方だった。

福沢諭吉は 1835 年 01 月、中津藩大坂蔵屋敷で廻米方(藩米の出納役)を勤める百助の次男として生まれた。百助は士分とはいえ家禄は 13 石程度の軽輩であった。翌年父の死去によって母や兄姉らとともに豊前国(大分県)中津に戻り、14 歳から 20 歳までは郷里で漢学を学んだ。ここまではごく普通の武士の倅としての素養を着実に身につけていたわけであるが、鎖国体制から欧米にたいする開国へという時代の流れが彼の洋学者としての生涯を決定づけることとなった。

1854 年 02 月、日米和親条約の締結と時をほぼ同じくして、諭吉は家督を継いでいた兄三之助の勧めにより長崎で蘭学を学ぶことになった。先見の明に富んでいた兄は弟の将来が西洋学問の修得にかかっていることを鋭く見抜いていたのである。長崎には約 1 年留まり、さらに語学を研鑽するため大坂の適塾に移った。

緒方洪庵を塾頭とする適塾は、そもそもは蘭方医を養成するための学校であったが、その頃には医師となることを目的とせずに、単に語学の修得のために入門する福沢のような者も現れていた。しかしカリキュラムは医師の養成を念頭に組まれていたから、そこで学ぶ語学も、医学や生理学また化学の論文の読解が主であったのである。

福沢は適塾に 3 年在籍して最後には塾長となったが、ここで彼は、師洪庵から翻訳の方法さらには日本語の文章を書くにあたっての心構えについて重要な指導を受けたのだった。そのことについて福沢が自ら編んだ明治版『福沢全集』の「緒言」でおおむね次のように述べている。

緒方先生の翻訳の方法は一字一句にこだわらず、全体の文意を自然な日本語に移し替えるというものだった。そうする理由は、そもそも翻訳とは原文を読むことができない読者向けのもので、訳文を理解するのに原文を参照しなければならないというのは本末転倒だからである。さらに先生は文中に現れる熟語は「節用字引」(日常語字典)に載っているものに限られるべきだとも助言された、と。(① 4/5 頁の要約)そして福沢は、

「文を草するに当り思はず筆端に難文字の現はれんとすることあれば、直に先生の警を思出して之を改むるに吝ならず」(① 5 頁)

と続けている。

福沢が洪庵からこのアドバイスを受けたのは、オランダの軍事技術書である『ペル築城書』を翻訳していた、おそらくは 1856 年のことである。現行版『全集』第 7 巻に収められているその訳文は、同時代の他の人による翻訳よりははるかに分かりやすいのではあるが、まだ日本語としては十分にこなれたものとはなっていない。とはいえその後も平易な日本語で書くという心がけを忘れなかったのであろう、ほぼ 5 年後に成された「外国諸書翻訳草稿」(第 7 巻所収)中の文章はかなりよくなっているし、さらに 4 年後の「幕末英字新聞訳稿」(第 7 巻所収)は翻訳であることを忘れさせられるほど流暢な日本文となっている。

現行版『全集』のうち署名著作は第 7 巻までであるが、そのうち第 1 巻の全てと第 2 巻の『雷銃操法』まで(1867/1870)および『ペル築城書』に始まる第 7 巻の後半部(1856/1866)は、福沢のオリジナルな著述ではなく翻訳なのである。福沢は日本文を書くという技術を 14 年もの間携わった翻訳という作業を通して身につけたことになる。

1858 年 10 月、福沢は藩命によって江戸におもむき、中津藩中屋敷内に蘭学塾を開いた。後の慶應義塾である。翌年開港した横浜を見物してオランダ語が国際通商の場では役に立たないことを知って独学で英語の習得を開始した。また、日米通商修好条約の批准のため幕府の咸臨丸がサンフランシスコに行くことを知った福沢は、軍艦奉行の木村摂津守に掛け合って 1860 年春のその航海に参加することができたのだった。

咸臨丸での有能な働きぶりが認められた福沢は、帰国後外国奉行の翻訳方に雇われることになった。翌 1861 年中津藩士土岐太郎の次女錦と結婚してまもなく、同じ年の 12 月には幕府の遣欧使節の随員としてヨーロッパにおもむき、翌年 12 月に帰国した。1863 年から 1866 年までは翻訳方の仕事をするいっぽう、塾生に英語を教えるという日々を過ごしていたところ、1867 年 01 月から 06 月まで幕府の軍艦受取委員の随員としてアメリカ東部を巡ることとなった。1868 年の明治維新によって幕府が消滅したためその後は慶應義塾の経営と著述業に専念することになった。『西洋事情』(1866/1870)、『学問のすゝめ』(1872/1876)、『文明論之概略』(1876)といった著作は 1877 年の西南戦争までになされたのである。

西南戦争以後の福沢の動向については、すでに述べたとおりである。82 年 03 月の『時事新報』創刊によって、彼の仕事は、それまでの文筆業と学校運営に加えて新聞社の経営という三本柱で構成されるようになったのであった。

福沢の文章の特徴

このような次第であるから、福沢の文章の特徴はまず何より、難しい熟語が使われていないうえにごく平易で読みやすい、ということである。後により詳しく触れることになるが、よく知られている『時事新報』論説「東洋の政略果たして如何せん」(1882-12)の前半部はその点で真筆とはいえなくなってしまうのである。ほんものの福沢文とはたとえば次のようなものである。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨をなさずして各安楽に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。(③ 29 頁)

有名な『学問のすゝめ』初編(1872-02)の冒頭であるが、この誰でもが知っている分かりやすい日本文も、英文和訳とその注解で構成されていることに注意しなければならない。すなわち最初の一文は「云へり」と引用であることが示されているのであるから、どこかに原典があるわけである。

その出典の候補はいくつかあるが、もっとも有力なのは「アメリカ独立宣言」(1776-07-04)の一部、「all men are created equal, that they are endowed by their Creater」の翻訳であるという説である。福沢が「天」を「造物主」の訳として使用しているのは、第二文に、「天より人を生ずる」と書いているところから明らかであり、以下の注解も、独立宣言原文で引きつづく部分の意訳になっている。その他の人権宣言と比較してもこの独立宣言が出典としてもっともしっくりくるように思われる。

福沢が「アメリカ独立宣言」を訳したのはじつはこれが最初ではなかった。すでに『西洋事情初編』(1866-11)に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立の檄文」としてその全文を翻訳しているのである。問題の部分は「天の人を生ずるは億兆皆同一徹」(① 323 頁)となっていて、文意が不明確というわけではないが、ややぎこちない印象である。この訳では今日のような人口に膾炙する名言とはなっていなかったであろう。

福沢は「equal」を日本語に移し替えるにあたって、当初は「億兆皆同一徹」としたわけであるが、『学問のすゝめ』では、その単語に単独の訳語をあてることをせずに、思い切って「上に……造らず」「下に……造らず」と二つの否定辞を重ねることで「平等性」を強調しようとしたのである。そのため最初の訳では一回しか出てこなかった「人」が四回も使われることになったが、くどい感じはせずに、かえってリズミカルな名調子になっている。これが福沢の日本文のリファインの仕方であった。

こうした平易にして明晰な文体はそれ以後も変わることはなかった。執筆の日付が確定できる最後の論説は、自筆原稿に 1898 年の「八月二六日」と書き込みのある『女大学評論』の一部である。そこから少し引用してみよう。

今の日本の習俗に於て、仕官又は商売等、戸外百般の営業は男子の任ずる所にして、一家の内事を経営するは妻の職分なり。衣服飲食を調へ家の清潔法に注意し又子供を養育する等は都て人生居家の大事、之を男子戸外の業務に比して難易軽重の別なし。故に此内事の経営を以て妻が夫に仕ふるの作法なりと云へば、夫が戸外の事に勉むるは妻に仕ふるの作法なりと云はざるを得ず。(⑥ 494 頁)

これが脳卒中の発作に倒れる 1 ヶ月前の福沢真筆で、ご覧のとおり難しい熟語も複雑な構文もないいたって読みやすい文章である。前年秋の明治版『全集』「緒言」で披露していた作文の心構えは忠実に実行されている。『学問のすゝめ』から 26 年を経ても、福沢の文体と語彙に変化はほとんど見られないのである。

そのようにしてみると、福沢の文章であるかどうかを見分けるためのごく原初的な方法として、まずは音読して読みやすいかどうかを確かめてみることがあげられる。本物の福沢文であるなら、難しい熟語も使われていないので、多くの場合一目見てそのまますらすら読めるはずである。福沢以外の執筆であるなら、どこかしらに引っかかりがある、そう考えてよいであろう。

語彙と文体の観点からより客観的に

もちろんそれはあまりに印象にたよった判別法なので、かんじんの万人を納得させる客観性をもつにはほど遠いのは明白である。さらに、後に詳しく述べることになるが、高橋義雄と北川礼弼の二人の社説記者には、内容の充実した論説を易しい熟語と明晰な文体で綴ることができるという優れた才能があった。前項にある音読しやすいという条件を満たすだけでは福沢・高橋・北川の三人を区別するのは難しいのである。

そこで独自の語彙、独自の文体を抽出しなければならないのであるが、それもなかなか一筋縄ではいかない。なぜなら、社説記者たちは高橋のいう「影武者」として、福沢と似た文章を書くことを要請されていたため、慣れるにつれて言い回しだけではなく語彙まで近づいてしまうからである。

それでも使用されていれば福沢の可能性が高いという語彙として、「みずから」を「身躬から」、「みなす」を「視做す」、「きぼう」を「冀望」とする表記がある。これらについては社説記者もそれぞれ「自ら」「見做す」「希望」という安定した表記で使うことが多いため、区別のための大きな手がかりとなる。また、過去を意味する熟語として「在昔」を用いるのも福沢ならではであるようだ。さらにそれほど多く出てくるわけではないが、福沢独自の表現として、皇統が連綿と続くことを「一系万世」とする書き方がある。大日本帝国憲法が発布された 1889 年以降も、その第一条にある「万世一系」という一般的表記を用いないところをみると、かなり意図的であったようである。

また、福沢は社説記者たちより送りがなを少なめに振る傾向がある。福沢が「尋れば」「直に」「然も」などとするのにたいし、記者の起筆文では「尋ぬれば」「直ぐに」「然かも」となっていることが多い。ただ、送りがなは熟語の表記とは異なり誰にでも多少のぶれはあるので、決め手にはなりにくい。さらに、福沢文では「あらんなれども」「然りと雖ども」「是を喩えば」「独り是れのみならず」「果たして然らば」などが多用されることで独自のリズムを醸し出すのであるが、これらは目立つ表現であるため社説記者たちも真似をして結果無惨にも失敗しがちなのである。

無署名著作の起筆者を推定する場合は、まず

  • (1)すらすら音読できるか、
  • (2)できたうえで表記法は福沢と矛盾しないか、
  • (3)その内容を保証する署名著作かカテゴリーⅠ論説が存在するか、

の順で確認をおこない、全てをクリアした場合にカテゴリーⅠと判定すれば高い信憑性を確保できるように思う。以下では各々の社説記者との異同を見ていきたい。

3  福沢の甥・中上川彦次郎

中上川彦次郎の文章

よく知られているように中上川は福沢の甥である。彼は 1854 年 08 月中津藩士中上川才蔵、福沢の姉婉の長男として中津に生まれた。1874 年 10 月から 1877 年 12 月まで英国に留学し、慶應義塾の教員を経て 1879 年 10 月外務省少書記官、ついで公信局長、最後に権大書記官となった。1881 年 10 月に明治 14 年の政変で官を逐われて翌年 27 歳で『時事新報』の主筆となったことはすでに述べた。『時事新報』後は、山陽鉄道・三井銀行・三井鉱山・三井物産・鐘淵紡績の経営に携わり、福沢が没した直後の 1901 年 10 月に 47 歳で生涯を終えた。

