時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その4

2013-01-23

第四章『時事新報』の「我輩」たち(二)伊藤欽亮時代から福沢捨次郎時代へ

1 伊藤欽亮時代(1887-07/1896-06)の概観

総編集伊藤欽亮

時期は1887年04月の中上川辞職まで少し戻る。先にも触れたように、時事新報社の人事は紆余曲折の末社長格の「総編集」として伊藤欽亮を当てることで落着したのであったが、この伊藤も忘れられた存在になっているため、まずその生涯をたどりたい。

欽亮は1857年08月に萩藩士伊藤市右衛門の次男として城下に生まれた。1877年06月に慶應義塾に入学し、1879年04月に正則を卒業した。卒業後は静岡新聞記者さらに長崎の西海日報社長となり、同紙が1884年に廃刊して後の1885年初めに時事新報に移った。記者時代の活動にはとくに見るべきものはなく、福沢の書簡にもほとんど登場しない。福沢が社説記者としての実績もない伊藤に総編集の地位を与えたのは、ひとえにその実務能力の高さを買ってのことであろうと思われる。また、1886年頃新聞紙条例違反を問われて1年ほど入牢していたらしいが、その詳細はつまびらかではない。

伊藤がその任に就いたのは出獄2ヶ月後の1887年07月のことであったが、中上川が不在となってから三ヶ月の間編集の仕事をしていたのは石河であった。伊藤が総編集となったため石河が執筆に回ったわけであるが、石河としては自分の編集の能力に疑問符が付けられたような気がしたであろう。とはいえ伊藤は自ら執筆はしなかったものの、記者たちを巧妙に動かしてよい記事を書かせ、紙面を充実させた。福沢は「伊藤の編集は甚だ任に堪えたるが如し」(1887-08-04)と神戸に赴いた中上川に書き送っている。

1889年に時事新報社に入って編集を補佐するようになった柳荘太郎は次のように述べている。

私の入社した二十二年頃には、まだそれ程ではなかつたが、その後伊藤君は段々福沢先生に重用されて、新聞社に関する内外の事柄は総て伊藤君に話をされた。営業上の月末勘定などの事も、会計主任の坂田実君は勿論之に参与しては居たけれども、伊藤君にも報告をし相談するといふ訳で、伊藤君の地位は段々重きを加へ、遂に二十三四年以後は殆ど伊藤内閣と云つてもよい程の全盛時代に入つたのである。(『伊藤欽亮論集』下巻「付録」82頁)

これはダイヤモンド社刊『伊藤欽亮論集』下巻(1930-05)末に収められた「伊藤先生人物観並逸話」の一つからの引用であるが、同様の証言は、北川礼弼・菊池武徳さらに石河幹明のものにも述べられていて、かなり確度の高い印象と思われる。さらに長州出身の伊藤は、藩閥政府の要人とも懇意であり、日清戦争当時は、同郷の伊藤博文や山県有朋を情報源とする、他紙の追随を許さない上質の報道を行ったという。

このように中上川なき後の総編集の任を立派に果たしていた伊藤ではあったが、1896年の暮れに時事新報社を辞して日本銀行に移ってしまった。その理由ははっきりしないものの、研究者の平田万里遠は同年夏の福沢捨次郎の社長就任との関係を示唆している。日本銀行では銀券局長心得・発行局長を歴任して1906年05月に退職した。その07月には陸羯南が1889年に創刊した政治新聞『日本』を買収し、8年ぶりに新聞社の経営に乗り出した。かつては一世を風靡した『日本』でさえも日露戦争後のその頃には新聞の商業主義化の流れには逆らえなくなっていたのである。『時事新報』時代には論説を執筆しなかった伊藤ではあったが、今度は潰れかけの新聞を立て直す事業である。自ら健筆をふるい多くの社説を発表した。

伊藤が目指したのは、石河が主筆となってとみに政治を重視するようになった『時事新報』にたいし、経済に関する質の高い情報を提供する新聞を築き上げることだった。とはいえ従来の読者がもっていたナショナリズムの高揚を目的とする『日本』のイメージとは逆の新聞を作ろうとしたところにそもそもの無理があったのである。案の定発行部数は低迷し、一次世界大戦さなかの1914年末には社屋が火災によって灰燼に帰したこともあり、伝統ある新聞『日本』も廃刊となってしまったのである。

その後はジャーナリズムの世界ではなく実業界に入り、千代田生命・日本製粉・玉川電鉄・第一機関汽缶保険などの取締役を務め、さらに経済雑誌『ダイヤモンド』を監修するかたわら原稿を寄せていたが、1928年04月に72歳で没した。2年後『伊藤欽亮論集』を編んで伊藤の名前を後代に残したのは、『ダイヤモンド』誌の編集を担当していた石山賢吉であった。

伊藤が総編集であった時期に社説を執筆していたのは、判明しているかぎり

  • 石河幹明・菊池武徳(1888-02/1894-12)
  • 北川礼弼(1894-03/1899-?)

の三名である。さらに福沢捨次郎が社長に就任してから新たに加わったのが、堀江帰一(1897-03/1899-07)であった。先にも引用した『福翁自伝』の「老余の半生」が後述されたのは1898年春頃であるから、1894年には実業界へ転出していた菊池以外の三名の名前が挙げられている。その他、正式の社説記者ではなかったようであるが、三宅(桑田)豹三や宮本芳之助らが下書きを担当したこともあるらしい。以下では伊藤時代の論説を担った石河・菊池・北川の文章の特徴を明らかにしたい。

2 後年の主筆・石河幹明

石河幹明の文章

1885年04月に入社してから1922年に主筆の座を下りるまで一貫して『時事新報』の編集や論説作成にかかわっていたとはいえ、1888年頃までの福沢の石河にたいする評価は非常に厳しい。中上川宛書簡には、「石河はまだ文章が下手にて過半は手入れを要す」(1887-08-04)や「石河はあまりつまらず」(1888-08-27)などとある。後年には『時事新報』の重鎮となって、正続『福沢全集』を編んだり『福沢諭吉伝』を著したからといって、彼が言論人福沢の衣鉢を継いだなどと評価するのは誤りである。文章の下手さについての注文が見られなくなる1889年以降の書簡にも、福沢は思想家としての石河に期待するような言辞を表明することはいっさいなかった。有能な実務者としての扱いしかしていないのである。

