誰が『尊王論』を書いたのか? その3

2013-01-23

3『尊王論』の下書きを石河幹明が書いたことの証明

1にも書いたように、『尊王論』の下書きを石河が担当したという私の指摘は、意外な波紋を呼んだ。とりわけ安川は、『尊王論』における「臣民」という語彙の使用だけから私がそれを石河執筆と判定した、と見なしているようである。実際には「あとがき」にも書いたように、紙幅の制限から執筆者認定にいたる過程の考証は省略しているのである。以下で、新書では省かざるをえなかったその考証を行うことにする。

語彙や文体の分析によらずとも、『尊王論』が2人の人物によって書かれている、ということは、第16段落と続く最終第17段落の繋がり具合を見るだけでもはっきりしている。

(第16段落末尾)前段の所論は都て尚古懐旧の点より説き出し、其主義固より無病なりとは雖も、古旧を慕ふ者は固陋に陥るの弊を免かれず、其極端に至りては時勢の変通を知らずして、日新開明の主義に敵するものさへなきに非ざれば、我輩に於ては特に此辺に注意し、尚古懐旧の人情に依頼して帝室の神聖を維持すると同時に、其神聖の功徳を以て人文の開進を助け、帝室は日本の至尊のみならず文明開化の中央たらんことを祈り、特に微意の在る所を明にしたるものなり。

重複を憚からず終りに一言して読者の聴を煩はすものあり。本編の旨とする所は固より唯尊王の一点に在りと雖も、我輩の持論として帝室をば政治社外の高所に仰ぎ奉らんとする者なれば、世人或は其意を玩味せずして、斯くては天子は虚器を擁するに異ならずとて、忽ち不平を鳴す者なきを期す可らずと雖も、左りとは微意の貫徹せざるものなり。(第17段落冒頭)(現行版『全集』第6巻28頁)

見られるように、最終第17段落は、いったん論が終結している第16段落に、「重複を憚からず終りに一言して読者の聴を煩はすものあり」、と新たに書き加えられているのである。この第17段落は、<帝室はあくまで政治社外にあるべきだ>、ということをテーマとした『帝室論』の要約となっており、15行のうちに4度も「政治社外」が使われている。この部分が福沢の筆であることは確実である。

福沢自身は、天皇の政治からの独立を何より重要視していたのであったが、第16段落より前の部分を書いた人物は、政治社外の存在としての帝室よりもむしろその尊厳神聖を強調したかったように思われる。なにより6年前の『帝室論』の冒頭は、「帝室は政治社外のものなり」、であったのに、この『尊王論』は、「我大日本国の帝室は尊厳神聖なり」、と説き起こされているのである。

もちろん『帝室論』でも、政治社外なるがゆえに帝室の尊厳神聖は保たれる、という論旨になっていて、政治社外であることと尊厳神聖であることは表裏一体の関係にある。とはいうものの、まず第1にいずれの要素を重要と考えるかについて、『帝室論』と『尊王論』には一種のずれがあるように感ぜられる。第17段落で、帝室が政治社外にあることが何より重要だ、と福沢自身が加筆しているのに、それより前の部分に遡って政治社外がどこに出てくるかといえば、おおよそ70行以上も前の、第15段落冒頭なのである。

そこで、第16段落までの主要な部分を書いたのは、当時社説記者であった

のいずれかということになる。文体と語彙による判別法井田メソッドを用いて調べてみると、その人物が石河であることが分かったわけである。(なお、3人の文体を区別する仕方については、『時局的思想家福沢諭吉の誕生』の当該部分を参考にしてほしい。)

以下、石河が好む語彙を、段落ごとに指摘するならば、

第1段落
「臣民」、「天下万民」、「日本人固有の性」、「大義」
第3段落
「ある可らず」、「超逸」
第6段落
「可きや否や」
第10段落
「知る可らず」
第11段落
「聖徳」
第14段落
「可きや否や」、「天下万民」
第15段落
「包羅」、「涌源」、「忠淳」、「良民」、「喋々する」
第16段落
「群犢」、「徧く」