中上川の文章については石河幹明が興味深い感想を寄せている。これは『福沢諭吉伝』第 3 巻(1932-05)にも出典を明示せずに再録されているが、それよりもはるか前に書かれた菊池武徳著『中上川彦次郎君』(1903-07)に石河が寄せた文である。

君は日々衆社員と共に出勤退出の時間を共にし、編集の事を指揮する傍に会計の事をも聞き、頗る多忙なる其間に自ら筆を執て社説を草し、又社員の起稿に係る論説を一々細に校定し、之を福沢先生に呈出して其検閲を乞ひ、先生より還付さるゝときは之に仮名を付けて編集に付するを例とし、多く他人の手を労せず、時として自ら探聞したる雑報を記すに軽妙簡潔、巧に事の要を摘むと共に一種の趣致を存して小品文の妙を極むるもの多し。蓋し君の文章は福沢先生の気焔なく又その鍛錬なしと雖も、其言はんと欲する所を云ひ尽くして些の渋滞なく、文理整然平易解し易きの一点は先生の神髄を得たるものと云ふ可し。(『福沢諭吉伝』第 3 巻 243/244 頁)

この引用の最後の 2 行は、福沢と中上川の文章の違いを端的に表している。確かに中上川の文は理路整然としているのではあるが、どうにも平易にすぎ、ある意味面白みに欠けているのである。それを証する例として「鹿鳴館の夜宴」の一部を掲げてみよう。

一昨五日は銀行集会所同盟員の催にて内山下町鹿鳴館に松方大蔵大臣を請し弊政回復の祝宴を開きたり。(中略)宴の将に了らんとするに臨みて、渋沢栄一氏起て大蔵大臣はじめ諸賓客の来臨を謝し、尚ほ此祝宴を開くの趣意より弊政の過去現在の有様を詳細に説き、我々民草が過去の厳冬粛殺の苦を免かれて今日陽春百花の候に遭遇したるは、偏へに大蔵大臣はじめ廟堂諸公の賜ものなり、との意を述べる。次に松方大蔵大臣起て諸氏の厚意を謝し、弊政回復の事の悦ばしきは渋沢氏の演説せし通りなれども、此事を致したるは決して同大臣の力の与る所にあらず、全く今上天皇陛下の聖徳と銀行者諸氏の誠実と偶然の天幸と相合して然るを得たるものに外ならず(中略)と述べ、追て宴了るの後、主客共に再び楼上に集まり、閑談笑語午後十時に至りて退散したり。此日宴会の余興には昼夜の打揚げ花火及び仕掛け花火を揚げ、楽を奏し、館の内外に球燈を点する等にて、景況頗る賑はしかりし。

まさに石河が賞賛するような明晰な文である。とはいえ福沢の躍動感ある文体とはずいぶん異なっていることは、ここからも伺われるのではないか。また、松方大臣の発言とされているとはいえ、論者の知るかぎりでは福沢の使用することのない「聖徳」が躊躇なく用いられていることからも、福沢のものとされたら違和感が残るものである。

ところで菊池の『中上川彦次郎君』には、主筆として中上川が書いたという論説が 3 編収められている。「朝鮮事変の処分法」(1884-12-23)、「遣清特派全権大使」(1885-01-15)、および「遣清大使」(1885-02-24)である。前二者は現行『全集』に収録されているが、最後は未収録となっている。菊池がこれらをあえて中上川の筆と断定した根拠はよく分からない。というのも、彼が編集部入りしたのは中上川が山陽鉄道に転じた後の 1888 年 02 月であり、彼らが新報社で共に働いたことはなかったからである。中上川・福沢没後二年の段階では、これらが福沢の論説ではなく中上川のものだという了解が『時事新報』関係者のうちにあったのであろうか。

内容はいずれも 1884 年の暮れに朝鮮で起きた甲申政変の事後処理にあたって、清国政府に対し強硬な態度に出るよう日本政府に促しているものである。文体と語彙には福沢らしさをうかがわせる部分はなく、「朝鮮事変の処分法」では、福沢が通例「自躬から」と表記するところが「躬から」だけになっていること、また「遣清特派全権大使」では福沢なら「冀望」と書くところを通常の「希望」という表記になっていることから、福沢以外の人物の起筆であることは推定できる。

また、遣清大使に関する二つの論説に不用意に出てくる「韓廷」「清廷」という用語も福沢としては不自然である。皇帝(天皇・国王)と政府の分離をつとに唱えていた福沢は、両者を漠然と包括してしまう廷の字を意図して避けていたように思われるからである。ほぼ同時期の「脱亜論」(1885-03)にも「支那朝鮮の政府」とあって廷は使われていない。

ただ前にも述べたように、福沢の思想の内に捉えるべきものか、社説記者の思想であるかはひとえに福沢が立案したかどうかにかかっているのであるから、それらが福沢ではなく中上川の思想である、という断定もできない。とはいえ、25 年後に石河が『福沢諭吉伝』を執筆したときには、初期の『時事新報』編集部を知る者はほとんどいなくなっていたのに対し、1903 年は 1885 年のわずか 18 年後にすぎない。福沢・中上川・渡辺を除いて『時事新報』の初期の編集部員はみな存命だったのであるから、これらの論説が中上川の思想ではなく福沢そのものであるという記憶があったなら、菊池は事実誤認をしたとして非難を受けたにちがいない。そのような様子はみられないのは、甲申政変後に「対清国強硬策」を唱えたのは中上川である、という共通認識が編集部内にあったからではないだろうか。

「日本帝国の海軍」は中上川の海軍論

このことを補強する同時代の証言として、佐瀬得三の『続々当世活人画』(1900)名士の部「中上川彦次郎」がある。その「記者としての中上川(一)」に次のようにある。

今は三井銀行の専務理事として敏腕の誉あり。簿書堆裏只管営利に忙はしき氏が、一枝の筆を命とせし新聞記者時代を窺ふは興ある業なるべし。其文を成すや早き方なり。師たる福沢翁ほど老熟はせざれど、云ひ廻しの折折軽妙なる所三田流の文章に相違無之。全体福沢翁は見掛に寄らぬ激論酷評を試みて自ら喜ぶ人なるが、氏は此点に於て翁にも増して過激深酷に渉る事あり。十余年前時事新報に連載せし日本海軍論の如き支那分割論の如き、読者の耳目を聳動し当時雄篇を以て称されたるが、孰れも氏の手に成りしものにて間々痛刺骨に入るの文句ありき。文の上のみならず言葉の上に於ても然り。分けて其最も知る所の井上馨福沢諭吉に対する批評こそ聞物なれ。随分ひどい所まで切込んで評する事あるなり。人或は此辺より此批評家を又批評して冷刻の性質を帯ぶるが如く云ひ做すものあり。如何のものにや其は能くも知らねど、今の世の成功者には概べて人情に厚き者少なきなり。(『中上川彦次郎伝記資料』 80 頁)

この文中に出てくる「日本海軍論」「支那分割論」を、『中上川彦次郎伝記資料』は、「日本帝国の海軍」(1883-02-06/13、全集未収録)と「東洋の波蘭」(1884-10-15/16、大正版収録)であるとしている。

石河も正続『全集』から落としている「日本帝国の海軍」が福沢以外の人物の起筆であることは疑いがない。「大日本帝国憲法」発布前の当時福沢は「日本帝国」ではなく漠然と「日本国」と称していたからである。イギリス留学が長かった中上川は、英国海軍をロイヤル・ネービーと呼ぶことに触発されてこのように書いたのであろう。海軍増強についてデータをもとに理路整然と組み上げられた論文で、福沢らしさが出ている部分はまったく感じられない。

「東洋の波蘭」は中上川立案高橋起筆

もう一方の「東洋の波蘭」は、掲載から 15 年後の 1899 年を想定して、清国の大陸部はイギリス・フランス・ロシアなどによって分割されたうえ台湾については日本領になっている、という内容の未来記である。この清国のポーランド化の予言はまさに的中し、日清戦争後の下関条約によって台湾は日本領となった。石河は『福沢諭吉伝』第 3 巻でこの「東洋の波蘭」を福沢の清国への領土的野心の証拠として強調しているのであるが、その同じ社説を佐瀬は中上川の論説としてあげているのである。そこでこの社説の起筆者を推定してみたい。

まず文体から検討してみるとやはり福沢の起筆ではなさそうである。この論説について井田は「交争」「洞考」「入手」など福沢が使用しない熟語を指摘して作者を高橋義雄と推定している。また冒頭近くに

「世上交通の便、東西黄白の人種をして互に相触れしむるの機会を作り優存劣滅の作用自から此機に乗じ来たりおるものにして」

とあるが、高橋はこの「東洋の波蘭」が掲載される直前に最初の著書『日本人種改良論』(1884-09)を公刊している。そこで高橋は、日本人が欧米人とできるだけ混血することによって、日本民族自体を優秀な白人に改造するべきだ、と主張し加藤弘之らの猛烈な批判にさらされていた。「東洋の波蘭」の冒頭はその主張と呼応しているように思われる。してみると、やはり下書きは当時 22 歳の高橋が担当したものとみてよさそうである。

それではなぜこの論説が高橋のものではなく中上川の思想とみなされていたのであろうか。ここからは論者の考えであるが、それはおそらく「支那分割論」のアイディア自体が中上川に由来するためである。日本による台湾領有の後再び世上の話題となったこの「東洋の波蘭」を起筆者である高橋は『箒のあと』でまったく触れていないし、福沢も書簡その他で言及してはいない。そうであるとすると、まず考えられるのは、中上川がこのアイディアを社説記者の高橋に伝授し、できあがった下書きに自ら手を入れて掲載した、ということであろう。そこで注意深く読み返すと、全般的に平易な文が続くうち、論末にいたって「呑噬」という見慣れない熟語が出てくるのに気づかされる。この呑噬は「日本帝国の海軍」において、「各国の交際は今仍弱肉強食の呑噬主義に従ふものにして」という形で中上川によって使われている用語なのである。

石河は福沢による「支那が手に入つたら其総督には彦さんが適任であらう」(『伝』③ 684 頁)という言葉を記録に留めている。従来この発言は福沢の中国への領土的野心を示すものとされてきたが、両人の死去直後には「対清国強硬策」の主張者は中上川である、という一般の理解があったとすると、この言葉は福沢による中上川へ向けられた皮肉ととるべきではなかろうか。

中上川と福沢の違い

ここではカテゴリーⅠの福沢真筆と中上川の文章を分別する方法について考えたい。まず井田メソッドにならって、書かれている内容から即座に非福沢と判定することは、先にあげたごく一部の例外を除いて避けたいと思う。「日本帝国の海軍」は海軍増強の必要について述べているが、それは福沢自身『時事小言』で強調していることでもある。そうではなくて、その論説には福沢がそれまで使用したことが確認できない「大日本帝国」「呑噬」「覆車」「希望」が使われているから、福沢真筆とは見なしがたいのである。

中上川の文章として扱ってよいと思われる論説は、先にも述べたように、「人民教育の説」「青砥左衛門の話」「鹿鳴館の夜宴」「日本帝国の海軍」の 4 編である。さらに扇城居士という筆名で論説欄に掲載された「加藤弘之君著人権新説」(1882-11)がある。時事新報欄掲載の「朝鮮事変の処分法」(1884-12-23)、「遣清特派全権大使」(1885-01-15)、および「遣清大使」(1885-02-24)の 3 編は、起筆は中上川であるらしいが福沢が筆を入れていることは間違いないので、純度はやや落ちるようだ。また今も述べたように「東洋の波蘭」は、アイディアは中上川であるが起筆は高橋であるので、文体の特徴を抽出する素材としては不適切である。