とはいえ、1889年01月に渡辺が去ってから1894年06月に北川が入社するまでの五年の間、社説の起筆を主に担当したのが石河と菊池であったこと、さらに福沢が脳卒中で倒れた1898年09月以降は石河が一手に論説を引き受けたのは事実である。つまり、福沢の思想と見なせるかどうかはさておいて、『時事新報』論説の多くを石河が書いたということは動かせない。後で詳しく触れることになるが、石河自身は昭和版『続福沢全集』の「付記」に、

「(明治)二十四五年頃からは自ら草せらるる重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ」

たと書いている。このことは昭和版に「現に」収められている1891年以降の論説の多くが石河の執筆であることを示している。

そこで石河の文体の特徴だが、まず福沢に比べて一文が非常に長いため明晰さに欠ける印象がある。また、波多野や渡辺ほどではないにせよ難しい漢字を使うことが多い。石河が多用する「猖獗」という言葉を福沢が用いたことはないようであるが、それは「盛ん」で同じ意味が伝えられるからである。送りがなは福沢が「分て」「挙て」「為て」「殆ど」とするのにたいし「分れて」「挙げて」「為りて」「殆んど」と多めにふるようである。そのため現行「時事新報論集」において石河起筆の論説が続いた後に稀に福沢が執筆したものが載せられていると一目で区別できる。

昭和版『続全集』の末尾には、石河自身が書いた「大逆事件」関連の論説が10編収められている。福沢の全集に没後10年も経過した、しかも福沢の思想とは何の関係もない論説を収録した石河の神経を疑うが、石河が確実に書いた論説のサンプルとしては役に立つものである。以下は「哀竜の袖に隠る」(1911-01-26)と題された社説の冒頭である。

明治政府歴代の当局者輩が栄誉と実権とを一身に併せ両手に花の得意を極めて得々たるは、我輩の視て以て小児の戯と為す所なれども、其児戯心を満足せしむる為めに栄誉の高きを貪りて天下の人心が如何に趨りつつあるを顧みざるのみならず、一方には其政権を維持するの窮策として其結果、政治上の責任の自から皇室に帰するの挙措を憚からざりしが如き、全く経世上の考慮を欠きたるものと言はざるを得ず。我輩の素論に我皇室が万世一系国の元首として統治権を総攬し給ふは勿論ながら、其神聖を永久に維持してますます恩徳を天下に普からしめんとせば、政治上の責任は一切政府の当局者に引受け、仮初めにも皇室を煩はし奉る可らず。皇徳の光は無偏無私、一般国民の上に遍照して苟も其間に陰陽厚薄の差を生ぜしめるこそ所謂補弼翼賛の職に在るものの責任なりとは毎度論説したる所にして其微意は天下識者の諒とする所ならん。固より一国の栄辱安危に関し全国一致して之に当る可き大事件には皇室を運動の中心として其威徳に依頼し奉らざる可らず。(昭和版『続全集』⑤742/743頁)

福沢の文章がもつ躍動感などはかけらもない凡庸な文体である。「あまりつまらず」と福沢が嘆いたのも無理からぬところであろう。また福沢は皇統を「一系万世」と呼び慣わしていたから、存命中の論説に「万世一系」という通常の用語が使われていれば、それは福沢執筆ではないと分かる。

「耶蘇教会女学校の教育法」が最初の石河起筆社説

石河起筆の社説はあまりに多すぎるためいちいちを取り上げることはとてもできない。昭和版『続全集』では1891年以降のほとんどの論説を自ら書いたと白状しているのであるから、それ以後の論説に関しては「石河ではない」ものをより分ける方が話は早そうである。そこで以下では、石河が起筆したと確認できる最初の論説はどれか、ということと、すでに大正版『全集』の段階で「時事論集」に収められている石河起筆論説について考察したい。

先にも触れたように、1887年04月中旬に中上川が時事新報社を去ってから伊藤が総編集となる七月下旬まで、紙面全体を統括する編集の任にあたっていたのは石河であった。この時期までの福沢の書簡には石河の文章に触れたものはないので、中上川の退社前から社説を書いていたということはなさそうである。石河が執筆に廻ったことを示す中上川宛書簡(1887-07-27)には、高橋が退社し、渡辺が留まったことが記されたのちに、「石河の編集を止め、伊藤之に代り、石河は執筆と致候得共、容易に間に合不申」とある。そして08月04日には先に引いた「石河はまだ文章が下手にて過半は手入れを要す」(中上川宛)が書かれているのである。これは、石河にとっての最初の社説がこのころ執筆掲載されたことを意味している。

そこでこの時期の社説を検討したところ、「耶蘇教会女学校の教育法」(1887-07-29/30)が石河起筆であると判明した。この論説は大正版には収められていないもので、昭和版になってはじめて読むことができるようになった。石河は高橋が書いた最初の社説「米国の義声天下に振ふ」(1883-09-12)を『全集』から巧妙に取り除いたのではあったが、このようにして自らの初論説は後世に残しているのである。

大正版「時事論説」における石河起筆社説

大正版の「時事論集」には全部で224編の論説が収録されているのであるが、すでに述べたように、それら全てがカテゴリーⅠに属する論説というわけではない。早い段階のものでは1882年12月の「東洋の政略果たして如何にせん」(前半部カテゴリーⅢ)があったし、1892年以降には明らかに福沢以外の人物が起筆した論説が多く見られる。以下に掲げるのはそのうち石河が自ら執筆したと明言している文章(※印を付す)とそう推測できる文章である(管理人による註)

「一大英断を要す」1892-07-19/20推定カテゴリーⅣ
「女子教育」1892-11-10推定カテゴリーⅡ
「朝鮮談判の落着、大石公使の挙動」1893-05-23
「日本外交の進歩」1894-01-16/17
「維新以来政界の大勢」1894-03-01/15推定カテゴリーⅢ
「支那政府の長州征伐」1894-07-22推定カテゴリーⅡ
「大に軍費を醵出せん」1894-07-29推定カテゴリーⅡ
「軍資の義捐を祈る」1894-08-14推定カテゴリーⅡ井田判定E
「日本臣民の覚悟」1894-08-28/29推定カテゴリーⅢ井田判定D
「外戦始末論」1895-02-01/07推定カテゴリーⅢ
「凶漢小山六之助」1895-03-26推定カテゴリーⅢ
「道徳の進歩」1895-07-07
「道徳の標準」1895-07-09
「忠義の意味」1895-07-10
「日米の交際」1897-05-11
「対外前途の困難」1897-06-25
「文明先輩の功労忘る可らず」1897-10-27
「本願寺の処分」1897-12-05
「血脈と法脈との分離」1897-12-07
「法運万歳の道なきに非ず」1897-12-08
「官有鉄道論」1897-08-21
「今回の恩賜に付き福沢先生の所感」1900-05-16