などがある。

だからといって、第16段落までについても、石河がすべて書いた、というわけではない。段落によって、石河ではなく、福沢がしばしば使う語彙が現れる部分があるのである。たとえば

第2段落
「一系万世」
第4段落
「坊間血気の少年」、「打当り」、「大声一喝」、「預防」
第5段落
「銭」
第7段落
「黜陟」、「黷す」
第8段落
「銭」
第9段落
「滔々たる」
第12段落
「生々」
第13段落
「益々」、「綽々」

などである。

それぞれを特徴づける語彙の出現状況からみて、短めの原型『尊王論』を石河が書き、それを新聞に掲載するにあたって、福沢が加筆した、と推測できる。その原型は主に、第1・3・6・10・11・14・15・16段落で構成されていたのではなかろうか。この場合の総行数は260行程度で、おおよそ6日分に相当する。

この原型だけでも意味は通じるのであるが、完成された『尊王論』よりもさらにいっそうつまらない。

思うに、『尊王論』で一番面白い部分は、<天皇やくざの大親分説>ともいうべきことが書かれている第4・5段落(09月27日掲載)なのであるが、この連載第2日目分は、完全に福沢が単独で執筆している。また、事物の価値は労働量かまたは尊重の感情のいずれかで決まる、ということが指摘されている第8・9段落(09月29日掲載)も、全体が福沢の筆である。

労働と価値との関係は、この掲載第4日目分でしか触れられておらず、その他の部分では、希少性がそのまま価値と直結して述べられている。石河が提出した原型『尊王論』で、帝室は希少なるがゆえに価値をもつとだけ書かれていたのを、福沢が、「価値というのは希少性だけで決められるものではないよ」、などと言いつつ、第8・9段落を新たに書き下ろしたように見える(もちろん私の憶測である)。

完成された『尊王論』が福沢一人の手になる著作だと信じて疑わない方は、どうか、連載第2日目分(現行版『全集』第6巻7頁14行~10頁6行)と、連載第8日目分(23頁17行~26頁8行)をそれぞれ音読して比べてみてほしい。上に述べたように、前者は福沢のみの執筆で、後者は石河が下書きし、福沢の筆はほとんど入っていないと私が判定した部分である。同一人が、同じ論説の中でこれほど異なった書き方をするとは信じがたい。

さらに原型『尊王論』の作者が石河であったことを補強することがらとして、後年石河が単独で書いた社説「袞竜の袖に隠る」(1911年01月26日掲載)と『尊王論』の第15段落(1888年10月04日掲載)に、また社説「上下親愛」(1911年02月2日掲載)と『尊王論』の第16段落(1888年10月06日掲載)に、それぞれ相当な類似点があるという事実も指摘しておきたい。

社説「袞竜の袖に隠る」と「上下親愛」は、福沢没後10年の大逆事件に関連して書かれたもので、昭和版『続福沢全集』にだけ採録されている。「袞竜の袖に隠る」は、政府当局者が政治上の局面打開のために皇室の威光を利用しがちであることを批判した社説である。その中心となる部分は以下の通りである。

互に所信を主張して相下らざる其(政治上の)争の裁判を一視同仁遍照無偏の皇室に仰ぎ奉るとは恐入りたる次第にして、皇室の御裁断とあれば之に承服せざるものある可らずと雖も、其事たる一再ならずして常に一方の所信の徹底せざるを見るときは、内心深き処に感ずる其感情は、甚だ面白からざるものなきを得ざる可し。斯くの如きは臣民の忠誠心を抵当にし、袞竜の袖の蔭に自家の地位を維持せんと謀りたるものにして、其無責任不徳は云ふまでもなく、一般の感情に於て皇室は恰も政府官人の一類の専ら奉ずる所なるが如き観を成さしめたるは傍若無人、不謹慎至極の振舞と評せざるを得ず。(昭和版『続福沢全集』第5巻744頁)