まず文体についてであるが、先に引いた「鹿鳴館の夜宴」に見られたように、あたかも特徴がないのが特徴とでもいうような、明晰・簡潔・平易な語り口である。中上川は外務省時代に公信局長に任じられていた時期があったが、公信局の任務は主として条約改正の準備のために諸外国との間で電信のやりとりをすることだった。そこではもっとも少ない字数で誤解の余地のない文章を起草する力量が求められていた。菊池は『中上川彦次郎君』において、外務公信の「一字一句も忽せにす可らざ」るところ、君は「局に当るや措置明快毫も渋滞なかりしより老功の者も窃に舌を捲きたり」と書いている。またすでに引用したように石河は「文理整然平易解し易き」と述べているし、中上川を批判的に描いている佐瀬もまた、「福沢翁ほど老熟はせざれど、云ひ廻しの折折軽妙なる」文章である、と評している。見る目は誰でも同じといえよう。

福沢と比較してみると、中上川の文体は全体に漢文の訓読調であるということがいえる。中津藩士とはいえ大坂で生まれ大坂で学んだ福沢はどのような文章にもいくらかの面白みを盛り込まずにはいられなかったのにたいし、中津育ちの中上川は真面目な書き方しかできなかったようだ。内容の充実したよい文ではあり、論理展開が巧妙であるため退屈なわけでもないのだが、福沢にあるような思わず口ずさんでしまうような名調子といったものはない。

語彙については、ほとんどは現在でもしばしば使われている平易な熟語である。ただ、福沢は用いないものもあるので判別することは可能である。先にも述べたように、福沢が「冀望」という珍しい表記を使うのに、中上川はごく常識的に「希望」を用いる。また中上川は使っても福沢の文章には見られない熟語として「呑噬」「覆車」がある。また、福沢は「大日本帝国」「韓廷」「清廷」を用いないのに中上川はこだわりなく使う、などということがある。

平易という点では福沢も中上川も同様なので、短い文章でさらりと書き流した文章では区別しにくいのは事実である。

新たに発見された中上川の論説

このような判別基準によって現行『全集』の「時事新報論集」で中上川の文章を探してみると、創刊一年の間に限定して中上川起筆であると推測しうるいくつかの論説を見つけだすことができた。

「朝鮮政府へ要求す可し」1882-05-12推定カテゴリーⅡ
「朝鮮の変事」1882-07-31/08-01推定カテゴリーⅡ
「造船の事業奨励せざる可らず」1882-12-13推定カテゴリーⅡ
「支那朝鮮の関係」1883-01-17/19推定カテゴリーⅡ
「時事新報の一周年日」1883-03-01推定カテゴリーⅡ

創刊初年の論説に福沢が責任をもってあたったことは書簡からも確認できる。そのため起筆が中上川その他であったとしても、思想の内容としてはまさに福沢自身とみなしてよいものが多いようである。ここでカテゴリーⅡとした論説は主に用語によって中上川起筆と確認できたものだが、いずれも福沢の署名著作に類似の主張を指摘することができる。また、中上川起筆の社説のタイトルは「~の~」という単純な形式が多いようだ。内容も事実の経過を淡々と追ったものが主で、「我輩」の意見はまとめの部分にほんの少し書かれているだけである。

これは思うに、福沢は最新ニュースの報道文を中上川に任せて最後にだけ自分のコメントを書き加えるようにしていたからではないか。そして確かな情報がある程度蓄積されたところで自らより本質をついた評論を書き下ろしていたようである。同時期の

  • 「朝鮮政略」(1882-08-02/04)、
  • 「朝鮮事変続報余論」(1882-08-08/10)、
  • 「朝鮮政略備考」(1882-08-05/14)

らがそれにあたり、語彙と文体とからいずれもカテゴリーⅠに属する論説と考えられる。

4  後年の外交官・波多野承五郎

波多野承五郎の文体

中上川彦次郎の名は、2001 年 04 月の三井住友銀行の発足にあたって三井銀行中興の祖として賞賛されるほどに今なお有名である。しかしながら同じく長年の間三井銀行にかかわった波多野承五郎はどうかといえば、明治から大正にかけて活躍した外交官・実業家・政治家であったにもかかわらず、今日ではすっかり忘れ去られている。ここで彼の生涯を大まかに記述したい。

波多野は 1858 年 11 月、遠州掛川藩士波多野平蔵の長男として掛川城下に生まれた。明治維新後同藩は上総柴山に移封され、承五郎も千葉に転じた。かつての主君太田資美に続いて 1872 年 03 月慶應義塾に入学し、1874 年に卒業後は慶應の教師となった。1880 年 01 月に設立された社交クラブ交詢社の機関誌『交詢雑誌』の編集に携わり、1883 年 03 月から 12 月までその編集人を務めた。また 1881 年 08 月から 1884 年 04 月まで東京府会議員でもあったから、1881 年 03 月の『時事新報』創刊当初からの社説記者であったことともあわせると、一時期は三足の草鞋をはいていたことになる。

1884 年 07 月には時事新報社を退社して外務省に入省し、中上川も在籍していた公信局に勤めた。1885 年 05 月に清国天津の領事となり、1888 年 08 月に帰国した。その後は外務書記官、総務局政務課長心得となったが、1890 年 12 月に退官している。1891 年から 1893 年にかけて『朝野新聞』の社長兼主筆、同じ 1891 年 08 月に三井銀行に入社して 1897 年から 1909 年まで理事、1912 年から 1918 年まで監査役となった。また 1920 年から 1924 年まで衆議院議員に選出され政治に身を置くことになったが、1929 年 09 月に 71 歳で没した。

波多野については福沢が『福翁自伝』に次のようなエピソードを伝えている。

(慶應義塾では)漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云ふやうな少年が出来て来た。物事がアベコベになつて、世間では漢書を読でから英書を学ぶと云ふのを、此方には英書を学んでから漢書を学ぶと云ふ者もあつた。波多野承五郎などは子供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかつたが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学の跡で漢学を学べば造作もなく漢学が出来て、今では彼の通り何でも不自由なく立派な学者に成つて居ます。(⑦ 166/167 頁)

波多野の入学は 13 歳のときであり、それまで藩校などで体系的な教育を受けた形跡はない。そのあたりがたとえ後には儒教に批判的になるとはいえ、一般教養としての漢学をしっかりと身につけていた福沢や中上川と波多野の違いであったようである。先にも述べたように波多野の残した文章のサンプルは多く、文体の特徴をよりだすのは比較的容易である。それを一言で表現するなら、難解な熟語を多用したややぎこちない文章、ということができよう。現在まで判明している波多野の署名論説は次の通りである。(発表誌はすべて『交詢雑誌』)。

「独逸国の武勇」第 88 号1882-07
「帝王論」第 90/92 号1882-07/08
「国権論(国権拡張の費用、第一)」第 91 号1882-08
「帝王論続編」第 94/95 号1882-09
「作文論」第 95/100 号1882-09/11
「僻地政党者の心得」第 107 号1883-01
「水月鏡花」第 108 号1883-01
「演説の禁止を解釈す」第 109、111 号1883-02

このように『時事新報』が創刊された年の夏から翌年春先までの『交詢雑誌』での波多野の活躍ぶりは大変なものである。とくに 1882 年 08 月から 09 月にかけては同じ号に 2 編の連載を掲載しているほどである。1883 年 03 月からは編集人となったため署名論説は見られなくなるが、無署名の記事の多くは波多野の文章であると思われる。

新聞紙上での波多野の筆跡をたどってみると、まず署名論説としては、論説欄掲載の「大院君李夏応を論ず」(1882-09-07/14)がある。この論説欄は創刊一週間後の 03 月 09 日に設けられ同年 11 月 08 日に消滅しているが、容易に時事新報欄への執筆がかなわない社説記者たちの不満をガス抜きするために設けられた欄と思われる。ほかにも高橋義雄が本名で執筆しているのが確認できる。多くは筆名で書かれているものの、本名や出身地をもじったものが多いため、執筆者を推定することは可能である。芝山麗は柴山藩出身の波多野であり、山石高が岩公のもじりであるとしたら森下岩楠、扇城居士は中津扇城のことであるから中上川となろう。

そのため芝山麗の筆名で発表されている「国害を醸成するは保守の輩に在り」(1882-05-01、03)は波多野作と分かる。さらに同じ年の秋には飛瀑嶺真人なる筆名で「東洋政略緒言」(1882-11-08)が掲載されているが、論者の見るところこれも波多野のものである。この論説は『時事新報』紙上に東洋政略というタームが用いられた最初のものであり、後に述べる同年 12 月に掲載された社説「東洋の政略果たして如何にせん」と密接な関係がある。このことについては後に詳しく触れたい。

そこで以下では波多野が署名入りで書いた論説を紹介してみよう。

「帝王論」と「大院君李夏応を論ず」

署名論説は人の求めによって書いたものではなく、自らの興味に従って成されたものであるから、そこから文体や語彙の特徴をよりだすことができるばかりではなく、当時の波多野がどの分野に関心を抱いていたかも分かる。『時事新報』と『交詢雑誌』に掲載された論説を時系列によって読んでみると、その頃の波多野の主張は、隣国朝鮮で起こった壬午軍乱の影響が日本に波及するのを防ぐため、強力な君権を背景にした責任内閣制度を早急に開始し、その内閣のもとで海軍力の増強に務めなければならない、というところにあった。慶應義塾出身者には珍しくプロイセン軍国主義を礼賛しており、明治 14 年政変後政府中央にしっかりと位置を占めていた伊藤や山県、松方らとほとんど同じ考えである。

とはいえ波多野は 1882 年の 08 月から 09 月にかけて『交詢雑誌』に発表した「帝王論」では、強力な君権の必要は説くものの、イギリスの思想家トッド(Alpheus Todd)に基づいて、その君権はあくまで形式的なものでなければならない、とも主張している。立憲帝政党という名前の政党が結成されたことで天皇の政治利用が始まるのではないかと危惧した福沢が『帝室論』を発表したのは同じ年の五月であった。福沢と波多野は台頭しつつあるドイツ帝国への評価には差があったものの、天皇と政府の関係については意見を同じくしていたのである。

また「帝王論」とほぼ同時に『時事新報』に発表した「大院君李夏応を論ず」は壬午軍乱の事後処理について論じている。日本の支援のもとで開化政策をとっていた当時の朝鮮政府に反対する保守派の軍人たちが国王の父である大院君を奉じて蜂起したのは 1882 年 07 月 23 日であった。翌日には日本公使館が襲撃されて日本人顧問が殺され、また親日的立場をとっていた閔氏政権の高官も殺害された。軍乱は大院君の政権復帰によって沈静化したかに見えたが、これによって朝鮮をめぐる日本と清国の対立は激化することになった。すなわち日本は朝鮮内の居留民保護を理由に軍事介入の動きを見せ、もう一方の清国はすばやく軍隊を派遣して 08 月 26 日には大院君を軍乱の責任者として逮捕し、翌日には清国の天津へと護送することで日本の介入を防ごうとしたのである。

さて、「大院君李夏応を論ず」は、大院君連行の第一報がもたらされた 09 月 03 日に書き始められ、その第一回は 4 日後の 07 日に掲載されている。本論は大院君の壬午軍乱における責任と清国が彼を本国に護送したことの当否について論じているのであるが、そこで印象深いのは、テーマである大院君への批判よりも、隣国の内乱に介入してその当事者を本国に移送した清国への非難がはるかに強いということである。軍乱で被害を受けた日本と朝鮮政府との間にはすでに 08 月 30 日に済物浦条約が結ばれており、そこには朝鮮政府による軍乱首謀者の処罰が明記されていた。大院君にまで累が及ぶかどうかは定かではなかったが、それは朝鮮政府が決めるべきことであった。しかるにその同意も得ないまま大院君を天津に移送した清国は、朝鮮国にたいする重大な主権侵害を行ったことになる。さらに波多野は次のように述べている。

