昭和版『続福沢全集』「附記」

2010-11-14

昭和版『続福沢全集』第5巻(1934年04月30日発行)737頁所収の「附記」を公開しています。

『福沢諭吉の真実』では、75頁に一部の引用が掲載されています。

  • 「福澤」を「福沢」と表記しています。

以上の点を踏まえ、原則として『福沢諭吉の真実』に掲載されている表記を採用します。 例外として、繰り返し点の不採用等の処理を行うことで読みやすくしました。また、「筆政」の表記を採用しました。

本文

次記の一篇(管理人による註)は明治四十四年彼の大逆事件のあったとき、編者が起草して「時事新報」に掲げた社説である。 私は明治十八年時事新報に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事していたが、同二十年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになった。 当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるることもあったが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた。 固より社説記者は私一人のみではなかったが、私が筆に慣るるに従って起稿を命ぜらるることが多くなり、二十四五年頃からは自から草せらる重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といってもよいほどであった。 勿論其間にも私自身の草案に成ったものも少なくなかったが、先生は病後も私に筆記せしめられたものがある。 即ち本篇中の「先生病後篇」と題する七十余篇がそれである。 三十一年九月先生の大患以来大正十一年時事新報社を辞するまで約二十何年間は私が専ら社説を担任していたので、前後三十何年間に私の執筆した社説の数は何千を以て数うるほどであったろう。 其数は随分多かったけれども不文短才ただ日々の責を塞ぐために匇々執筆したもので、別に出色の文字もなく今更ら赤面に堪えざる次第であるが、其中には兎に角に「時事新報」の社説として多少読者の注意を惹いたものもないではない。 今「続福澤全集」の「時事論集」を編纂するに当り、当時の新聞を手にして自から懐旧の念に堪えざるの余り、僭越ながら左の一篇を茲に附記したるは、聊か驥尾に附するの痴情として偏に読者の諒恕を乞うところである。

管理人による註

文中1行目と10行目に「一篇」とありますが、実際には、738頁から763頁にかけて10編の社説が掲載されています。その10編とは、

です。