一方、『尊王論』第15段落にはこうある。

一切の俗務は挙げて此輩(政治家)に任じて譏誉の衝に当らしめ、其一部分の者共に人望の属する間は之に施政の権を授け、人望尽くれば他の者をして之に代らしめ、其者共の間には政敵もあり政友もありて、時としては大に人に怨まれ又時としては大に人を怨み、其苦情煩悶殆んど見るに忍びざるもの多しと雖も、帝室は独り悠然として一視同仁の旨を体し、日本国中唯忠淳の良民あるのみにして、友敵の差別を見ることなし。如何なる事情に迫るも帝室にして時の政府と譏誉を与にするが如きは、我輩の断じて取らざる所なり。如何となれば、帝室は純然たる恩沢功徳の涌源にして、不平怨望の府にあらざればなり。帝室は政治塵外に独立して無偏無党、円満無量の人望を収む可きものなればなり。(現行版『福沢諭吉全集』第6巻25頁)

いずれも天皇の政治利用は決してしてはいけない、という主張であるが、皇室の性格を「一視同仁」「無偏」という共通の語彙によって表現しているせいか、23年もの時間経過を感じさせない共通の印象を与えている。試みに、両者の引用を入れ替えて、地の文から続けて読んでみても、違和感はないようである。

また、社説「上下親愛」には、

今日の実際に皇室に接近するの光栄を有するものは有爵有位なる官辺の人々に限らるるの例にして、普通の人民は殆ど其光栄を辱ふするの機会なしと云ふ。斯る慣行にして若しも一般の人心に皇室は政府官吏の専ら戴く所にして、吾々平民は唯々遠く外より拝し奉るに過ぎずとの念を催さしむるが如きは、決して皇室の恩徳を天下に遍からしむる所以に非ず。 (「上下親愛」昭和版『続全集』第5巻760頁)

とある。もう一方の『尊王論』の第16段落には、

帝王は一国を家にして其家人に厚薄する所なしと主義を定るからには、国民を遇するに官私などの差別は固よりある可らず。或は帝王の地位が政府に近しとて政府の辺に偏して厚ふすることもあらんか、政府外の人民は帝王の子民にてありながら、其子視せられざるが為めに君父に近づくを得ずして、王家は国中過半数の人心を失ふ可きが故に、其恩徳を施すに当り官私の筋を差別するが如きは決して為ざる所なり。(現行版『全集』第6巻27頁)

とあって、いずれも皇室からの恩徳の施しは、官民に差別無く平等になされなければならない、ということを主張している。こちらもまた互換可能である。

もちろん『尊王論』の影響を受けて、石河が福沢没後10年に同じ内容の社説を執筆したという可能性もあるから、こうした内容上の類似は決定的とはいえない。とはいえ、福沢は『尊王論』以後『福翁百余話』(刊行は没直後の1901年4月)まで8冊の本を世に出しているのであるが、それらにおいて、<恩沢功徳の涌源としての帝室>(『尊王論』第15段落)の尊重や、<恩徳無差別>(第16段落)の主張を表明してはいない。いや、尊王そのものについてさえ、安川の『福沢諭吉のアジア認識』(2000年12月・高文研刊)資料編によれば、天皇制度を重要視している署名著作は『尊王論』以後ないようである。

つまり石河は、福沢が署名著作では再び書くことのなかった、無偏無党の皇室と国民との間の直接的な結びつきは何より大切である、という尊王をテーマとする社説を、福沢没後10年にしてものしたことになる。そしてそればかりではなく、わざわざそれらを『続福沢全集』に収めてもいるのである。それらが福沢とは無関係であるのは、誰の目にも明らかなことであるにもかかわらず。

前にも述べたように、『尊王論』に草稿は残っていない。そのためここまで述べたことが、印刷された文面からいえる最大限のことがらである。