今ま清国人且異志を挟んで朝鮮内治に干渉し、韓人の卑屈に乗じて之を藩服隷属の国となし、雞林八道の地をして恣に清人の蹂躙する所とならしむる如きは、誠に日清間実力平均の権衡を紊乱し、我が独立自存の国権を危険とせんとする者なり。或は今日直に我が国権を危ふする事なきも、之が為に大患を生ずべきは、蓋し数年の後を俟たざるべきなり。唯だ其れ然り。故に我国は自保自衛の目的を以て清韓隷属の関係に干渉し、飽まで清人の雄図を掣肘せざる可らず。(1882-09-14)

先にも指摘したようにややぎこちない文ではあるが、ここにも明らかなように波多野の主張は清国の朝鮮への介入は日本への直接的な脅威であるというところにあった。彼はさらに清国とそこに従属する朝鮮国との戦争は避けられないので、来るべき日清戦争に勝利するため早急に軍事力を強化しなければならない、と結論づけている。

波多野と福沢の違い

朝鮮をめぐる清国との戦争にも勝利できるというこの波多野の考えは、『時事新報』総裁である福沢にとって危険極まりないものだった。波多野は、日本が清国より一足先に軍事力の近代化に乗り出したことと日本人の優秀性を根拠として戦争にも勝利することが可能であるとするが、福沢はそうした考えは勇み足であると判断していた。

同年 09 月 09 日から 10 月 18 日まで『時事新報』に連載された福沢の『兵論』(1882-11)は、従来まで、『時事小言』(1881-09)の延長として軍備充実を中心に租税増徴、官民調和の必要を述べたものとされてきた。しかし、壬午軍乱の勃発直後の 08 月上旬に書き始められ、福沢には珍しく脱稿前に連載が開始されて 10 月上旬まで執筆されていたことから見て、具体的には、朝鮮国内の混乱に乗じて早期に清国との戦端を開くべきだ、とする『東京日日新聞』の論調や、波多野を中心とする『時事新報』若手記者の勇ましい議論を牽制することを目的としていたと思われる。今清国と戦争をしても勝つのは難しい、というのである。

福沢はそこで清国の「兵備略」(軍事年鑑)に依拠してその軍事力の急速な強大化を示し、次のように述べている。

「以上所記に由て之を観るに、清国にて近年海陸軍の改正を施したるは唯其一小部分なれども、其実数を見れば殆ど我日本国の海陸軍に等しきのみならず、海軍に至ては我国の一倍に近し」(⑤ 311 頁)

と。要するに福沢自身は清国を少しも甘くは見ていなかったのである。また別の部分では

「圧制政府の兵にても自由政府の兵にても、強き者は勝ち弱き者は敗す可し」(③ 307 頁)

として、専制政府の軍隊だからといって戦意が低いなどと安易に考えてはいけない、と注意を喚起していたのであった。

波多野の思想は総じて未熟なところがあったが、壬午軍乱当時は 23 歳であったのだからそれも無理はないのかもしれない。中上川よりも 4 歳の年少にすぎなかったが、官界の碌を食み局長ポストも経験している中上川と、卒業後はほとんど実世界を経ないまま新聞記者となった波多野との差は年齢以上にあったといえよう。

また、すでに触れたように、成長してから漢学を学んだため用語も不自然である。先の引用部だけでも「異志」「権衡」「雄図」「掣肘」などは、福沢の推定カテゴリーⅠの論説では使用されていないようだ。その他奇妙な熟語は枚挙にいとまがないが、いくらか例示するならば、「基礙」「沈淪」「窺窬」「卓立」「狂狷」「蝉脱」「琴柱」「繁劇」「単簡」などがある。福沢と中上川の文章が誰でも知っている平易な熟語を用いて書かれているのに対して、波多野の文では漢語の意味を知るために漢和辞典を手放すことができない。ということは、波多野在職時の『時事新報』を読んでいて辞典が必要とされるような論説に行き当たった場合、それだけで起筆者として波多野を想定することができる、ということでもある。

「東洋の政略果たして如何にせん」の前半部は波多野の文章

波多野が在籍していた 1882 年 03 月から 1884 年 07 月までの『全集』収録『時事新報』無署名論説を彼の文体と語彙の特徴に注意しながら読み返してみて、波多野起筆とおぼしきいくつかの文章を選び出すことができた。

「東洋の政略果たして如何にせん」前半部1882-12-07/09推定カテゴリーⅢ
「朝鮮国を如何にすべきや」1883-03-13推定カテゴリーⅡ
「調和の急は正に今日に在り」1883-06-15推定カテゴリーⅡ
「支那との交際に処するの法如何」1883-09-04/05推定カテゴリーⅡ

これらのうち注目すべきなのは、従来まで福沢の時事論説の中でも最重要とされてきた「東洋の政略果たして如何にせん」が、じつは福沢の思想とは見なしがたいという事実である。この論説の後半部が純粋に福沢の手になるものであることは疑いがない。なぜなら彼以外には書きえない欧州旅行途上での体験談が含まれており、また、語彙・文体ともに福沢のデータと一致するからである。しかし、だからといって前半部もまた福沢かといえば、そうとはいえないのである。

先に結論を述べてしまうならば、この社説は、1882 年 11 月 08 日の「論説」欄に掲載された飛瀑嶺真人なる記者が書いた「東洋政略緒言」(全集未収録)に引き続く「本論」ともいうべき論説に、福沢の体験談を付け加えて成されたものである。そのことを証明するためにまず「東洋政略緒言」の内容を紹介しよう。

その冒頭で飛瀑嶺は次のように説き起こす。

万国公法とは何ぞや。正理と習慣とを折衷して定むる者に外ならざるなり。正理と慣習とは何ぞや。正理は世人の認めて以て正当の道理なりとなす所の者にして、慣習は古来万国交際の慣習に成りて通商交修の条約に於て顕はるる所の者なり。正当の道理と交際の慣習とは誰れか之を折衷して誰か之を定むる者ぞ。正当の道理は学者之を私に論定し、仮りに正当の道理となし、交際の慣習は欧米の強国擅に之を作為して終に交際の慣習を成す。而して世の所謂万国公法家の説をなし以て和戦の両時に於て則とるへき交際の準規を編纂し、称して之を万国公法と謂ふ。(1882-11-08)

この国際法理解はごく妥当と思われるが、ここで筆者の飛瀑嶺は国内法規とは異なる国際法ならではの特徴を指摘している。それは、国内法規は立法機関において定められるが、国際法は事実上強国がその論理によって組み上げているということである。それゆえ、と飛瀑嶺は続ける。

万国の宇内に星羅して互に相交通するの際に於ては、大国の小国を併せて弱肉強食し、覇を一世に称せんと欲する者なきにあらずと雖ども、素と是れ自ら雄図を傾奪世界に恣にせんとする者にして、万国の倶に戴て以て最上主裁の大権を執る者を認むる事能はず。唯だ其れ然り故に万国公法なる者ありと雖ども、之を監督し之を命令するの最上権なく、之れに背戻する者ありと雖ども、終に懲罰の事を行ふ事能はず。

国際法は強国の味方である。そのため

「権力の存する所は正理の在る所にして、強国の好する所は万国公法の行はるる所なり。是を以て万国公法は往々にして強弱を圧し大小を呑むの器械となり、却て其侵辱凌駕を済ふの築石たる能はさるものあり」

という帰結が導かれてしまうのである。この事実上の結論部に続けて、治外法権や不平等条約など国際法の名のもとに西洋の文明諸国が東洋の諸国にいかに無理難題を突きつけているかを例示するところで「東洋政略緒言」は終わっている。

飛瀑嶺真人とは誰か

このたった一度しか使用されていない飛瀑嶺真人という筆名の持ち主が誰であったかについて推定してみると、まず、筆名については、掲載された「論説」欄が、「時事新報」欄に執筆のかなわない社説記者が、おもに自分の出身地をもじった筆名で寄稿していた、ということが手がかりとなる。波多野の出生地は遠州掛川であるが、その近くには粟ヶ岳山頂から流れ下る高さ 20 メートルの松葉の滝が存在している。いっぽう中上川の故郷である中津に有名な滝はないようである。このことから、波多野が飛瀑嶺の筆名を使ったとしても不自然ではないとはいえる。

また、語彙の点からいえば、「東洋政略緒言」には、波多野の署名論説で使われている「雄図」「傾奪」「掣肘」という一般的とはいえない用語を見いだすことができる。さらに、国際法は結局強者の論理であるという見解については、これは福沢とも重なるとはいえ、「東洋政略緒言」中の「万国の宇内に星羅して互に相交通するの際に於ては、大国の小国を併せて弱肉強食」とそっくりな、「今日の世界は禽獣の世界なり。星羅せる万国呑噬搏撃し弱肉強食す」という表現が、波多野の署名論説「帝王論続編」(1882-09-05)にあることからも、同一人の執筆であることの補強が可能であろう。

この「東洋政略緒言」に続くはずの本論は掲載されていない。先に述べたように、波多野が書き上げた本論は、社説「東洋の政略果たして如何にせん」の前半部(⑧ 434 頁まで)となっている、というのが論者の推測である。そのように考えないと、「東洋政略緒言」にはかんじんの東洋政略について少しも言及がないいっぽう、社説のほうは、

「朝鮮の関係に於ても、吾人は固より其独立を妨げざるのみならず、常に之を助けんと欲すと雖ども、支那人が頻りに韓廷の内治外交に干渉して、甚しきは其独立をも危くするの勢に至るときは、吾人は日本国人の本分として支那人の干渉を干渉して之を抑制せざる可らず」

と、強者の論理のもと、朝鮮の保護のためには中国と事を構える覚悟が必要である、というそれまでの福沢の意見と比較して強硬すぎる見解が突然開陳されている理由を説明することができないのである。

この社説の前半部を読み返してみると、まず語彙が福沢とははなはだしく異なっていることに気づかされる。「鼾睡」「狐疑」「拐帯」「囚虜」「素志」「鬩牆」「争権」「韓廷」などは福沢の署名論説では用いられてはいないようである。しかもその主張は、波多野が壬午軍乱のさなかの同年 08 月から 09 月にかけて書いた「大院君李夏応を論ず」と「国権論」を組み合わせたものといってよい。前述のようにそれらは『時事新報』に載せる評論としては過激なものであったが、波多野は自分の意見を社説として取り上げるように福沢に働きかけたらしい。

掲載は認めたものの、福沢はそのあまりのマキャベリズムに不快感を抱いたのではないか。それをいくらかでも弱めるべく加筆を試みている。頁が分かれているので気づきにくいのだが、

「我輩が此文を草するは、真に身を忘れて国を思ふの精神に出たるものにして、毫も為にする所あるに非ず」

に始まる現行『全集』第 8 巻 435 頁以降は一字下げとなっている。この前半部を福沢自身が書いたのなら、どうして加筆を示すために一字下げとしたり、言い訳をしなければならないのであろうか。

社説「東洋の政略果たして如何にせん」は、大正版『全集』で初めて福沢のものと認定された。しかし、掲載されてから全集に収められるまでの 43 年の間、福沢本人によってもからも、弟子の誰かによっても、いっさい言及されたことはない。この社説が重要視されるようになったのは、石河幹明が、福沢が早くから抱いていた東洋政略のエッセンスとして『福沢諭吉伝』第 3 巻に紹介して以降のことである。石河は掲載当時編集部に在籍していなかったのに、どうしてその論説がかくも大事だと分かったのであろうか。