※印の付いている1114(管理人による註)は、大正版「時事論集」の当該部分に石河が執筆した旨注記されている論説である。石河の証言に従うならそれらはすべてカテゴリーⅡとなるはずであるが、ここでは保留としておきたい。

問題は1894年06月から1895年04月の日清戦争期に、福沢立案とはみなしがたい石河起筆の論説(推定カテゴリーⅢ)が何の断りもなく収められていることである。それらは

  • 「維新以来政界の大勢」
  • 「日本臣民の覚悟」
  • 「外戦始末論」
  • 「凶漢小山六之助」

の4編である。また、文体の点からはまったく福沢のものとは見なしがたいが、思想の点では福沢が石河に執筆依頼をしたとしても不自然ではないためカテゴリーⅡと判定した

  • 「支那政府の長州征伐」
  • 「大に軍費を醵出せん」
  • 「軍資の義捐を祈る」

もある。

以下ではこれら推定カテゴリーⅢの諸編について、なぜ福沢の立案といえないか、という点にしぼって記述したい。

「維新以来政界の大勢」と「凶漢小山六之助」

1894年の02月26日から03月15日にかけて福沢は生涯最後となる郷里中津への帰省旅行をしている。「維新以来政界の大勢」は、福沢が東京を離れていた時期に紙面に掲載されている。もちろん掲載期間中に福沢が不在であったとしても、それだけで福沢の作ではないと断定することはできない。旅行中に連載するつもりであらかじめ原稿を用意しておいた可能性もあるからである。しかし、「無益の沙汰」「金甌無欠の皇国」「ある可らず」「鏖」といった石河の書き癖が散見されるうえ、何より文中に「福沢氏」が登場するところからやはり全体として石河の執筆と見るべきである。

エピソードとして大坂緒方塾の講堂に掲げてあった塾則が取り上げられている部分などに福沢の加筆が認められるが、約30年にわたる政界の変動を綴ったその中心的部分は完全に石河のものである。福沢が立案したというには独創的な見解がない。福沢が他の著作や書簡の中でそれにまったく触れていないことは、この長編論説を自分のものと見なしていなかった傍証となろう。

また、「凶漢小山六之助」掲載の直前にも福沢は広島旅行をしていて東京にはいなかった。この論説は、和平交渉のため下関に来訪した李鴻章へのテロ未遂事件の犯人小山を批判したものである。福沢の帰京が03月22日頃で事件発生は同月24日であるから、中国地方から追いかけるようにもたらされたニュースに敏感に反応したとも考えられる。しかし山陽本線は前年11月に広島まで開通していたとはいえ、広島停車場から新橋停車場までの距離は約900キロもある。長旅の疲れをものともせずに福沢自ら筆を揮ったとは考えにくい。

じっさい「不倶戴天」「国賊」という用語は福沢の署名著作では使われていないようである。また、「殆んど」と送りがなを多く振っているところも石河の書き癖である。「我輩は唯国賊の罪天地に容れずと絶叫するのみ」とテロリストを非難するのはよいのだが、還暦を迎えた福沢がかくも平静を失うほどの事件だったのかどうか。この論説を校閲した可能性はあるが、下書き自体は石河が持ち込んだものであろう。

「日本臣民の覚悟」は石河の戦意高揚論説

さて、「日本臣民の覚悟」と「外戦始末論」は、今挙げた2論説よりはるかに重要な意味をもっている。それというのも、大正版『全集』にこの2編が収められたことで、日清戦争に福沢が果たした役割が初めて明らかとなったからである。

1893年05月の『実業論』から1897年07月の『福翁百話』まで署名著作は刊行されていないのであるから、大正版が刊行されるまで、日清戦争に関係した福沢の著作は知られていなかった。そこで後年は常識となる福沢の日清戦争への積極的荷担の重要な証拠とされてきた2編が、じつは石河の著作だったとなると、そもそもその常識なるものが怪しいということになってしまうのである。

日清戦争にさいし国民に政府への無条件の協力を呼びかけた「日本臣民の覚悟」が福沢の執筆ではありえないことについての詳細な考証はすでに井田によってなされている。井田は「臣民」「天下」「真実」「単に」「施設」「浮世」などの石河の常套句や、「分れて」「挙げて」「為りて」などの送りがなの特徴から「これはもう石河がサインしているようなもの」(『歴史とテクスト』35頁)と述べているが、論者もその意見に賛成である。

この論説の特徴は、非常時にあって国民は政府に無条件に従わなければならないとする、まるで1930年代を先取りしたような滅私奉公論にある。

今回の大事件の終るまでは官民共に政治上の恩讐を忘れ、政府に向て多少の不満あるも一切これを言はずして只管その政略軍略を賛成し、民間相互に愛国の義を奨励して、苟めにも私に人と争ひ、又人の気を挫くことなく、日本全国を真実一団体の味方として外敵に当らんとするものなれば、其間の細事情に着眼して、此れを思ひ其れを懐ふときは、公に私に不平不満の数々際限なかる可し。我輩に於ても之を知らざるに非ず。否な、甚だ能く之を知ると雖も、喩へば父母の大病中に兄弟喧嘩一切無用なるが如く、百般の議論理屈は外戦病全快の上の事にして、夫れまでの処は呼吸を凝らして唯一方に全力を尽さんこと、我輩の呉々も願ふ所なり。(1894-08-28)

これが『学問のすゝめ』6編(1874-02)で「政府は国民の名代にて、国民の思ふ所に従ひ事を為すものなり」(③63)と書いていた福沢の20年後の姿だとしたら、まさに驚きである。まるで別人になったようだ、というのが第二次世界大戦後の研究者たちの率直な感想であった。しかしじっさいに別人が書いていたのだから、そう見えるのは当然だったのである。もちろん福沢自身は「日本臣民の覚悟」について、書簡でも他の著作でもまったく言及していない。

