誰が『尊王論』を書いたのか? その5

last updated: 2013-01-23

5 1888年10月のクーデタ騒動(2)10月22日付中上川宛書簡

新聞社をすでに辞めている高橋義雄は優遇され、福沢兄弟は帰国途上である。クーデタ騒動が勃発したのは、『尊王論』の連載が終了して間もない10月中旬であったと推測できる。10月22日付中上川宛 書簡(1324)は重要なので長く引用したい(参照の場合の便宜のため段落をローマ数字で示す)。

(Ⅰ)

時事新報にて伊藤が独り編輯を司り居候処、渡辺、石川等が少々不平にて、新聞の権力は編輯に集り、自分等は労して功なきが如し。就ては其権を分つ可し云々之事を申出候に付、何とか不致ては不相成義と存候。其際、或は穏ならざる言葉を吐きたるよし。薄々承り候に付、左様な事を申せば、新聞局中壱人も入用なし、諭吉が唯独りにて請合うべし、役にも立たぬ少年は一切不用と云はぬばかりに話しを仕掛けて、先ず事は治まり候有様なり。全体を申せば伊藤は年も長く智恵もあり、颯々と事を為す処に、渡辺、石川等は年若くして少々筆に頼む所のものあるより、グヅグヅ申出したるならん。何分度量の狭き少年共にて、共に語るに足らず。斯る様子にては渡辺も石川も後年大に為すあるの人物ならずと、先ず鑑定は出来申候。尚い才之事情は追々御知らせ可申候得共、あらまし之処のみ右之通りに候。

(Ⅱ)

ツイ忘れたり。前条之事を申出る前に、石川が菊池などと申合せ、雑誌を発兌致度申に付、勝手次第、全く新報と関係を絶て後に着手す可しと答へたれば、是れにて見合に相成、又近日は絵入時事新報は如何なと申居候様子なれども、本社に不用のものなれば、之を助けざるは無論、表裏共に無関係にあらざれば許さざる積りなり。

(Ⅲ)

右雑誌之内相談は、渡辺、石川等にて津田も仲間之よし。津田は大坂より帰りたるを不平に思ひ居るよし。

(Ⅳ)

渡辺も石川も文章の拙なる者にて、此者等が不平などと云はずして文の脩業致し、ほんとふに社説が出来る様になれば、老生は快く之に譲渡す積なれども、自分を顧みずしてグヅグヅとは、自省之明なきものなり。

(Ⅴ)

前文之次第に付、老生唯今之考には、渡石輩をして騎虎の勢に至らしめず、程好く、まのわるくないやうに致す積りなれども、若しも彼等がうぬぼれより六ヶ敷事を申つのり、是非共伊藤を擯けよなと申して、力むときは如何すべきや。伊藤を擯るは社の不利なるゆゑ、渡辺、石川等を其りきむままにして、退社せしむ可きや。さりとは血気無辜之少年、甚だ気の毒なり。是れには老生も当惑致し候。唯今渡辺、石川が去りたりとて、老生が全力を尽せば、社説に困りは不致。又雑報は他の少年にて出来可申なれども、生も老してますます多事なるは好む所にあらず、御考可被下候。(『書簡集』第6巻60/61頁)

これほどの書簡が残されていようとは、石河も想像だにしていなかったに違いない。私としては、『続福沢全集』編纂の段階までにこの手紙が発見されていなくて本当によかったと思う。石河によって握りつぶされて日の目を見なかった可能性があるからである。

まず(Ⅰ)には、やや輪郭が不明瞭なものの、騒動の発端が記されている。石河と渡辺は最初に総編集である伊藤に権限の一部を譲渡するよう迫ったらしい。その権限が何であったかははっきりしないが、(Ⅳ)の記述からみて、社説執筆にあたっての社説記者の自由裁量権であったようだ。署名入りの高橋論説はまったくのフリーパス、自分たちが執筆した無署名社説は福沢によって大幅に添削されている、もっと自分たちの意見を表明したい、というわけである。