5  中上川彦次郎時代後期(1884-08/1887-04)の概観

高橋義雄と渡辺治

波多野は過激な対清国強硬論に走りがちではあったもののアイディアマンで筆力もあったのだが、1884 年 07 月に外交官に転じて時事新報社を去った。それ以後の『時事新報』社説欄を陰で支えたのは、創刊当初から社説記者となるべくトレーニングを受けていた高橋義雄・渡辺治の両名であった。高橋の回想録『箒のあと』によると、社説欄上に彼らが執筆した文章が登場するのは 1883 年 09 月以降ということになる。また、石河幹明の入社は 1885 年 04 月であったが、1887 年頃まで社説の起筆は行わなかったと自ら述べているので、彼については次章で扱うことにする。

高橋・渡辺・石河さらに井坂直幹の四名は水戸の出身であった。このことは偶然ではなく、中津出身の福沢門下生で茨城県水戸師範学校の校長をしていた松木直己から慶應義塾への推薦入学者に彼らが含まれていたのである。石河は 81 年の入学当時 22 歳、井坂は 21 歳、高橋は 19 歳、渡辺は 17 歳であった。彼らが入学することになった経緯は第七章第二節で扱うことにする。高橋と渡辺は翌 1882 年 04 月に正則を卒業してすぐに『時事新報』の編集に加わったのだが、石河と井坂はさらに本科に進んだため遅れて入社したのである。

福沢がアメリカに留学していた息子の一太郎と捨次郎に宛てた書簡には次のようにある。

水戸の渡辺高橋は両人共文筆達者なり。過日日本国を北海に移したる想像図を新報に出して大に喝采を得たり。右は拙者の思付にて、其趣向を高橋へ授け、起草の上、刪正したる者なり。随分面白き工風ならん。夫是にて、目下東京の新聞紙にて時事新報と鉾を争はんとする者は先づ無き様に相見へ候。(1883-11-24)

引用中の「日本国を北海に移したる想像図」とは、11 月 13/14 に掲載された「地理上の離隔は恃むに足らず」と題された社説であるが、全集未収録となっている。高橋起筆ではあるものの、カテゴリーⅡに属することは明白であるにもかかわらず、石河はそれを昭和版『続全集』に採録していない。この書簡はすでに昭和版に収められているので、石河は「地理上の離隔は恃むに足らず」のアイディアが福沢に由来するのを承知のうえであえて収録を見送ったのである。

いっぽう福沢から起筆を命じられた高橋は『箒のあと』でこの論説について次のように書いている。

私は「我が日本は北海に国する事を忘る可からず」と云ふ論説を書いた事があるが、是れは日本が国際競争の激烈なる欧州諸国とかけ離れて極東に位して居るが故に、悠々閑々として其日を送つて居る事を得るのだが、仮に日本が英国と独逸とに相接近する北海中の一島であつたとしたら、果して今日の如く安閑たる事が出来やうかと云ふ論旨で、其最後に「古語に曰く、志士は常に其元を失ふ事を忘れずと、我が日本国も亦常に北海に国する事を忘る可らざるなり」と喝破して、是れも亦先生のお褒めに預かつた。(同書普及版上巻 73 頁)

この『箒のあと』(1933-06)が『都新聞』に連載されていたのは 1932 年 06 月から満 1 年の間だった。その頃『続全集』のために社説を選んでいた石河は「時事論集」第 1 巻の刊行(1933-06)前にこの記述を目にしたはずである。石河は『都新聞』の読者にも広く知られることとなったこの「地理上の離隔は恃むに足らず」を、高橋起筆ということであえて収録しなかったのである。

高橋のほうはといえば、『箒のあと』において、水戸以来の旧知の仲で後年には『時事新報』の立役者となる石河の記者時代についてまったく触れていない。これも奇妙なことではある。二人には二年間の重複在籍期間があるのだから、何かしら言及するほうが自然であろう。この回想録は世上に名高い石河の『福沢諭吉伝』が完結して後、『続福沢全集』が刊行されつつあったまさにその時に出版されたにもかかわらず、である。いっぽう石河は時事新報社における高橋の役割を『福沢諭吉伝』でいたって簡略にしか記していない。つまり双方とも無視しあっているのである。井田が指摘しているように、両者の間に何らかの確執を想像しないわけにはいかない。

高橋義雄と石河幹明の確執

それではその確執の原因は何だったのだろうか。石河とは異なり高橋が新聞人であったのは『時事新報』編集部に属していた五年間だけである。1887 年 07 月に退社した後はアメリカとヨーロッパに留学し、1889 年の帰国後は三井銀行・三越・王子製紙の重役を歴任している。高橋はまったくの実業人となってしまったのであるから、後年論壇のライヴァルとして刃を交えたわけではなかったのである。けっきょく年長の石河より高橋の入社が先であったにすぎないようなのだが、高橋が 3 年早く『時事新報』に参加していたことが、50 年後の石河にとってどのような意味をもっていたのであろうか。両者の関係について考えるために、福沢自身による高橋の評価をもう少し見てみたい。

1883 年 11 月の書簡に次いで高橋が言及されるのは、やはり留学中の二人の息子に宛てられた

「新聞の社説とて出来る者は甚少し。中上川の外には水戸の渡辺高橋又時としては矢田績が執筆、其他は何の役にも立不申、不文千万なる事なり」(1884-02-01)

という記述である。

高橋は 1887 年 07 月に退社したのだが、同じ年の 04 月に一足早く主筆の座を下りて山陽鉄道の経営に携わっていた神戸の中上川に、福沢は時事新報社の内情を知らせる手紙を書いている。翌年早春の書簡には留学先で資金難に陥った高橋への援助を申し出た旨記されている。

高橋が再び新報社へ帰り永く社に居て勉強する気があるならば、本年七月より来年の六月まで一ヶ年福沢より金を給して文学を学ばしむべし、来年帰国までにも毎便社説を認て送り越すべし、此義同意ならば千円計りの金を与ふべし云々。(1888-02-27)

すなわち福沢はニューヨークに留学中の高橋を時事新報特派員として再任用しようと考えたのである。その後高橋が社説の原稿を送って寄こしたのかどうかは定かではない。しかし同年 08 月 27 日付の中上川宛書簡に次のようにあるところを見ると、このとき高橋は福沢の申し出をやんわりと断ったように思われる。

渡辺は先ず執筆に宜しけれども、文章に妙なくせありて正刪を要する事多し。石河はあまりつまらず、先づ翻訳位のものなり。老生の所見にて高橋が一番役に立候様に覚候得共、是れは商売がすきと申せば致し方なし。新聞社に居て文の拙なるは両国の角力に力のなきが如し。何は扨置き困り申候。

この書簡にもあるように、高橋への評価は、渡辺・石河に比べてはっきりと高い。高橋が『箒のあと』で回想していた福沢による激賞は思い込みではなかったのである。いったんは福沢をがっかりさせた高橋ではあったが、ロンドンに移っていた翌 1889 年 05 月には署名入りで「仏蘭西人」の連載社説を送ってきているところをみれば、前年 02 月の福沢の申し出を最終的には受け入れたのであろう。さらに中上川宛書簡「菊池(武徳)は中々宜敷、高橋の次ぎ、渡辺石河の右に出る者なり」(1889-06-21)、また「高橋義雄氏帰国、時事に執筆可致と申に付、拙者も少しらくに可相成存候」(1889-08-10)と続いている。

福沢の中上川宛書簡は戦後になって発見されたため石河はこうしたあからさまな序列づけがなされていたことを知らなかったはずである。しかし、福沢の口調の端々から、『時事新報』の社説記者として期待を担っていたのが自分ではなく高橋であったことを感じ取っていたのではなかろうか。確執の原因は石河の側が高橋に対して抱いていた「怨望」に由来するように思われる。

6  多芸の人・高橋義雄

高橋義雄の文章

福沢の手が加えられていない高橋だけの文章は、『時事新報』論説欄と波多野が編集していた『交詢雑誌』に残されているし、何より 1884 年から 1890 年までだけでも七冊もの著書・翻訳を上梓している。政治に強い関心を抱いていた波多野とは違って、高橋の興味はビジネスと趣味に向けられていた。後年趣味の方面では茶道の大家となる高橋は若いときから軽妙洒脱な文章を好んだようだ。現在までに判明している署名入りで書かれた論説や翻訳は、それらは以下の通りである。

「漢城駐屯兵」『時事新報』論説欄1882-09-16
「人種改良の問・社員某の答」『交詢雑誌』 112 号1883-03-05
「教育論」『交詢雑誌』 140 号1883-12-15
「国債論」『交詢雑誌』 143、145、148 号1884-02-25/04-15
『日本人種改良論』時事新報社1884-09
『商売のすすめ・拝金宗』大倉書店上巻1886-07
下巻1887-04
『通俗日本商業教育論』金港堂1887
『拝金宗第 2 編』大倉書店1887-04
『梨園の曙・一名西洋演劇脚本』(翻訳)金港堂1887-01
「仏蘭西人」『時事新報』社説欄1889-05
『商政一新』大倉書店1890-05
『英国風俗鏡』大倉書店1890-12

見てのとおり単著として書かれたのは人種論・ビジネス本・西洋の戯曲の翻訳・在英時代の体験談などで堅苦しい政治談義はない。このうち最初の本である『日本人種改良論』では、日本人の体格向上のため西洋人との混血が必要である、として加藤弘之の猛反発を受けたことはすでに触れた。

高橋の文章は平易で読みやすいうえに、テーマの設定も巧みで、しかも要所要所に気の利いた表現がちりばめられているジャーナリズムの王道ともいうべきものである。福沢の著作をよく読み込んでいたのであろう、仮名遣いの細部に至るまで非常によく似ている。文体研究の先駆者である井田進也すらも「短い文章ではときに福沢かと思わせるほど筆癖のよく似た高橋」と評しているほどであるから、高橋が『時事新報』社説欄に無署名で執筆していた 1883 年 09 月から 1887 年 07 月までの論説はよくよく注意して判定しなければならない。以下井田メソッドを参考にしつつ高橋と福沢の違いを明らかにしたい。

箒庵高橋義雄の人となり

先にも触れたように、高橋は福沢の大のお気に入りであった。『時事新報』の社説記者で同程度の評価を得たのは他には 1894 年入社の北川礼弼がいるだけであるが、その時点ですでに一廉のジャーナリストであった北川とは異なり、入社当時 10 代の若者であった高橋を福沢は本気で自分の分身としようとしたように思われる。

確認できる最初の評論は「漢城駐屯兵」であるが、創刊当時の『時事新報』のちょうど二段に収まる分量からみて、社説欄に持ち込まれたものの没とされたため論説欄に発表されることになった文章と推測できる。波多野の「大院君李夏応を論ず」の連載の直後に掲載されたやはり壬午軍乱をテーマにした評論なのであるが、その思想には中上川・波多野・渡辺・石河らとは著しい違いが見られる。

その違いとは、朝鮮の国家としての独立を何らの前提条件もなしに認め、いかなる理由にもせよ他国の主権を侵害して駐留軍を置くことは正しいことではない、という明確な自覚を有していたことである。その他の人々は、壬午軍乱後に清国軍がソウルに進駐したことを憤りこそすれ、日本軍の駐屯については在留邦人保護のためには当然のことと見なしていたのに、高橋だけは

「抑も朝鮮は土地褊小なれども東洋の独立国なり。独立国にして其内地に他国の兵員を屯せしむるは恥辱焉より甚だししきはなし」

と相手国の屈辱感を思いやる心をもっていたのである。高橋はこの習作の中心的部分で次のように述べている。

我邦人民は朝鮮国歩の艱難を喜ぶものにあらず。朝鮮の一友国となりて之を誘導し、頑固の迷夢を攪破して文明の恩沢に浴せしめ、其改進を促して以て両国の平和を保ち通商交際益親密を加へ、唇となり歯となり輔車依て以て東洋全体の富強を謀るにあり。されば今回の事変にも成るべく両国の平和を祈り刃に血らすして其談判を完結せんとせり。故に兵員を朝鮮に駐屯し彼をして戒心する所あらしむるは我邦人民の本意にあらざるなり。又た朝鮮人の身に取て考ふるに、己れ東洋の独立国に列しながら其政府強大ならずして条約国の人民を保護する能はず他国の兵員を内地に置き、以て其無事を謀るに至るは自国の無力を表し其政府が適当の職務を尽す能はざるを示すものなれば、日本の護衛兵をして一日も早く朝鮮国内を退かしめざる可らずとて、胸裏に不満を抱くや必せり。然らば則ち兵員駐屯の一事は日韓両国の本意にあらず。一日も早く之を撤去し、彼我の戒厳を解くは両国のために謀て最上の得策なり。(1882-09-16)