「外戦始末論」は石河の日清戦争論

この「外戦始末論」もまた、大正版に初めて収録後、第二次世界大戦終結までは肯定的に、戦後は福沢の侵略的性向を示す証拠として否定的に扱われてきた論説である。その内容は、冒頭の一文に約されている。

外戦の結局如何に就ては、我輩は容易に和するを好まず、彼れがいよいよ降参の実を表して中心より恐入るまでは、出兵に続くに出兵を以てし、我全力を尽して一毫の微も容赦することなく、唯進むの一方あるのみとは、開戦以来の持論にして、一見或は強硬に過るの嫌あるが如くなれども、国家の大事に当り我輩は漫に事端を広くして乱を楽む者に非ず、否な、永久の平和を祈るが故に、殊更らに一時の強硬を主張するのみ。(1895-02-01)

この長大な文を見ても、ここまで指摘してきた石河の特徴がよく出ている。福沢は「彼れ」「否な」「更ら」とは書かないし、こうした凡庸な表現をだらだらと続けはしない。一週間にわたる連載の隅々まで一貫してこの調子なので本論説は徹頭徹尾石河の思想といってよい。ただ最終日(1895-02-07)に参勤交代の供揃えについての詳しい記述があるので、その部分だけは『旧藩情』(1877-05脱稿、当時未発表)のために福沢が集めた資料を流用していると推測できる。

さてこの論説の中心部分は次のくだりである。

今度の結局、いよいよ和睦の場合には、彼の政府に対し恩徳の沙汰は一切無用にして、其至る処を極めざる可らず。媾和の条件として提出する所の償金なり、土地なり、又は其他の箇条なり、都て我思ふ所に適せざるものは会釈なく却下して、更らに我欲する所を命じ、命令に従ふか、更に戦ふか、二者汝の択びに任ずとて、純然たる脅迫主義を以て之に臨むの外ある可らず。(1895-02-01)

悲しいことに、大正版『全集』が世に出されて以降、この一節を書いた主は福沢諭吉本人だとされてきた。大正版の「時事論集」には真作が多いため見逃されてきたのではあるが、長編論説であるにもかかわらず、福沢が書簡などでこの「外戦始末論」に一言も言及していないのはなぜなのかを、研究者たちはもっとよく考えるべきだったのである。

1895年02月04日に森村明六宛てて出された手紙には、

「今度我国の戦勝は他なし、文明開化之賜にして、軍事一切之計画実学之主義に基き、時の遅速と数の多少と物の強弱と、此三者を数等上に活用したるが故のみ」

とあるだけで、連載中の「外戦始末論」を読んでくれとも何とも書いていない。いっぽう「外戦始末論」には、書簡で福沢が重要視している「実学之主義」(科学主義)について何も触れていない。「外戦始末論」が福沢の作であるとしたら、これは奇妙なことなのではあるまいか。

現行『全集』には「外戦始末論」を引用した「軍備拡張掛念するに足らず」(1896-03-21)という論説が収録されている。昭和版『続全集』の段階で加えられたものだが、その起筆者も明らかに石河である。創刊間もない時期の『時事新報』論説における「我輩」は、確かに福沢自身を色濃く投影していた。しかしこの時期の「我輩」はすでに石河へと変身していたのである。

3 有望の少年・菊池武徳

「菊池武徳は有望の少年」

1867年07月陸奥国弘前に生まれた菊池が時事新報社に入ったのは、1887年04月の慶應義塾別科卒業と同時であった。先にも触れたようにこの年は中上川と高橋の退社という『時事新報』創刊以来の大きな異動があり、福沢としても社説記者の補強に迫られていたのである。

福沢が菊池に最初に言及したのは翌1888年02月27日付中上川宛書簡であった。そこには「唯今社説を認候者は渡辺一人のみなれども、菊池は甚だ宜しく、必ずものに可相候、恃み居候」とある。さらに中上川宛書簡には、「菊池武徳は有望の少年、頻りに勉強致居候。是れは必ず高橋義雄の身代りに可相成存候」(1888-05-31)と高い評価が示されているが、前にも書いたように同年10月の石河と渡辺によるクーデタ騒動に巻き込まれてしまった。

とはいえ首謀者ではなかったためであろう、事態収拾後も菊池への高い評価は変わることはなかった。翌年の中上川宛書簡では、「菊池は中々宜敷、高橋の次ぎ、渡辺石河の右に出る者なり」(1889-06-21)と、早くも石河以上のお気に入りとなっている。またインフルエンザにかかった福沢から中上川に宛てられた1891年01月07日付書簡には、「新聞紙の論説も石河菊池等を枕辺に招き寝ながら立案の筋を談ずるに過ぎず」とあり、この時期の福沢以外の起筆者がこの両名であったことが改めて確認できる。

福沢の書簡でたどれるのはここまでであるが、菊池の『時事新報』での働きぶりを推測できる資料として「時事新報社員賞与記録」(現行版第21巻所収)がある。1890年から1896年までが残されており、それによると菊池の賞与(ボーナス)は1890年06月から1891年06月までの一年間に三回支給の記録があり、1891年12月と1892年06月にはその名が見えない。そして1892年12月から1894年12月まで5回支給となっていて、以下は記載されていない。その間の序列は常雇の社員約20名中の6番目位であった。この記録から分かることは菊池は1891年後半から1892年前半にかけて一時時事新報社を離れていたということと、1894年末に退社したということである。

この中断期間については、波多野承五郎とともに経営が傾いていた『朝野新聞』の建て直しに協力していたらしい(丸山信編『福沢諭吉門下』133頁)。当時『朝野新聞』では1890年に慶應義塾を卒業したばかりの永島永洲が再建に孤軍奮闘しており、同窓生の苦境を見捨ててはおけなかったのだろう。その永島も1893年06月に『朝野新聞』が廃刊された後の1896年には『時事新報』に移った。後年には社会部長となるのであるが、かたわら少年冒険小説を書いてその大家ともなった。