社説記者からのこうした要求によるものか、すでに10月16日付社説「政事を以て私に殉ずるなかれ」には、「石川幹明草」と執筆者の署名が入っている。社説記者のアイディアに由来するカテゴリーⅢとⅣは署名入りとするように編集方針が変更されたようだ。こうした社説は同年末まで確認できるが、その後はまた無署名となったようである。

次の(Ⅱ)には、騒動の少し前に、渡辺・石河および(Ⅲ)にある津田純一とから雑誌創刊の提案がなされたことが示されている。徳富蘇峰の民友社が刊行する『国民之友』の創刊は1887年02月、志賀重昂・三宅雪嶺らの政教社による『日本人』創刊は翌88年04月のことであった。渡辺・石河・津田らの申し出もそれらの刊行に影響されてのことであろう。とりわけ『国民之友』の成功が彼らを大いに刺激したのではないか。

88年秋の段階では両社とも雑誌専門で新聞は創刊していない。新聞で先行している分だけ新雑誌も時事に有利だという考えが3人にはあったのかもしれない。ただ、現実のビジネスとして考えると、新聞が成功しているからといって雑誌が売れるとは限らないのである。それは現代の新聞社系総合雑誌が軒並み苦境に立たされていることからも、明らかであろう。日刊紙が毎日数百万部印刷されているとしても、その事実は系列の雑誌数万部の売り上げに結びつかないのである。

ことに時事新報社のスタンスは民友社に近く、推測するに、第2『国民之友』では意味がない、という福沢の判断は正しかったと思う。それに慶應系の雑誌としては、限られた会員だけのものとはいえ、『交詢雑誌』(1880年創刊)がすでにある。

民友社の社屋が赤坂榎木坂から京橋区日吉町20番地に移転したのは、この書簡が書かれる2ヶ月前の88年07月のことであった。現在の銀座8丁目北側にあたる。時事新報社は南鍋町2丁目、現在の銀座6丁目南側にあって、その間は宗十郎町(銀座7丁目)を隔てた1丁に過ぎなかった。これは、1888年07月から10年間余りの間の、明治の青年蘇峰と天保の老人諭吉との物理的距離が、約100メートルであったことを意味する。

さらに、(Ⅱ)の後段にある『絵入時事新報』のプランは、『東京絵入新聞』が1888年03月04日から連載を開始した挿し絵入り新聞小説、中村福助作「裏見富士女西行」の大成功が影を落としているようだ。同紙は連載を始めるにあたってカラー版の付録を無料で配布したが、その挿し絵は、毒婦お吉が女芸人から大名の側室に成り上がったすえ、最後には尼法師となるその物語のプロットを1つの画面に描いたものであった。

毎回扇情的な挿し絵を含んでいたその連載は成功裏のうちに06月まで続いたので、それを見ていた渡辺・石河の両人は、同じような趣向の紙面に変えられないか、と福沢に申し出たのではなかろうか。当時の『時事新報』には娯楽性が少なく、報道目的以外のイラストも、連載小説もなかった。高級紙とはそういうものだ、という福沢の信念にもとづくのかもしれない。その代わり高級品の広告が満載で、当時の中上流階級が好んだ品々がどのようなものであったかが手に取るように分かる。諭吉としてはそうした読者層を大切にしたいという意向があったのではないか。

ともかく、1888年09月頃の渡辺と石河は、先にも触れたように、自分たちが書いた社説は大幅に手直しされてしかも無署名での掲載、雑誌や紙面リニューアルの企画も却下、というはなはだ不愉快な状況に置かれていたと推測できる。

さて、10月22日付書簡で、福沢の怒りの筆鋒はさらに続く。(Ⅳ)には、従来まで気づかれてこなかった重要な記述がある。それは、「ほんとふに社説が出来る様になれば、老生は快く之に譲渡す積」とある部分で、この記述から、創刊6年半の時点で渡辺・石河は社説欄を譲渡するよう福沢に迫っていた、ということが分かる。