中上川時代の『時事新報』に掲載された社説・論説においてこのように「朝鮮人の身を取て考ふるに」という立場に自らを置くことができたのは、福沢を除いては高橋以外にはいなかったように思われる。彼はさらに、駐留する日本軍の兵士たちが現地の人々を侮辱することがないよう取り締まりを厳しくするべきだ、と念押しをしてこの文章を終えている。

そこで話はやや逸れるが、朝鮮は独立国である、という確信は、50 年を経た後 70 歳の老人となった高橋になおも保持されていたのであった。先にも触れた社説欄でのデビュー作「米国の義声天下に振ふ」(1883-09-12)を巡って、『箒のあと』には次のようにある。

此論説は当時支那が朝鮮を付属国の如く取扱つて居るのを、日本を始め諸外国が指を咥へて観て居る其面前に、米国がフード将軍を駐剳使節として朝鮮に送つて其独立を認めたと云ふ痛快なる処置を賛嘆した者で、先生は此文を見るや非常に賞賛して其夜晩餐を賜はり、日本膳の上に西洋料理を並べ、傍に侍座してお酌をして居られた奥さんに「今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実に能く出来たよ」と如何にも嬉しさうに語られたので、私は大に面目を施し、生涯に是れ程嬉しく感じた事はなかつた。(同書普及版上巻 72 頁)

この文章が書かれたのは韓国併合の 23 年後、三一独立運動からも 14 年後にあたる 1933 年である。もし高橋が「漢城駐屯兵」を書いてから 50 年の間に、日本による朝鮮の支配は正当である、と考えを改めていたとしたら、世界に先立って朝鮮の独立を承認した米国の処置を自ら賞嘆した過去を明かすことはなかったであろう。この回想録は高橋が晩年に至るまで内心では朝鮮の独立を支持していたことの証左であるのだが、そればかりではなく、その頃発表された『福沢諭吉伝』によって固まりつつあった、日本による朝鮮の領有と中国分割を背後から煽った福沢というイメージを否定するものでもある。高橋によれば、米国が朝鮮の独立を認めたのは立派だ、と福沢は考えていたのである。

石河が描き出した福沢像が正しいのか、それとも高橋が伝える姿のほうが真実に近いのかは後に詳しく述べたい。

福沢はなぜ高橋を好んだのか

福沢が高橋を好んだのは、その天賦の才能がすばらしかっただけではなく、思想の方向性とでもいうべきものが近似していたことによるのではないか。もちろん高橋は福沢の弟子のうちでもっとも学力が優れていたわけでも、個性的であったのでも、後年になって名を挙げたわけでもない。40 代半ばまでの壮年時代に育成した、

  • 小幡篤次郎
  • 小泉信吉
  • 馬場辰猪
  • 朝吹英二
  • 井上角五郎
  • 犬養毅

らのほうが、教育者、実業人また政治家として遙かに高い名声を得たのは確かである。今日高橋義雄の名は茶道の道を究めた風流人としてわずかに記憶されているに過ぎない。

とはいえ、それは 1 世紀を経過したのちの、いわば客観的評価である。自ら「老生」と称し、天寿とされていた 50 歳になろうとしていた福沢にとって、高橋が上の世代の高弟たちとは異なった意味をもっていた可能性がある。自らが若いうちに関わった弟子たちはいわば切磋琢磨のための好敵手の意味合いがあったのにたいして、彼らより若い高橋には自分の思想的後継者としての役割を期待していたのではないか、ということである。

よく知られているように、福沢は四男五女の子宝長者であった。それらの子供たちのなかでも長男一太郎と次男捨次郎には大きな希望を抱いていたのだが、しかし彼らの才能は福沢が期待していたほどではなかったのである。二人の息子が東京大学予備門を中退してアメリカ留学へと旅だったのは 1883 年 06 月、そして福沢が「米国の義声天下に振ふ」を賞賛して高橋に夕食を振る舞ったのは同年 09 月のことである。さらに 1887 年 07 月に高橋がアメリカに旅立つのと入れ違うように、翌年 11 月に一太郎と捨次郎は帰国して『時事新報』を手伝うことになった。

一太郎よりわずかに 1 歳年長にすぎない高橋が、社説記者という仕事上の役割以外にどのような地位を占めていたかは自ずと想像できるのではなかろうか。すなわち彼は「弟子」だけではなく「息子」の役目まで引き受けていたのである。

中上川への書簡にもうかがわれるように、じっさい高橋は福沢の期待によく応えたし、福沢は社説記者となっていた高橋と渡辺の才能を伸ばすために最大限の努力を惜しまなかったようだ。代作した社説のできがよかったときの福沢の喜びようを、高橋は、

「其時先生の悦びは一方ならず、殊に其文中に何か面白い所があると、読み返しては之を褒めらるゝので、私等に取つては是れが非常な奨励であつた」(『箒のあと』普及版上巻 72 頁)

と述べている。

高橋と福沢の違い

このような次第であったので、もともと文才のあった高橋の文章は慣れるにしたがってますます福沢に似てくるようになった。それでも井田進也は福沢の表記法と高橋のそれとの違いを指摘している。論者が両者の違いとして重要視しているのは、福沢が「視做す」「身躬から」を用いるのにたいして高橋は「見做す」「躬から」という通常の表記で書いている点である。しかしその他の相違については、福沢は「尋れば」「直に」「然も」と送りがなを少な目にふるのにたいし、高橋は「尋ぬれば」「直ぐに」「然かも」と今日に近い書き方をしているなど、かなり微妙なところである。文章全体に福沢らしさを醸し出す「然りと雖ども」や「然ば則ち」、また「譬えば」の多用は弟子によってもたやすくまねができるし、へたに使われていればかえって怪しいということになる。

福沢と高橋の文体がいかに似ているとはいえ、30 歳近い年齢差を乗り越えられるはずもない。1868 年の明治維新のとき五歳であった高橋と 33 歳で経験した福沢とでは、文明開化以前の状況を自分自身で体験したか、伝聞によってしか知らないかの差がある。ましてや高橋では生まれる前の開国時の世相を書けるはずもない。また維新前の状況や留学途上の体験談が組み込まれているからといって、その文章全体が福沢の執筆であると即断できないことは、「東洋の政略果たして如何にせん」の分析からも明らかであろう。その部分だけを福沢が加筆した可能性があるのである。

先ほど論者は福沢と高橋の思想の方向性はほとんど同じであると書いたが、ただ一つ決定的に異なっている点がある。それは天皇に対する崇敬心とでもいうべきものが、高橋の場合は福沢に比して著しく深いということである。福沢に天皇を尊重する気持ちがまったくなかったわけではないが、皇室が連綿と続いているという事実は、単に日本が日本人によって支配されているという正統な国体を証明することにすぎなかった。福沢には明治天皇個人への思い入れなど何もなかったようだ。譜代大名の大坂蔵屋敷詰の役人の倅として天保時代に生まれた者としては、それはさほど意外なことではない。

ところが、尊皇思想の本家とでもいうべき水戸に生まれた、明治天皇より約 10 歳年少の高橋・渡辺さらに石河にとって、天皇は単なる象徴ではなく明治維新という新時代を切り開いた英雄なのであった。後にも触れることになるが、「御親征の準備如何」(1885-01-08)という社説がある。これは甲申政変後、朝鮮の事大党と清国軍によって独立党の大弾圧が進行中であったとき、万一清国と開戦することになったら天皇は下関まで下向して自ら陣頭指揮にあたるべきだ、という内容の論説である。『学問のすゝめ』で、「楠公権助論」を論難された福沢の真筆であるとすると、「臣子の哀情」「畏くも」「奉る」「渡らせらるる」などと書くのはいかにも不自然で、井田が指摘するように、「分け目」「暇」「躬から」といった高橋の筆癖によって彼の執筆と分かる。文章自体は巧みで、ぱっと見は福沢風であるため、遠山茂樹は明治 14 年政変後の福沢の転向を示す証拠の一つとしてこの論説を重要視している。しかしその実は、当時の『時事新報』編集部には福沢そっくりな文章を書くことができた若い尊皇派の社説記者が在籍していたというに過ぎなかったのである。

高橋の無署名論説

1883 年 09 月から 1887 年 07 月までの間に掲載された社説のうち、何編が高橋の執筆にかかるものであるかは現在のところはっきりしない。1884 年 07 月に波多野が退社して以降は福沢を中心として中上川・渡辺および高橋の四名が社説欄を担当していたことになるので、高橋はその相当数に関与していたと考えられる。とはいえ、文体の違いが一目瞭然の波多野や渡辺の場合とは異なり、高橋は福沢に近い文章を書いたため、すぐには判定がつかないのである。また、思想の傾向も似ていたことから、高橋起筆と決したとしても、それがカテゴリーⅡなのか、それともⅢなのか、言い換えれば福沢の思想の内なのか、それとも高橋の思想に福沢がわずかに手を加えただけなのかについての判断も難しい。

そこでここでは、先行研究において井田が高橋の筆が入っていると判断した論説にかぎって、論者によるカテゴリー推定を行うことにする。

「脈既に上れり」1884-08-15井田判定 C推定カテゴリーⅡ
「支那を滅ぼして欧州平なり」1884-09-24/25C
「宗旨宣布の方便(後編)」1884-10-03B
「墓地及埋葬取締規則」1884-10-04C
「拷問の説」1885-10-09C
「東洋の波蘭」1884-10-15/16(大正版収録)前半 E 後半 C
「軍費支弁の用意大早計ならず」1884-12-26D
「戦争となれば必勝の算あり」1884-12-27渡辺との共同執筆と推測し E
「御親征の準備如何」1885-01-08D
「脱亜論」1885-03-16A

これらの論説の起筆者については、論者が⑩「脱亜論」を福沢真筆と考える以外は高橋の手になるものであることに異存はない。

①②③をカテゴリーⅡと判断したのは、福沢の筆が入っていることが確実なうえに、それまでの福沢の持論と矛盾しないことによる。④⑤をカテゴリーⅢとしたのは、福沢による添削は認められるものの、扱われているテーマがあまりに小さすぎるためである。埋葬方法の変更にかんする規則の制定(④)や、とくに当時の重大事とも思われない官憲による拷問の禁止(⑤)にまで福沢の関心が及んでいたかどうか疑問である。そこで高橋からの持ち込み論説に手を加えたものと判断したわけである。

⑥から⑩までの判定には注意を要する。なぜならこれらは従来まで福沢の対外観を示す重要な社説とされてきたからである。

井田は⑥「東洋の波蘭」を高橋が執筆したものと判定し、後半「末尾の対中国消極論」だけに福沢の関与が認められるため後半のみを C 判定としている。先にも述べたように論者は中上川立案高橋起筆と推定し、後半部にも福沢の関与はなかったと考えてカテゴリーⅣとした。それというのも「末尾の対中国消極論」で使われている「呑噬」は中上川の文章にはあっても福沢では確認できていないからである。ただし現在検討している 9 編のうち大正版『全集』の段階ですでに収録されているのはこの 1 編だけであることに注意したい。