いっぽう1894年に退社した菊池は九州に移って筑豊鉄道の経営に携わり、さらに1904年には政友会から出馬して代議士となった。1912年12月の第三次桂太郎藩閥内閣に反対して盛り上がった第一次護憲運動のスローガン「憲政擁護」は彼の発案だったという。戦時中は郷里の弘前に疎開し、1946年02月11日に80歳で没した。

菊池武徳の文体

菊池が書いたのは一言で言えば正確無比で硬質な文章だった。それは彼が著した伝記『中上川彦次郎君』(1906-07)を引けば一目瞭然である。

日本の社会には貴顕学者の類、重きをなして富豪紳商は裏面に隠るゝの陋習あり。左れば君は独立自尊の主義よりして三井家の連枝が天下に闊歩し、内外に交際を拡むるの必要を認めたるが如し。但し数多き各自の邸宅に会堂を構へんよりは共同集会所を設けて重役等も場合により使用の慶に頼るを便利と思ひしにや。丸の内に三井集会所なるものを設けたりしが、素より是にて満足したるにはあらず、更に大規模のものを新築して盛に西洋交際の趣に摸せんとは窃に胸中に設計したる所なる可し。(『中上川彦次郎伝記資料』239頁)

菊池は中上川の伝記作家であったが、文体まで中上川そっくりであった。両者が同時に編集部に在籍していたならその区別にはたいそう難儀したであろうが、幸いにして中上川の退社と菊池の入社には2ヶ月の間がある。1887年04月以降に中上川のような文章を書く氏名不詳の記者がいたら、それは菊池である可能性が大である。

井田は1889年05月の「時事新報」欄を検討して、石河以外の起筆者として桑田豹三と仮にYとする記者の二名を見いだした(『歴史とテクスト』64頁)。調べてみるとこのYが菊池なのであった。すなわち『中上川彦次郎君』には、井田がYの特徴として挙げている「直ちに」「予て」が散見できるし、なにより他の記者には見られない「にて」を「軈て」と表記するところが決定的である。井田によると、このY(菊池)の表記上の特徴は、ほかに「濫に」「猶ほ」「顧ふに」「惧れ」「都て」などであるという。

菊池の在職期間を1887年04月から1891年06月までと1892年07月から1894年12月までに分けるならば、福沢が菊池を高く評価する書簡を残したのは1891年までの前期に限られる。復職後にも前期と同様の処遇を受けていたところをみると論説は発表していたのだろうが、すでに福沢の寵愛は失っていたのではないか。この推測は、前にも引用した石河の「二十四五年頃からは自ら草せらるゝ重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ」という証言とも一致する。明治24年は1891年であり、この記述は菊池がいったん時事新報社を離れたときの状況を示しているのであろう。

福沢が「菊池は中々宜敷」と書いた1889年06月から同年08月までに期間を限定して菊池が起筆したと推定できる論説を挙げると以下のようになる。

「福沢先生名誉職市参事会員辞職の始末」1889-06-24推定カテゴリーⅡ
「速成医の説」1889-07-01推定カテゴリーⅡ
「功臣の離合」1889-07-27推定カテゴリーⅡ
「法律の文字」1889-08-01推定カテゴリーⅡ
「東京三百年祭」1889-08-23推定カテゴリーⅡ

タイトルの付け方まで中上川と似ているようだ。現行の『全集』をざっと見渡しても、この時期の菊池の登板回数はかなり多い。石河起筆のものと菊池のものとが交互に出てくるような頻度である。ここで挙げた5編はいずれも昭和版になって『全集』に収録されたものであり、いっぽうこの時期の福沢執筆とおぼしき論説はいずれも大正版の「時事論集」に入っているので、かえって1889年頃までの大正版所収論説の信憑性の高さが確認できるといえる。

推定カテゴリーについては、これらにとくに福沢らしいところがあるわけではないが、当時の書簡から積極的に論説に関わっていることが確かめられるので、いずれも福沢の思想の内にあるものと判断した。とはいえ、福沢が菊池に「だいたいこんなものを書け」と命ずると、菊池はその期待に応えるよい論説を仕上げてもってくる、という程度の関与だったのではなかろうか。この5編のテーマはいずれも軽いもので、菊池の方からの完全な持ち込み論説であった可能性も残されている。

なお、渡辺が去った1889年から1891年まで『時事新報』社説欄を担っていたのは石河と菊池だったのだが、不自然なことに『福沢諭吉伝』には菊池のことが一言も触れられていない。クーデタ騒動に菊池を引っ張り込んだ負い目があるからであろうか。伝記が出版されたとき、自分が登場していないことを知った菊池がよく抗議しなかったものだ。

4 福沢諭吉の再来・北川礼弼

北川礼弼は「行文平易にして意を達す」

菊池が編集部を離れたため1891年の後半から1892年の前半にかけて論説を担当したのがもっぱら石河であったことはすでに述べた。この期間の福沢書簡からは菊池にかわる社説記者を捜している様子はうかがわれない。これはおそらく新聞社の運営を伊藤と石河に移譲したため悠々としていられたのである。この頃になると総編集伊藤の勢力は拡大してほとんど「伊藤内閣」の観を呈していた、と先に引いた柳荘太郎の証言にもある。

また、毎日掲載しなければならない社説を56歳の福沢と32歳の石河だけで維持できるはずもない。福沢は社説欄についてはその実権を石河に譲り、実際の執筆は彼を中心とする若手記者数名に任せるようになったのであろう。いっぽう福沢は時々立案するだけの関係となったわけである。石河としても「主筆の椅子まであと少し」と内心密かに思いを巡らせたにちがいない。

1892年の後半になって『朝野新聞』の建て直しに出ていた菊池が復帰してきたが、その時にはすでに石河を脅かす存在ではなくなっていた。不在となる直前の1891年06月の賞与では石河125円、菊池70円と55円の差でしかなかったが、復帰直後の1892年12月には石河150円、菊池50円と100円の開きとなっている。また、「賞与記録」の記載順位も、1890年から1892年までは総編集の伊藤、会計の坂田そして論説の石河の順であったものが、1893年に坂田が退社したため石河が第2位とされるようになった。ますます順調である。