このような裏の事情は、石河が書いた『福沢諭吉伝』には一言も触れられてはいない。福沢と石河との間には何の問題もなかったのような書きぶりである。『時事新報』の発展を扱った第34編「時事新報」第10「「時事新報」の社説」の冒頭には、まず、

「『時事新報』の社説は創刊以来晩年大患に罹らるるまで凡そ十六年間に亘りて自から筆を執られ、然らざれば厳密なる校正を加へられたものであつて、先生は実際主筆の任に当られたのであつた」(第3巻256頁)

とあり、さらに、

中上川は社務を処理する間に社説も書いていたが、専任記者として社説の起草に従事したのは渡辺治、高橋義雄、及び石河幹明(著者)であつた。渡辺は「大阪毎日新聞」を引受け、高橋は洋行することとなり、明治二十年前後に社を去つた後は筆者が専らこれに当り、晩年には北川礼弼、堀江帰一の両人も社説記者となつたが、これも亦他に転じたので、著者は入社以来先生の逝去後大正十一年に至るまで、社説専任として「新報」に従事していたのである。(『福沢諭吉伝』第3巻261頁)

とあって、徹頭徹尾福沢に忠実だった石河を自ら演出している。ここで菊池武徳について触れていないのは不自然である。その上、渡辺が退社した時期を高橋と同時期の1887年頃とすることによって、あたかも問題の1888年には自分が唯一の社説記者であったかのような印象を読者に植え付けてようとしているのである。

さて、書簡の分析に戻るならば、(Ⅴ)には、総編集伊藤と社説記者渡辺・石河のいずれかを選ばなければならない場合は、伊藤を残すということが明確に示されている。福沢の伊藤への評価はそれほどに高かったのである。いっぽう、社説記者の2人については、いなくてもどうにかなる、という軽い扱いにすぎない。だが、社説は毎日掲載しなければならないから、菊池を含む3人が同時に退社してしまっては、福沢への負担が過大になる。そうしないで済ませる方法を探っている、というところで、この10月22日付書簡は終わっている。福沢はどのようにして丸く収めるつもりであったのか、残念ながらそのことについては何も書かれていない。翌々日に出された書簡は、すでに事態の収拾を告げている。10月24日付中上川宛 書簡(1325)は次のようなものだ。全文を掲げる。

拝啓。一昨日書を呈して、新報局云々之義内申進候得共、爾来多少之論談を以て、事は治まり申候間、さまで御心配被下間敷。畢竟人事不慣之少年輩が一事之発症たるに過ぎず。失敬と申せば失敬なれども、又大に恕すべし。老生は例に従ひ少しも含み不申、御安心可被下候。右要用而己、早々頓首。

つまり、10月23日に何かがあったのである。「多少之論談」とはどのようなことなのであろうか。書かれていないので推測するより仕方ないが、それは後に述べることにして、ともかく、社説記者3名全員の退社は防ぐことができたのである。そしてほとぼりが冷めた10月29日の石河宛 書簡(1326)によって、このクーデタ騒動に決着がつけられたことが改めて確認できる。

改て申には無御座候得共、小生も年漸く老し、聊か気楽にして残年を消し度に付ては、新聞の社説、常々御苦労御気の毒に候得共、尚一層御勉め被下度、就ては菊池氏も筆端尚至らざる所多けれども行々は必ずものになり可申被存候間、同氏へも勉強するやう被仰含、何卒老生をして閑を偸しむるやう呉々も奉願候。余は附口頭候。頓首

渡辺にも同様の書簡が送られたのであろうか。彼は早世してしまったので、その辺りはよく分からない。ただ、88年末までの署名入り社説にも渡辺の名は確認できないので、福沢との関係の修復はできなかったのではなかろうか。福沢書簡で、10月22日付の次に渡辺の名前が出るのは、翌89年01月23日付中上川宛書簡(1361)で、彼を事実上の解雇にしたことを伝えるものであった。