⑦「軍費支弁の用意大早計ならず」は『時事新報』の社説には珍しく文章がずさんである。甲申政変の事後処理のため朝鮮に向かった井上馨全権公使の動静を速報しつつ、交渉相手の清国は不誠実なので場合によっては戦争も覚悟しなければならない、という内容のものだが、その第一段落の四つの文が全て「ならん」「あらん」という推量で締めくくられていて、単調である。地の文を執筆したのは井田の言うように高橋であると考えられるが、果たして福沢は目を通しているかどうか。文中に福沢さしきところはとくに見あたらない。社説欄に掲載されているとはいえ年の瀬も押し詰まったなかで緊迫しつつあった日清関係を速報しただけの報道記事として書かれているように思われる。

⑧「戦争となれば必勝の算あり」について井田は高橋・渡辺の共同執筆とみなしている。確かに井田が指摘する「当たる」「一たび」「仮りに」「併しながら」「分け目」などは高橋がよく使う一方で、福沢にも中上川にも同一の仮名遣いの確認ができない語彙である。しかし共同執筆ということがライヴァル同士である二人の間で可能だったのかどうか。高橋の『箒のあと』にも、石河の『福沢諭吉伝』にも、また書簡類にも、社説記者が共同で一つの論説を完成させることがあったようには書いていない。論者の推測は、渡辺が書いた草稿の校閲を主筆の中上川が密かに高橋に依頼した、というのであるが、いかがであろうか。福沢の書き込みらしき部分は抽出できないのでカテゴリーⅣとする。この時期には福沢はすでに年末年始の休みに入っていたのであろう。

すでに内容を紹介した⑨「御親征の準備如何」については、井田が指摘している「神功の師」以外に福沢らしき筆跡を確認できなかった。「いくさ」はその他の部分では、一般的な「軍」が使われていて、これは高橋の使用法と一致している。しかし「師」が使われているからといってそれだけでこの部分を福沢の加筆と即断することもできない。なぜなら「神功の師」の三行前に「王師」(王自ら軍隊を率いる)という熟語があり、それに惹かれて高橋自身が使ったとしても不自然とはいえないからである。論者はこの部分も高橋の筆と判断してカテゴリーⅣと判断した。

さて最後が有名な⑩「脱亜論」である。井田は文中に「曹ふ」「喩」「是に於て」という高橋がよく使う表現が見られるところから、下書きは高橋が担当したものの、それを福沢が全面的に改稿したものと推測している。とはいえ論者としては、これらのありきたりの表記を福沢がまったく使わなかったと確信がもてないこともあり、文体からみて完全に福沢の手になる論説であると判断した。社説全体の周到な構成や文明の展開を麻疹の流行に見立てる卓抜した比喩などそう簡単に真似できるものではない。これほど福沢的な文章をカテゴリーⅠに含めないとすると、直筆原稿が発見されない限りどんな社説もカテゴリーⅡどまりになってしまうのではなかろうか。なお「脱亜論」については第八章で詳しく触れたい。

このようにしてみるとここで取り上げた 9 編の無署名論説のうち高橋の思想とみなしてよいものは、⑦「軍費支弁の用意大早計ならず」と⑨「御親征の準備如何」の 2 編ということになる。高橋起筆の社説はまだまだありそうである。ここではそのごく一部分を紹介したにすぎない。

7  熱血の政治少年・渡辺治

「不肖の息子」としての渡辺治

一太郎・捨次郎という愛息二人が留学している間、その代わりとなった若手社説記者のもう一人が渡辺治である。渡辺は 1890 年の第一回総選挙に出馬し、26 歳の若さで衆議院議員に選出されたにもかかわらず、その 3 年後には病没しているため、高橋よりもさらに忘れられた存在となっている。

渡辺は 1864 年 08 月水戸に生まれた。石河より 5 歳、高橋より 2 歳年少で、『時事新報』には 1882 年 04 月に 17 歳で参加した。高橋と同様に福沢の影武者となるべく鳴り物入りで入社したのではあったが、福沢とは思想の方向性が違ううえ書く文章が仰々しいという欠点をもっていた。ビスマルクを高く評価していたからであろうか、波多野とは気があったらしく、『交詢雑誌』では連名で紀行文を発表している。もっともプロイセン好みというのは、イギリスの政治制度を認めアメリカ人の国民性に親近感をもっていた福沢とは反対の方向であったということでもある。書簡から渡辺に関するところだけを書き抜いてみよう。

まず、先にも引用した、「水戸の渡辺高橋は両人共文筆達者なり」(1883-11-24)、「中上川の外には水戸の渡辺高橋又時としては矢田績が執筆」(1884-02-01)のあと、「水戸の高橋渡辺井坂などは屈指の人物」(1884-12-31)と続いている。この時にはまだ対立は表面化していない。さらに翌 1885 年 02 月には甲申政変後の事後処理を清国と交渉することになった榎本武揚に随行する特派員として北京まで出張している。

雲行きがおかしくなってくるのは 1887 年辺りからである。この年は 04 月に中上川が退社し、期待していた高橋が 07 月に留学してしまうという、初期の『時事新報』にとって最大の危機があった。本山彦一宛書簡(1887-02-13)は中上川の退社が本決まりになった直後のものだが、次のようにある。

老生も今日尚未だ老したるに非ず、全力を用ひたらば新聞社の始末位は出来可申存候得共、としよりの冷水、あまり面白も無之、且余暇あらば生涯に今一時致度文学上の道楽も有之、傍以新聞紙の方へ少々閑を偸み度素心、就ては編集の方の執筆は日原氏抔へ談じたらば少しは出来可申、是れは中上川を要せず候得共、全体の監督注意、会計の渡辺も実は壮年、中上川なくして独歩は少々不安心、且又若しも今日中上川が社を去りたらば、社中壮年一時に功名心を起し、吾も吾もと恰も勃起して諸方に仕事を求め、新聞社などは隠居の仕事などとて之を蔑視して、人々皆うきあし可相成は必然の勢、是れにも困り申候。

中上川は若手記者たちの束ね役でもあり、彼がいなくなってしまうと編集部自体が空中分解してしまう可能性があった。渡辺については「中上川なくして独歩は少々不安心」というのが福沢の評価であるが、この後渡辺との関係は急速に悪化してゆく。留学中の長男一太郎に宛てた書簡(1887-07-09)には次のようにある。

新聞社は実に忙しく、彦次郎が山陽鉄道に参候後は拙者一人にて、高橋と渡辺を加勢にして今日迄参候得共、此高橋も渡辺も実は当てに成り不申、既に渡辺抔は今度水戸の旧殿様が公使を命ぜられ欧羅巴へ参候に付、渡辺も其付属を内願し、或は出来可申様子、左様相成候ときは尚更拙者は困り入候。

中上川が編集部を去って、渡辺はやる気を失ってしまったのであろうか。また、2 年前の北京行で得られたものが大きかったため、欧州視察のチャンスを何としても手にしたかったのかもしれない。文面からは、新聞社が多忙にもかかわらず内密に水戸家と連絡をもった渡辺へのいらだちが感じられる。しかし、福沢自身も 25 年前には同じように木村摂津守に頼み込んでアメリカ行きを実現したのではなかったか。渡辺にしても先生と同じことをしているのに不満をぶつけられるのは理不尽だと感じられたことであろう。

高橋の退社で事態はさらに混迷

さらに渡辺ばかりか、高橋まで辞めると言い出したのは 07 月 09 日付書簡から程なくしてと思われる。中上川宛書簡には、「高橋はいよいよ社を去りて昨日より養蚕地方へ出掛け候。渡辺は先ず十月頃までと申」(1887-07-27)とあり、渡辺の慰留には成功したもののそれも 10 月までということが記されている。こうなると何としても渡辺には思いとどまってもらわなければならない。中上川宛書簡(1887-08-04)には、

「渡辺に大に談じて、欧行を見合せては如何と其利害を説きたるに、同人も発明したるものの如し。或は思留るならば年々貯金して後に渡すべしと申置候」

とあり、さらに「渡辺治氏は今度一寸帰郷、欧行はいよいよ断念して勉強すると申参候」(1887-08-15)、さらに帰省から戻った後に「新聞紙は高橋氏がなくなりても差支無之、渡辺氏は一筋に勉強致し候」(1887-08-26)と続いている。

とはいえ感情的な対立は続いていたらしい。初秋の中上川宛書簡には、渡辺が『時事新報』の記者でありながら自らの論説をわざわざ『田舎新聞』に投じたことが書かれている。

「先日も渡辺が地方自治など申題にて一、二編認め、文もよし理屈も立候得共、福沢が嫌ひゆゑ、是は田舎新聞に投じてやれ、必ず悦ふならんとて、時事新報に採用せずに反故になりたり」(1887-10-01)。管理人による註釈を御覧下さい)

渡辺としては自分の洋行を福沢に邪魔されたと考えていたのかもしれない。

そうだとしても福沢にとって渡辺は頼みの綱である。翌年 02 月の中上川宛書簡には「唯今社説を認候者は渡辺一人のみ」(88-02-27)、またその夏の高橋宛書簡には、「近来は渡辺氏も勉強致候得共、何分にも少人数にて社説には困り居候」(1888-07-25)とある。また、同時期の中上川宛書簡には、「渡辺は先づ執筆に宜しけれども、文章に妙なくせありて正刪を要する事多し」(1888-08-27)と本音の評価を漏らしている。

1888 年 10 月のクーデタ騒動

さらに 1888 年 10 月には渡辺と石河を首謀者とするクーデタ騒動が持ち上がっている。この事件の経過については後に再び述べることになるが、要するに、社説は両人が担っているのに待遇上報われていないので改善してほしい、さもなくば新任社説記者の菊池武徳を連れて退社する、という福沢にたいする恫喝であった。この事態に福沢は大きなショックを受けて中上川に詳細な手紙を送っている。この騒動は数日で収まったが、恭順の意を表した石河との関係は修復できたものの、渡辺と福沢の心は完全に離れてしまった。渡辺が政治運動を本格化させたのはこの頃のように思われる。

先にも記したように、渡辺と福沢とはそもそも思想の方向性が違っていた。福沢は新聞を通じて人々の意識を変えることによって社会全体を向上させようと図ったのにたいし、渡辺は自ら政治の場に身を投ずることで社会が変革されるのことを望んだのである。英雄嫌いの師福沢に自ら英雄願望を抱いた弟子の渡辺がいつまでも付き従うことは、しょせん不可能だったのである。渡辺はクーデタを押さえ込まれた腹いせにか、露骨に党派的な論説を書くようになり、ついには政治活動に奔走するようになった。大日本帝国憲法発布の 2 週間前、後に渡辺も出馬することになる第一回総選挙の一年半前に書かれた次の中上川宛書簡が両者の心の隔たりを雄弁に語っている。

渡辺治氏事、近来次第に政治に熱し方々奔走して、新聞紙の事も手に付かぬと申有様にて、第一は社の用を欠き、第二は政治社外独立の時事新報にて其社員が政治の何々党と与みする抔評判せられても面白からず、旁以今度改て毎日社に出勤する事を断り、社説でも出来て紙上に登ぼす可きものあらば採用すべし、兎に角に本社にては渡辺を当てにせずと申渡候。(1889-01-23)

つまり福沢のほうから渡辺に退社を迫ったのである。『時事新報』を退いた渡辺は『都新聞』に参加してその主要な論客となり、さらに 1889 年 05 月には『大阪毎日新聞』の主筆や『朝野新聞』の社長を兼ねることによって自らの主義主張を思う存分世間に訴えかけることになった。意見を異にする福沢立案の社説の下書きをするより、自らが主宰する新聞で意見を表明するほうが彼にとって幸福であったろう。渡辺は翌 1890 年 07 月の第一回総選挙では、吏員を動かして戸籍簿を改竄、年齢を偽って茨城県から当選した。念願の代議士となったのであるが、1892 年の第二回総選挙では落選し、翌 1893 年 10 月にわずか 30 歳で没した。