ところが1894年になって石河が築いてきた地位を脅かす者が現れたのだった。それが北川礼弼である。北川は1861年01月、現在の福井県敦賀郡に生まれた。1879年03月に慶應義塾に入学し、1881年12月に本科を卒業した。在学中は民権運動の高揚に呼応して学内で盛んとなった擬国会などの議事講習会や演説会に積極的に参加し、卒業後は一時神奈川県伊勢原で教員を勤めた後帰郷した。1886年に再び上京して海軍省翻訳掛から1889年ころ名古屋の『金城新報』主筆となった。1890年に東京の『都新聞』に移り、さらに1891年からは、波多野・菊池らと共に『朝野新聞』の再建に取り組んだ。1893年06月に同紙が廃刊されて後、先に戻っていた菊池に引かれる形で1894年春ごろ『時事新報』に入社したものらしい。

福沢の書簡には北川に触れたものがほとんどない。近年発見された岡本貞烋宛書簡(1887-05-12)によれば、上京してきた北川が福沢を介して岡本に就職の依頼をしている。「北川は書を読む事最も巧みなれとも、英語は少々なり」とあるところを見れば、海軍省翻訳掛に入る前のことであろう。再上京は1886年ではなく1887年であったようだ。とはいえ、福沢はここで北川の文章力に何も触れていない。7年後『時事新報』に移籍してはじめて福沢は北川の文才に気づいたのではなかろうか。以下に掲げるのは近年発見された北川起筆の社説「後を顧みよ」(1898-07-31、全集未収録)の冒頭である。

天下新政府に対して同情を寄するもの少なからざるのみか、差当り取て代はらんとする者もなし。甚だ安心なるが如くなれども、世間の人気は変じ安きものなり。当局者にして優柔不断何事も容易に埒明かざる様にては人心は直に倦みて又々変を思ふに至る可し。例へば行政整理の如き、民党多年の宿論にして政府を乗取れば即日より着々実行す可き筈なるに、実際は然らず。先づ篤と調査の上にてと云ふ塩梅にて、文書往復の手続など属僚に命じて調査せしむる其調査は容易に出来ず、結局改革は只名のみにして、一二局課の廃合、二三繁文の省略ぐらゐに止まり政府全体の風色依然たらば、世人は失望せざらんと欲するも得べからず。(『福沢諭吉年鑑』第22号)

その年の06月に成立したばかりの隈板内閣による行政改革の先行きを懸念したこの導入部の語り口は、まるで福沢諭吉の再来である。この社説は偶然にも草稿が残されており、論者はここで北川が記した部分のみを引用したのであるが、福沢が書いたものとして提示されたとしてもほとんど区別はつかない。これほど似ていることから口述筆記がなされていた可能性もないではないが、別の論説についての福沢から北川への書簡に、「行文平易にして意を達す。一字を替へず其まゝ御返し申し候」(1898-11-05)とあることから、やはり下書きは北川が独自に作成し、それを福沢が校閲していたものらしい。

かつての高橋義雄もまた福沢そっくりな文章を書けたのだが、その当時の高橋はまだ20歳をいくらか越えたくらいの青年であった。それに対して北川は入社当時すでに33歳の壮年である。高橋がもっていた未熟さがないぶんだけ北川は福沢とさらに近いのである。

北川の文章をより分けるのは困難

そこで北川の文章の特徴であるが、井田によれば、北川が多用するのは「何処まで」「沙汰」「世の」「強ひて」「斯の如き」「目下」「の情」「銘々の」「を云々する」などの表現であるという。しかしこれらを福沢がまったく使わないとは断定できないので、判定のための決定打とはならない。

むしろ北川が入社した日清戦争直前の時期にはすでに福沢は自ら筆を執ることはほとんど無くなっていた、という石河の証言(『福沢諭吉伝』第3巻713頁)や福沢自らの発言(『福翁自伝』⑦250頁)を重要視して、たとえ福沢らしく見えたとしてもまずは真筆ではない、というところから出発したほうがよいのではないか。つまり1894年以降の論説で、明らかに石河起筆ではなく、しかも一見福沢らしきものはまず北川起筆と推定してみるのである。そして福沢の用語法と細部まで一致する場合にかぎって真筆と判定するわけである。

また、現在のところ推測に過ぎないが、論者は現行の『全集』には北川起筆の社説がごくわずかしか収められていないと考えている。それは北川が石河を脅かす存在であったことによる。丸山信の『福沢諭吉門下』(101頁)には、北川に関し、入社翌年の1895年に『時事新報』編集長となった、との記載がある。このことについて北川自身は、

「私は丁度日清戦争の始まる前に時事新報に参りまして、伊藤さんの指図の下に編集に与つて居りました」(『伊藤欽亮論集』下巻「付録」14頁)

と述べており、ここでの編集長とは総編集に次ぐポストと推測される。

また「賞与記録」によれば、最初に登場する1894年06月と同年の12月には名簿の末尾にあった北川の名が、1895年06月には伊藤・石河・一太郎・捨次郎・岩本に次ぐ6番目(金額では3番目)となり、12月には名簿順位も3番となっていることは見て取ることができる。北川はなぜかくも急速な昇進を遂げたのであろうか。文才がすばらしかったことは言うまでもない。論者は、そればかりでなく、北川は編集長として総編集伊藤を補佐しつつ論説も担当して石河の独走を防ぐ、という役目を割り振られたのではないかと推定する。

ところが『福沢諭吉伝』には北川の編集長就任についての記述はなく、彼はたんなる時事新報社員としてわずかに3回その名が記されているだけにすぎない。つまり日清戦争以後の時事新報社における北川の役割を矮小化しているのである。もちろん昭和版『続全集』の「書簡」編にはそれを窺わせるような証拠を見いだすことはできない。編纂者石河には何を「収録しない」かについての選択権もあったからである。とはいえ「時事論集」を編纂するにあたって、石河に、北川執筆の論説を収めたくない、という規制が働いたと推測するのは不合理ではないであろう。そして後に触れるように、石河が北川の存在を抹消しようとした確かな証拠もあるのである。

北川起筆の全集収録論説

現在のところ北川が執筆したとはっきり分かっている全集収録済みの論説は、宗教の衰微による道徳の衰退を嘆いた「宗教は経世の要具なり」(1897-07-24)ただ1編だけである。この論説については当時時事新報社の校正係であった中村梅治が残した記録によって確認できる。とはいえ、文面だけを見て北川起筆と言い当てることは極めて難しい。この時期の福沢は07月13日に『福翁百余話』を脱稿し、完成後の息抜きにか07月22日から29日まで静岡県清浦の保養館で静養をしている。つまり掲載日には旅行中であったわけだが、時事的な論説ではないため書き貯めておいたものを発表したのだとしても不自然とはいえない。内容的には直前まで書いていた『福翁百余話』の第12編「思想の中庸」のテーマと重なる部分があるから、おそらく石河は大正版に漏れていた真筆と思いこんで収録したのであろう。

井田は北川が関わったと考えられる論説を4編指摘している。いずれも昭和版で加えられた論説である。

「義侠に非ず自利の為めなり」1895-03-12井田暫定評価B
「元老保存」1896-05-03石河との共同起筆と見なし、暫定評価C~D
「三日天下の覚悟亦悪しからず」1896-10-02石河との共同執筆と見なし、暫定評価E
「対外の硬軟」1898-04-22暫定評価C

論者の推定を先に述べるならば、①カテゴリーⅠ、②カテゴリーⅣ(石河単独起筆)、③カテゴリーⅣ(北川単独起筆)、④カテゴリーⅣ(北川起筆)という結果であった。

まず①は、井田も判定しているように極めて福沢度の高い論説である。ただ、その草稿を北川が担当した、と井田が考える理由はよく分からない。論者の見るところ文脈は首尾一貫してなめらかにつながり、地の文にあるはずの北川らしさが顔をのぞかせている部分は見あたらない。確かに「沙汰」や「目下」という北川的用語が使われている。とはいえそれらは同じ1895年に執筆された『福翁百話』にも認められ、そのことを以て北川が本論説の下書きを担当したと推定することはできない。また、書簡その他の資料からも、旅行・病気等の障害はなかったようである。以上のことから福沢の真筆とみなすことにする。

②を井田は石河・北川の共同執筆と見ているが、論者には石河の筆致を認めることはできても北川については判断がつきかねた。また、福沢が確実に校閲した部分も検出できない。書簡によると、福沢は04月21日から30日まで伊勢参拝の旅行に出かけている。そうだとすると執筆はもとより校閲も難しかったのではなかろうか。そこで石河が単独で書いた論説と推定したわけである。

③は「噬付」「厭気」「否な」など福沢には見られない語彙と石河にはない文章の歯切れのよさからいって北川の作であることは疑いない。このことは翌日の石河起筆の社説「尚武は日本人固有の性質なり」(1896-10-03)と比較してみれば一目瞭然である。問題は福沢の立案によるものかどうかであるが、09月29日から10月08日まで書簡が残されていないため、この間の動静は分からないのである。08日以降の手紙に病気に関する記述はないから、おそらく健康に活動していたのだろう。とはいえ、62歳になっていた福沢は、もうこの時期日々の論説については石河らに任せっぱなしにしていたのではなかろうか。

④もまた北川起筆であることは、前日の石河による社説「富豪家自ら慎む可し」(1898-04-21)の冗漫な調子と比べて、たたみかけるような明晰な論旨と「目下」「云々する」という語法からはっきりしている。この時期の福沢は『福翁自伝』の追い込みにかかって多忙を極めていたことを鑑みて、北川が完全に企画したカテゴリーⅣの論説であると推定した。

現在のところ現行『全集』に収められている北川起筆の論説は先の「宗教は経世の要具なり」と合わせて3編となっている。北川の時事新報社で果たしていた役割を考えれば、全集選定にあたって石河がいかに排除しようとしたにしても、完全に除かれたとは考えにくい。北川による社説はこれからも発見されよう。

1898年09月、福沢は脳卒中の病に倒れた。翌年石河は念願の主筆に就任し、いっぽうの北川は退社して鎌田栄吉(後の塾長)や福沢一太郎とともに「修身要領」を広めるための全国旅行に出かけた。1902年に慶應の塾監となり、1904年に千代田生命相互会社に入社してそこの重役となった。その後は言論界に戻ることなく1930年12月に69歳で生涯を終えた。『福沢諭吉伝』が刊行されるわずか1年2ヶ月前のことであった。

5 福沢捨次郎時代の始まり(1896-07)と若き経済学徒・堀江帰一

最後の社説記者・堀江帰一

時間は少し戻る。前にも述べたように諭吉の次男捨次郎が時事新報社社長となったのは1896年夏であった。これは「賞与記録」に捨次郎の名が最後に見られるのが1896年06月で、同年07月に始まる「新聞社員定式月俸録」には福沢兄弟の名前は見あたらないことから確かめられる。伊藤欽亮の総編集としての立場に変わりはなかったと思われるが、やはり密かに思うことがあったのであろう、同じ年の12月には退社して日本銀行に転じてしまった。

伊藤が去ったことで石河の名簿順位は社員としては最高位となった。しかし二番は北川であるから安閑とはしていられなかったはずである。さらに1896年12月に新設の慶應義塾大学部理財科を卒業したばかりで21歳の堀江帰一が1897年03月に社説記者として採用された。先にも引用したように、福沢が

「新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなつて、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案して其出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます」(『福翁自伝』⑦250頁)

と話したのは翌1898年の春ごろのことである。

福沢の書簡に堀江は一回しか登場しないため、時事新報社内での動静ははっきりしない。もっとも「定式月俸録」(現行版第21巻所収)では1897年06月に初任給35円から5円昇級したことが示されているいっぽう、「賞与録」では1897年06月の最初のボーナスが100円で、名簿順位は14番、金額では5番で永島永洲と同額となっている。卒業してわずか半年にしてすでにこの位置にあったということは、福沢の堀江にかけた期待がいかに大きかったかが分かろうというものだ。福沢は翌1898年09月に倒れるので、堀江執筆のカテゴリーⅡ論説があったとしても2年弱の期間であったということになる。1899年07月に退社し、慶應義塾第一回海外留学生としてアメリカ合衆国ボストンのハーバード大学に旅立っていった。

堀江起筆論説を現行版『全集』から選び出すのは容易ではない。比較のためのサンプルとなる留学前の署名論説がごくわずかしかないからである。1927年12月に51歳で生涯を終えるまでのおよそ30年の間に『堀江帰一全集』10巻を残しているとはいえ、われわれが必要としているのは後の高名な経済学者としての文章ではなく、駆け出しの新聞記者のそれである。ようやく『慶應義塾学報』に掲載された4編の論説を探し出すことができたので、それらを用いて堀江の語彙と文体の特徴をよりだしたい。