渡辺治の文章

それでは渡辺が実際に書いていた文章はどのようなものであったのだろうか。先にも引用したように、福沢の評価は「文章に妙なくせあり」というものであったが、これは関係が悪化してからのものなので割り引いて考えなければならない。

渡辺が署名入りで書いた文章は以下の通りである。

「実用に適すべき漢字の統計」『交詢雑誌』 122 号1883-06-15
「海外諸国農民の実況に付答」『交詢雑誌』 133 号1883-09-15
「倶楽部のこと」『交詢雑誌』 153 号1884-06-05
「領事裁判治外法権を論ず」『交詢雑誌』 166、167 号1884-10-15/10-25
『政法哲学』(翻訳)前後編時事新報社刊、ハーバート・スペンサー著、浜野定四郎共訳1884-10、1885-12
「日本国の船業」『交詢雑誌』 193、195 号1885-07-15、1885-08-05
『三英隻美政海之情波』(翻訳)丸善刊、ビーコンズフィールド著1886
『欧州戦国策』(翻訳)ベルギー・ドラブレー著1887-04
『鉄血政略』 3 巻金港堂刊1887-05、10

これらのうち彼の代表作は『鉄血政略』である。これは第 1 巻が「ビスマルク伝」、第 2 ・ 3 巻が「欧州最近四十年政治史」となっている。その執筆時期は、ちょうど中上川の退社から高橋の留学までの時事新報社の混乱期にあたっているのであるが、福沢が渡辺では頼りないと感じた原因の一端は新聞記者としての仕事とは別にこの本を書き進んでいたことによるのではなかろうか。その本文は次のように始まっている。

今予が此侯の鉄血政略を叙するに当ては茲に先づ鉄血の文字の出たる所以を識さゞるべからず。今の日耳曼皇帝ウヰリヤム陛下、未だ連邦統一の事業を遂げ玉はずして、普魯西の国王たられし際、当時欧州列国、互に相敵視するの有様にて、就中墺地利の如き、やゝともすれば干戈を以て我に刃向かはんず有様なり。されば陛下には大に之れを憂へ、外患を防ぐの用意等は主として兵備を増さざるべからずとの叡慮より、議院に陸軍拡張の議案を下付し玉ひぬ。(『鉄血政略』① 1 頁)

福沢や高橋に比べて、なんとまあ古くさい文体であろうか。『鉄血政略』は全編を通じてこの調子であるので、冒頭だから気負ってこのような文になったわけではなく、これが渡辺の通常の文体であることが分かる。中上川時代後期に社説を書いていたのは福沢・中上川・高橋・渡辺であるが、このうち渡辺を除く 3 名は流暢な文章で鳴らしていたのに、彼だけはこうした擬古文体とでもいうべき重苦しい書き方しかできなかったようである。

ここまではあくまで全般的印象であるが、さらに確度を増す研究として、井田は渡辺の署名論説を素材として語彙・文体データを集めている。その結果を論者なりに整理してみると、渡辺が「遑ま」「速か」「択ぶ」「倍々」「偖」「無し」「惹き」「盛ん」と表記するところを、福沢は「遑」「速」「撰ぶ」「益々」「扨」「なし」「引き」「盛」と書くことが多いという。また『鉄血政略』から福沢が用いない渡辺ならではの表現を書き抜くならば、先ほどの引用中にある「刃向かはんず有様なり」は何ともたどたどしい。「ビスマルク伝」には「室内を歩きまはるか但しは文台の前に」(① 18 頁)という表現があるが、ここでの「但しは」は福沢なら省略するであろう。またビスマルクの才能について記述した

「此侯が外交政治家として其名を世界にとゞろかしたるは天与の才力之れをして然らしめたること、固より疑ふべからずと雖も、侯が諸外国の言語に通じたること亦与かりて力ありと云はざるべからず」(① 29 頁)

も冗文である。福沢なら半分ほどで同じ内容の文にすることができたはずである。渡辺は福沢・中上川・高橋と比較して長さの割に内容の乏しい文章しか書けなかったのである。

こうした特徴に留意しながら井田が渡辺起筆と判定した『時事新報』無署名論説は以下の通りである。さらに論者による推定カテゴリーも付記して掲げる。

「輔車唇歯の古諺恃むに足らず」1894-09-04井田判定 D推定カテゴリーⅡ
「宗旨宣布の方便(前編)」1884-10-02C
「戦争となれば必勝の算あり」1884-12-27E

まず清国と相互扶助を試みても無駄であることを主張した①「輔車唇歯の古諺恃むに足らず」であるが、井田は「倍々」「ゆゑ」「尠らざり」「輙く」「偖」「喩へ」「無し」「注意を惹き」「盛ん」など渡辺の筆癖で一貫していることから、全体を渡辺起筆として、末尾三行の「警誡」にのみ福沢の痕跡を認めている。

この①は前後段に分かれているが、論者としては後段の最初が福沢らしい「然りと雖ども」で始まっていることに注目したい。井田が指摘する渡辺の筆癖は前段に集中していて、後段にはない。しかも後段は前段に比べて非常に読みやすくなっている。それは、後段の論は構成上「昔し」と「今日」の対比が明確であることや、『学問のすゝめ』でも多用されていた福沢に特徴的な「左れば」「独り是れのみならず」「然るに」「果たして然らば」「唯この一事のみ」が効果的に使用されているためである。また、後段で開国以来 30 年間日本が独立を維持できてきたのは完全に「西洋文明の利器」のおかげである、として天皇に触れていないのは、水戸藩出身で尊皇心あふれた渡辺の筆致としては不自然に感じられる。

以上のことから、論者は後段全体が福沢の筆になるものと判定したい。井田もこの「輔車唇歯の古諺恃むに足らず」の「脱亜論」への影響を示唆しているが、論者はもっと積極的にこの後段こそが「脱亜論」の原型であると推測する。甲申政変後ますます否定的となった福沢の清国への評価が、朝鮮独立党の大量処刑を契機として爆発したのが「脱亜論」なのではないか。福沢が提供したアイディアを渡辺が十分に展開できなかったため後半を書き加えたものと考えカテゴリーⅡに属すると判定する。

キリスト教布教が日本の風俗習慣を無視して行われているため、在来の宗教と摩擦を起こしていることを指摘した②「宗旨宣布の方便(前編)」は、井田が指摘するように「択ばず」「言做す」の筆癖から渡辺起筆であると考えられる。高橋を扱ったところでも述べたように福沢の立案であることは動かせないのでカテゴリーⅡに含まれる論説である。

③「戦争となれば必勝の算あり」は前節にも述べたように渡辺の起筆であると推定できる。内容は清国と戦争になっても日本軍兵士の士気の高さと、国債による戦費調達によって勝利はたやすいというはなはだ安易なもので、福沢の作だとしたら『兵論』(1882-11)の主張と完全に矛盾する。対清国戦争積極派の波多野が 1884 年 07 月に外務省に転じたのもつかのま、ビスマルク好きで気の合う後輩ともいうべき渡辺がほとんど同じことを言い出したわけである。中上川が起筆を命じたのか、それとも渡辺が持ち込んだ原稿を中上川が高橋に校閲させて掲載したのかは分からないが、いずれにせよ福沢の筆が入っている形跡はないのでカテゴリーⅣである。

このようにしてみると、渡辺の思想と見なせるのは、③「戦争となれば必勝の算あり」だけということになる。高橋は『箒のあと』で渡辺と同等の扱いを受けたように回想しているが、それにしては登場回数が少ないように感じられる。このことについて井田は、

「さきの一覧表にも見たとおり、高橋が始終競争していたという割には渡辺の出番が極端に少なく、「清仏事件」欄の記事もほとんど高橋の筆になるように見受けられるのは、渡辺が新報社内で主に「会計事務を取扱」っていたことによるものらしい」(『歴史とテクスト』 87 頁)

と書いている。

渡辺の文章は『全集』にほとんど含まれていない

井田は実際に『時事新報』紙面まで立ち返ってこうした感想を述べているので、考察の対象としている 1884 年秋から 1885 年春にかけては確かにそうした事情があったのかもしれない。しかしその後の論説を見渡しても、福沢の中上川宛書簡(1887-06-25)によって渡辺起筆と特定できる「条約改正は時宜に由り中止するも遺憾なし」(1887-06-24、推定カテゴリーⅡ)を例外として、現行『全集』の「時事新報論集」に渡辺とおぼしき文章が現れることはほとんどない。福沢の書簡からも明らかなように、1887 年 07 月に石河が社説記者になるまでは渡辺と高橋が対等に社説欄を支えていたにもかかわらず、である。それはなぜなのであろうか。

その理由は第一に、渡辺の文章は見分けやすい、ということが挙げられる。前にも述べたように高橋の文章は福沢とそっくりであるのに対し、渡辺は句読点の多いごつごつした文しか書けなかった。石河は昭和版『続福沢全集』にはっきり渡辺起筆と分かる社説を収録しなかったのではないか。そのため渡辺が下書きを担当したカテゴリーⅡの論説がまだ埋もれている可能性がある。

理由の第二として、石河は渡辺と「触れられたくない過去」を共有していた、ということが挙げられる。先にも触れたことだが、1887 年 04 月に中上川が退社してから、『時事新報』編集部内では内紛が起こっている。これは推定であるが、中上川の後任ポストを巡っての争いであるように思われる。このとき主筆となる可能性があったのは、いずれも水戸出身で慶應入学前から旧知の仲であった渡辺・高橋・石河の 3 名である。このうち高橋は福沢からその才能を高く評価されていたのではあったが、中上川がたどったのと同じ留学から実業界へというルートにより魅力を感じていた。そしてじっさい帰国して後は、山陽鉄道から三井に移っていた中上川に引っ張られ、そこの重鎮となっている。

その高橋が 1887 年 07 月に福沢を振り切って時事新報社を去ったことが、次の波乱の原因となったと推測できる。それはすなわちそれまで主筆の目のなかった石河と渡辺にも可能性が生じたということである。渡辺のほうが入社は 3 年早いが、年齢は石河のほうが 5 歳上である。いずれもが自分こそ主筆になるべきだ、と考えたとしても不思議なことではない。

しかし福沢としてはいずれも役不足と感じていたらしい。先にも引用した中上川宛書簡(1887-07-27)には、それまで社長と主筆は中上川が兼ねていたものを、社長格である総編集を伊藤欽亮としたうえ、石河を執筆に廻したことが書かれている。つまり主筆は当面空席としたわけである。福沢としてはそこに日原昌造または箕浦勝人をと考えていたらしい。早くから袖浦外史の筆名で社説を投稿していた日原の本職は横浜正金銀行社員で 1887 年 07 月には香港出張を控えていた。また『報知新聞』で論説を担当していた箕浦も退社する気はないとの返答であった。いっぽうそれまで『時事新報』に在籍したことのない人物が主筆の座を射止めては、渡辺・石河としても面白くないと考えるのは当然である。ライバル同士であっても落下傘主筆を防がねばならないという思惑では一致していたであろう。それが翌年 10 月のクーデタ騒動の遠因ではなかったろうか。

クーデタ収束後の両人の行動はすでに述べたとおりである。渡辺の心は『時事新報』からも福沢からも離れて行き、1889 年 01 月に両者の関係は修復不可能なところまでいってしまった。渡辺は他紙に転出しさらに政界に打って出て代議士に選出された。いっぽう石河は福沢の懐柔によって反乱の鉾を納め、しばらくは社説記者の地位に甘んじながら主筆の座を狙うことになった。

管理人による註釈

反天皇制運動連絡会編集『季刊運動〈経験〉』第20号に掲載された、池田浩士氏による書評「福沢諭吉という羅針盤」で、この箇所の誤字の指摘がありましたので、del要素とins要素を付け加えました。