堀江の文章

留学前に堀江が書いた4編の署名論説は、いずれも『慶應義塾学報』に掲載されたものである。

「二大政党の対立に就て」第1号1898-03
「複本位制に対する妄議を排す(一)」第3号1898-05
「相続税に関する近代の学説」第12号1899-02
「対外経済政策の原則」第15号1899-05

掲載誌『慶應義塾学報』は、同窓会誌ともいうべきもので、今日では『三田評論』の名で呼ばれている。発行所は京橋区南鍋町二丁目の交詢社内とされていたが、当時交詢社は時事新報社の隣にあった。『時事新報』と執筆者が重複しているのも当然といえるかもしれない。

大学部では一期下であった編集人の谷河梅人(後の台湾日日新聞主筆)から執筆の依頼を受けたのであろうが、これら4編の論説のテーマそのものは堀江が自分自身で選んだと考えられる。未だ22歳とはいえ、堀江は最初から重厚なアカデミシャンであったようだ。浮ついたところのない理路整然とした論の運びは、面白みは少ないとはいえ、安定した筆力を感じさせる。例えば「二大政党の対立に就て」は次のように始まっている。

政党とは一国の政治社会に起る問題に対して一定の見解を実行せんが為めに結合したる人衆の団体に外ならず。即ち政党の区画は一に社会的利害の如何に基因するものにして、既に社会的利害が錯雑ならんには政党も亦多きを加へざるを得ず。政党の性質より見れば必然の成行と云はざる可らず。例令ば社会に於て最も利害の相容れざるは富者と貧者となれば、各々其見る所に従て政党を組織す可く、撰挙権制限問題などに就ては判然双方の間に利害の衝突を見ることなれども、若しも政府が貧者の重に消費する貨物の生産を保護せんが為めに輸入税を課する場合には双方は如何なる見解を持す可きや。

それまで在籍していた社説記者の文体からは、菊池武徳のものにやや似ていると言えようが、菊池ほど怜悧な感じはなく、といって石河ほどには退屈ではない、とでもいおうか。しかしそれはあくまで印象にすぎない。そこで目を凝らして探してみたものの、どこまでも真面目な論文調で、とうとう文体を特徴づける堀江ならではの慣用表現を抽出することはできなかった。表記の特徴としては、「錯雑」「箇人」「例令ば」「鞏固」「意嚮」などが他の社説記者とは異なる点である。

とはいえ、堀江の執筆した論説を選び出すことがまったくできないという訳ではない。他の社説担当者はそれなりに特徴的な文体を有していたのだから、消去法で蓋然性を高めることは可能である。また論者は、新卒の堀江は経済論説担当としてとくに増強された社説記者であると推測している。『堀江帰一全集』を見渡しても、経済学者なのであるから当然ではあるとはいえ、残された論説はほぼ全て経済学理論または経済政策に関するものである。そうであるとすると、テーマが経済学理論や経済政策である場合は、まず堀江の起筆を疑ってみたとしても、あながち的外れとはいえないであろう。

こうしたことに着目して1897年06月以降の現行「時事新報論集」を調べてみると、「幣制改革」(1897-02-21、大正版所収)と「税法の改正と租税の増徴」(1897-06-01)の2論説が堀江によると推定しうる。前者は日清戦争の賠償金を基に金本位制への移行を推進する政府への明確な反対表明である。すなわち金銀両本位制にしておくほうが決済上有利であるというものだが、その骨子は翌年05月発表の「複本位制に対する妄議を排す(一)」とまったく同じである。また後者は税制改革に関する全般的意見を述べたもので、記者の税制への深い理解が窺われる。いずれも堀江起筆とする独自の表記があるわけではないが、福沢直筆でないのはもちろん、石河・北川の特徴も検出できないため、堀江筆としたわけである。

その場合立案者は誰かということになるが、創刊15年を経た『時事新報』が、いかに俊才の誉れ高いとはいえ、新卒で22歳の社説記者の持ち込み原稿をそのまま掲載するようなことはなかったであろう。いずれの論説も後の論調を方向づけるものであるので、福沢な大ざっぱな指示を出して堀江に執筆を命じたのではあるまいか。よっていずれもカテゴリーⅡと推定したい。

1897年から翌年に口述された『福翁自伝』では3名の名前が列挙されているにもかかわらず、北川の論説と同様に堀江のものもごくわずかしか収められていないようである。カテゴリーⅡの論説までは収めるという方針であったはずなのにこれはどうしたことなのであろうか。そこで以下では、今日まで四次にわたる『福沢全集』の編纂の過程を見ることにしたい。

参考:時事新報社長・総編集・主筆・社説記者の変遷

西暦註1社説記者
1882中上川彦次郎波多野承五郎、(05月/)高橋義雄、渡辺治
1883中上川彦次郎波多野承五郎、高橋義雄、渡辺治
1884中上川彦次郎波多野承五郎(/07月)、高橋義雄、渡辺治
1885/1886中上川彦次郎高橋義雄、渡辺治
1887中上川彦次郎(/04月)高橋義雄(/07月)、渡辺治、(07月/)石河幹明
(07月/)伊藤欽亮
1888伊藤欽亮渡辺治、石河幹明、(02月/)菊池武徳
1889伊藤欽亮渡辺治(/01月)、石河幹明、菊池武徳
1890伊藤欽亮石河幹明、菊池武徳
1891伊藤欽亮石河幹明、菊池武徳(/06月)
1892伊藤欽亮石河幹明、(07月/)菊池武徳
1893伊藤欽亮石河幹明、菊池武徳
1894伊藤欽亮石河幹明、(04月/)北川礼弼、菊池武徳(/12月)
1895伊藤欽亮石河幹明、北川礼弼
1896福沢捨次郎石河幹明、北川礼弼
1897/1898福沢捨次郎石河幹明、北川礼弼、(97年03月/)堀江帰一
註1
1882/1887-04は、社長主筆
1887-07/1896-06は、総編集
1896-07/は、社長

管理人による註

当初公開していた表・表の解説に脱落部分・誤記があったために、加除訂正を行い、該当箇所を del 要素と ins 要素を用いて表記しました。